12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 16:13:28 ID:QYDf2yVx0
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 16:16:20 ID:QYDf2yVx0
以上
>>10-12は、太政官指令(明治10年3月)の「竹島外一島」の意味することについて。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 16:56:45 ID:QYDf2yVx0
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 17:12:36 ID:QYDf2yVx0
「偽装修好条規」「カモフラージュ指令」
かの太政官指令は日朝修好条規にはじまる「カモフラージュ指令」
(一見、ベンチャkラ指令に見えるが、実はもっと別な朝鮮半島
属国化、併合まで睨んだ。)ものだったという可能性もある。
そうなら、もとからかの外一島は、幕末から「リャンコ島」と
呼ばれていた現竹島を日本の領土として外国に譲る気なぞ
毛頭ない意思にもとづくものであったことは明白である。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 06:30:18 ID:+vWSnD/30
NHKの「篤姫」で、勝海舟が篤姫に「長州征伐」に対する薩摩藩の姿勢、意図を
伝えた情報の一端がしのばれる。勝が情報を得ていたのは前島からだけとは限らない
だろうが。とにかく前島が江戸に帰ってきたときの徳川幕府海軍奉行は勝海舟だった。
http://www.tonome.jorne.ed.jp/area/yubin.html 薩摩藩(=鹿児島)では、西郷隆盛や大久保利通らと話をすることもできました。
しかしここで密は、薩摩藩が幕府を打ち滅ぼそうと計画していることが分かったのです。
密は日本の国があぶなくなると思い、それを幕府に知らせるために1年ほどで江戸に
帰ってきました。江戸に落ち着いた密は、幕府の開成所の数学の先生になりました。
この年に、幕府の将軍、徳川慶喜は、大政を京都の朝廷に奉還しました
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 06:33:51 ID:+vWSnD/30
前島密は若いときから海図の実情を知る立場にあった。
海軍操練所出身の先輩、後輩と人脈をもっていた。
「23歳の時、幕府の海軍操練所で勉強していた密は・・・」
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 15:22:10 ID:+vWSnD/30
NHKの「そのとき歴史が動いた」で「前島密は薩摩藩から命を狙われたことがあった。」
とあって、その理由として「手紙が届かなかったから。」と言ってたが、薩摩藩の英語塾で
英語を教えていた前島が江戸に上京する理由が、薩摩藩(薩長連合、倒幕運動)の動きを
知ってそれを幕府に通報するためだったということなら薩摩藩から見れば、前島密(来輔)
は「幕府の密偵」と見なされるのは当然であって、命を狙われるのは当然だな。
その場合は、手紙が、どうのこうのの問題ではないと思える。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 15:35:52 ID:+vWSnD/30
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/16(火) 00:49:53 ID:k1iCkt6p0
内藤って言う人、日露戦争を悪い方向にしか考えていなけどさ。
セオドア・ルーズベルトの話や孫文の話に出てくるスエズ運河で働いていた
アラブ人が孫文に語った話や、フィンランドで「トーゴービール」が何故
あるか、内藤っていう人には少し考えて欲しいね。
ポーランドには、結構、「トーゴー」って言う名前の人が多いそうだ。
http://blip.tv/file/1491367
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/16(火) 13:56:46 ID:k1iCkt6p0
この流れから言って、1899年の「大韓地誌」(玄采)とか1905年の島根編入が、
帝国主義とか植民地主義とは関係ないことは明白だ。帝国主義とか植民地主義は、
ロシアであることは当時の英米からもそう見られていた。
征韓論
大院君派と閔姫派の内紛
1873年
・11月 高宗親政 大院君失脚(摂政の座を降りる)
・閔氏が政権を取る。大院君系列の人々は追放・流刑・処刑等で追放。
・閔氏一族の官吏30数名 高官に
・12月 明成皇后の宮殿に仕掛けられた爆弾が爆発
・朝鮮人で日本を見るものが多くなり、開明派は力を持つ
1875年:
・江華島事件(雲揚号事件)
・日朝修交条規
・西南戦争勃発
・朝鮮修信使
第一次団長は金 綺秀(外務大臣井上馨はロシアの動向、意図について警戒するように忠告)
1880年:第二次修信使団長金弘集(中国領事館において中国の参事官黄遵憲が書いた「朝鮮策略」を知る。つまり中国の朝鮮に対する要望、1親中、2契日、3盟美 であることが伝えられる。金弘集は「朝鮮策略」を持ち帰る。)
(その間も大院君派と閔姫派の内紛が続く。閔姫は「開明、人材登用」の大義名文で親戚、縁戚を多数高官にして怨まれた。)
1892年:大院君爆殺計画発覚
1894年:閔政権 上海に刺客 洪鐘宇を送り、開化派の金玉均を暗殺
金玉均の遺体は清の軍艦咸靖により朝鮮に届けられた。
遺体は六支の極刑(凌遅刑)。
父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏と娘は奴婢として売られる。
1895年10月8日:閔姫暗殺事件
1896年
・1月20日 三浦梧楼以下48名 証拠不十分にて免訴(広島地方裁判所)
・怪文書「各大臣が日本兵と共謀して謀反、国王を退位させようと計画。ロシア公使館に逃げて加害を免れたし」が高宗に届く
・2月 ロシア軍王宮突入 高宗、世子ロシア露国公使館へ (露館播遷、俄館播遷1896-1897)
1896年:大院君派への大弾圧
1900年:義和団の乱
1902年:満州還付条約
1903年:禹範善、純宗の放った刺客 高永根、魯允明によって広島県呉市で暗殺
1904年:満州還付条約の不遵守の意図決定
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 17:08:17 ID:7WuDianu0
今日の韓国国民は「大韓帝国時代の海事関係者、政治家の全ては売国奴だった。」
と言いたいんだね?
竹島の位置を言うと、経度は東経131度52分である。
一方、大韓帝国勅令第41号(1900年)の前年に玄采という人によって編纂された
「大韓地誌」では「朝鮮領は東経130度35分まで」としている 。
こればかりでなく、六分儀など近代測量技術が確立した明治時代から昭和に至るまで
よく知られる十数冊ある韓国の海事関係図書で、韓国の領土の東端を竹島の位置
(東経131度5 2分)までとした図書は一つもない。
この話をすると韓国側は「日本の軍国主義で威圧されて無理矢理に書かせられた。」と
後講釈で言い訳する。
だが「無理矢理書かせられた。 」という著者の日記とかの根拠は何も示されてない。
つまり今日の韓国国民がいわんとすることは、「かつての韓国の海事関係者や政治家は、
一人として憂国の士はいなかった。
全ての韓国民は日本の軍国主義を恐れて本当のことを言わなかった。
特に政治家、海事関係者は全て韓国の領域の東端の位置、経度の記述について
日本側の主張に唯々諾々として阿り、竹島を韓国領外とした売国奴だらけだった。」
と言ってるようにしか聞こえないのだが・・・
>>19 当然だよ。日本人が作った人工言語なんだから。
福沢諭吉もはじめはカナ漢字交じりの表記を普及させようとしたんだけれど五十音は彼らには難しすぎて教えられなかった。
そこで諭吉の弟子である井上角五郎が母子音あわせて半分以下の二十四種類で済む(そう。アルファベット26文字より少ない)ハングルを考案したんだ。
これによって世界一知能の低い朝鮮人と(むろん朝鮮人同士の間でも)言語による意思の疎通が可能になった。
もっともそれで話が通じるかどうかになるともう一段高いハードルがあるようだけど。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 19:31:37 ID:i6DxUiKm0
内藤教授らの理屈は喩えでいうなら、明治時代の裁判記録を調べた人間がいたと仮定すると・・・
「この明治時代の裁判記録には資料として国語辞典も六法全書も添付されてない。
だから、この裁判は国語や裁判所法を無視してされた裁判だ。」って、言ってるのと同じ。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 00:11:54 ID:vtgUzuUw0
内藤って帰化人っつーか北朝鮮のスパイくさいな
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 07:44:58 ID:vtgUzuUw0
昔、安保反対運動で北朝鮮工作員(スターリンのプロパガンダ)がつかった
手法に似てる。その詭弁に騙されて一生を棒に振った人も多い。
内藤のやりかたは韓国と日本を喧嘩させようとする手法。
韓国を孤立化させるため(北朝鮮の戦いを有利に運ばせるために)合理的思考が
苦手な権威主義、オッチョコチョイの韓国民を煽ってる。
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 08:10:58 ID:vtgUzuUw0
竹島(東経131度52分)
大韓帝国は1900年勅令41号が公布される前年の1899年「大韓地誌」玄采は、韓国の
東端を130度35分とした。大韓帝国政府学部省の委任で編纂された図書だから
当然に韓国の学校で多く使われた。当時、この領域で韓国で社会問題になった
なんて記事は見つからない。翌年、1900年大韓帝国勅令41号が布告される。
それをもって韓国は「石島=竹島(独島)と主張していた。だが大韓帝国勅令41号は
「鬱陵郡所管の島は鬱陵島と竹島(チクトウ=現在の竹嶼)と石島。東西六十里南北四十里」
と定めたということを新聞で広報解説する記事がこのほど見つかった。
韓国の1里は0.4kmだ。
つまり鬱陵島を中心にした東西24キロ、南北16キロの範囲の鬱陵郡にはどうやっても、
約88kmも離れている当時「リャンコ島」と呼んだ現・竹島は入れようがない。
韓国特有の牽強付会、「石島=独島」は嘘がバレて完全に破綻した。
それで、内藤教授や田島陽子らを使って「やれ植民地政策だ」ことの「軍国主義だ」とか
「帝国主義」だことのって騒いで、韓国併合中に韓国人が言ってたことは全て日本政府の威圧、
や強制によるものだったと言い出した。それなら 日本がポツダム宣言受諾した後、連合国占領軍の
マッカーサー総司令の軍政統治での↓はどう説明するのだ?
1947年「朝鮮常識問答 崔南善:大韓帝国東端130度56分23秒
1948年「朝鮮常識」 崔南善:大韓帝国東端130度56分23秒
この崔南善という人は1919年の「独立運動」のとき命掛けで独立宣言書を草稿した人だぞ。
単なる日本贔屓とかとはわけ違う。筋金入りの憂国の士だ。みるとこ愛国心は誰よりも強く
国家国民のためなら命を欠けることを厭わない正義感の強い良識を重んずる「真実の人」だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95 崔南善という人は、かの時代、米国に逃げてって自分たち家族だけは安全な立場から、他の韓国民の
命を自分たちの権力闘争の道具に使っていた韓国財閥の犬の李承晩一家とは違って、韓国人民と運命を
供にしようとした人だぞ。
韓国民よ、どっちを信用するんだ?
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/23(火) 15:12:44 ID:0h0SFdqj0
1、竹島一件(安龍福事件)1692年
安龍福は鬱陵島から見える松島について終に正確な方角を言うことはなかった。
実際に安龍福は鬱陵島に上陸していたわけだが、安龍福が鬱陵島からもし
実際に松島を見ていたなら、 「方角」を言わないということは「海の男」としては
ありえないことなのである。 竹島一件後も、安龍福は終に、一度も鬱陵島から
見える松島の方角について正しく言ったことはない。 つまり安龍福は日本に
連行されて松島の存在を日本人から聞いた後、なんらかの意図を持って、
「于山島は松島」とこじつけの主張をはじめたことが明らかである。
2、そのようすを「妄作」(1697年2月14日に対馬藩が安龍福について朝鮮の
東莱府使に問い合わせし、それに対して朝鮮政府は回答書で安龍福について
評価している。)の性癖があった安龍福の都合のよいように主張したことが
記録されているのが『粛宗実録』(1728年)である。竹島の帰属に関する書物
としての証拠力はまったくない。安龍福の「妄作」の性癖が再検証されている
だけである。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/23(火) 15:16:11 ID:0h0SFdqj0
3、その後、安龍福の牽強付会に迎合し憶測や歴史捏造で、『東国輿地志』(1656年)について
の捏造文献が登場しはじめた。つまり安龍福が主張したような「後出しジャンケン講釈」の捏造記述
が現れる。
「輿地志云 ・・・一則其所謂松島 而蓋二島 倶是于山國也」(『旅菴全書』巻之七「疆界考」申景濬1756年)
「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」(『東国文献備考』の「輿地考」申景濬1770年)
のような捏造歴史記述が現れた。現韓国政府は『東国輿地志』(1656年)が、安龍福事件以前に編纂された
官撰書物であることから、この申景濬が記述した「輿地志云 ・・松島・・・」をもって「朝鮮人は古来から
松島の存在を知っていた。松島は于山島だ。だから倭人の言う松島は朝鮮領」とこじつけるような、安龍福と
同じ主張を繰り返してきた。が最近、「消失された」とされていた『東国輿地志』(1656年)が見つかり、
申景濬の言うような記述はされてないこと(『東国輿地志』に松島云々の記述はないこと)が判明した。
つまり「1694年以前に朝鮮人が松島を視認していたという韓国政府の主張は完全に瓦解した。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/23(火) 15:31:33 ID:0h0SFdqj0
4、その安龍福や申景濬の主張を鵜呑みにした記述は、その後、次々と現れ「日省録」(1760-1910朝鮮王朝史書)
にも見られるようになり1793年の頃では『東国文献備考』の記述を受け入れて「臣按本曹謄録 蔚陵外島其名松島
即古于山國也」などと「于山島等=松島」の観点の記述をするようなるが、その後1807年頃になると1807年5月12日
の項に鬱陵島を調査した役人の記録があり 「北有于山島周回為二三里許」と、于山島は現在、竹嶼と呼ばれる島と
いう意味になっていく。
(北に于山島があって周囲は二三里をなしている)と報告している。于山島が鬱陵島の北にあって周囲が
約800m−1200m(朝鮮の1里は約0.4km)であることが分かる。この記述に一番近い島でいえば竹嶼ということになる。
竹嶼は鬱陵島の北東にあって、南北に約700mほどの細長い島である。
朝鮮政府としては、安龍福が牽強付会した「于山島=倭人が言う松島」がいつまでも現場確認(検証、視認)できない
から、否応なく今度は別な島に比定が始まったのである。「太宗実録に出てきた于山島は架空島だった。」とは
歴代朝鮮王朝の役人は言えなかったからである。
1808年編纂の『万機要覧』軍政篇にも『東国文献備考』の「輿地考」での申景濬の記述が、そのまま写されたが、
ここでの記述の「倭人が言う松島」とは、もはや以前の「倭人が言う松島」の位置とはまる違っていた。
もともと松島の位置を知らなかったからである。
それは、日省録の記述から明らかで「朝鮮人が言う『倭人が言う松島』」とは竹嶼(チクトウ)のことを意味する
ようになっていた。
つまり19世紀末になって「開国」するまで、朝鮮政府は「倭人が言う松島」の位置について、実際には把握して
なかったことが明らかなのである。
なんと、安龍福以来、朝鮮人たちは存在位置さえわからない「松島」に于山島だと比定していたのである。
ときとき「于山島は松島」だと牽強付会した「妄作」癖のた安龍福を妄信しただけでなのである。
かすかに、朝鮮側には「小さなチャンス」があった。竹島一件が起きた後の1694年、朝鮮王朝政府は張漢相を隊長
とする鬱陵島調査隊を派遣した。
その調査報告書「欝陵島事蹟」 (1694年張漢相編纂)で 張漢相は「はるかかなた東南東方向に島が見えた。」と
言ってる。 しかし彼は、その島の名前を言っていない。つまり島名が比定されてない。 そして鬱陵島から
「東南東方向に島が見える島」の話はこれっきり、後は、朝鮮史にはまったく出てこないのである。
そうして「朝鮮は17世紀からは松島を朝鮮領だと主張していた。」と強弁できる最後のチャンスさえも
朝鮮政府は失った。
もし、現在の韓国政府のような「于山島は日本の言う現竹島。徳川末期まで倭人が言ってた『松島』だ。」
ということなら、遅くとも、張漢相の時から朝鮮政府は、より明確に「この鬱陵島からはるか遠く
東南東の方角に見える島こそが倭人が言う松島、つまり于山島である。」という主張の記述が、その後、
相次いで見られなければならないはずだが、竹島一件以後もそういった記述の文献はまったくないのである。
もともと政府が派遣した調査隊の隊長、松島視認者公認第1号の張漢相においてさえ、そのような領土として
の主張はなかったのであった。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/23(火) 15:42:25 ID:0h0SFdqj0
5、そもそも太宗実録で登場した「于山島」は架空島
(朝鮮官僚組織が「太宗実録に出てきた于山島は架空島」とはいえなかった理由)
朝鮮政府は公式に19世紀以降は「于山島=松島=竹嶼」という認識になっていた。
その「朝鮮人が言う『倭人が言う松島』」は「日本人(倭人)が言う松島」とは
まったく違っていたのである。
そのことは『日省録』『承政院日記』や『啓草本』から明らかである。
朝鮮政府は、時代によって気がつき方は異なっても安龍福の主張が「牽強付会(妄作)」
と気がついた。だが「太宗実録に出てきた于山島は実は架空島だった。」とも
いえないかった。
鬱陵島空島政策に対して数百年間にわたって違反をし「于山島産鮑」を漁獲し、販売し
続けていた業者や、その自称「于山島の漁業者」の存在を数百間にわたって癒着・黙認
してきた朝鮮半島東海岸の「ヤンバン」たちは、 「実は、これまで于山島産鮑とされて
いたものは鬱陵島産でした。」とか、「太宗実録に出てきた于山島は、実は空島政策違犯
を隠蔽するための政官財癒着の方便でした。」なんていえるはずがなかった。
そんなことしたら一族郎党、職を失うからである。
なにせ数百年にわたって構築されてきた朝鮮王朝体制での「于山島産鮑産業▼癒着構造」は、
朝鮮半島東海岸の各漁港の「隅々まで浸透」しきった朝鮮半島東海岸の「代表的社会構造」、
否、もはや「袖の下経済文化」の朝鮮ではその不文律は「地域的伝統・文化財」ともいうべき
レベルにさえなっていたからである。
その「▼癒着文化構造:の最上級層で甘い汁を吸っていたヤンバンたちが、それを覆すこと
なんてはできっこなかった。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/23(火) 16:14:02 ID:0h0SFdqj0
何故、朝鮮では長年、「于山島」が「存在しえない鬱陵島の西」で
「鬱陵島より大きな島」とされていたか?
これは空島政策と密接に関わっている。
1.西である理由
あるとき、朝鮮王が「最近の鬱陵島がどうなってるか。調査してこい。」
となったと仮定する。で、調査隊は朝鮮半島の港から調査に出かける。
当然に鬱陵島しかないのだから、調査隊はまず海図上の「于山島」(実は
鬱陵島)に到達する。そこには自称「于山島人」が住んでる。
だから調査隊はなんら疑わず「ここから鬱陵島にいくのは、どのくらいかかる?」
と聞く。当時の航海は命掛けなのである。今とは違ってレーダーもない、
無線もない、人工衛星による低気圧の移動予想もない時代なのだ。
半島に家族を残してきた役人たちは、とにかく早く帰りたい。
そういう心境の役人に向かって「いまどきここから東に向かうなんて、そりゃ
無茶。自殺行為ですよ。今年は、この季節なのに潮流が異常でどこに流されていく
かわかりませんよ。悪いことは言わない。やめさない。王宮への報告は潮流が悪く
何度も流され、ついに鬱陵島へへいけませんでしたとか、行って検視しましたが、
何も異常はりませんでした。空島政策に違犯して上陸してるような者はいません
でした、とか適当に報告しておけばいいでしょ。ここで数日、滞在して、その
鬱陵島への渡航日程分を稼いだらいい。そこに干してある鮑はいくら食べても
いいから。」とか、「マッコリに于山島産・干し鮑」の晩酌をさせながら、
海のこと教える。で、役人は考える「こういった美味しいもの食えるのも生きて
ればこそだな。死んだら元も子もない」とだ。結果は明らかだ。十数日後、
「自称・于山島漁業者」の手土産の干し鮑を隊員それぞが、どっさり持たされて、
調査船は、西に「ホームスピード」で向かうことになる。
2、「于山島が鬱陵島より大きい」とされた理由
「半島から鬱陵島が見えないのは手前にある于山島が邪魔してるから。」という
学説がまことしやかに役人に浸透する。
かくして「于山島産鮑産業構造は安泰、メデタシメデタシの巻」の一節です。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/27(土) 02:57:50 ID:yxDH+2vB0
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/28(日) 14:19:59 ID:K+ai90Bf0
かの太政官指令が出される前年(1876年)に、勝海舟と長崎海軍伝習所で第1期生
として同期に卒業した柳楢悦が再編された海軍省水路局の初代局長に就任した。
しかも、かの太政官指令を草稿した前島密は徳川の元幕臣で徳川海軍軍艦操練所での
勝海舟の教え子だ。太政官指令当時では勝海舟は明治政府の「初代海軍卿」だった。
前島密にとっては、その海軍伝習所の「一期生」という日本海軍の中で特別な存在
だった先輩が海軍の運用権、海図の測量調査権で管轄を持って要所に二人もいたのだ。
それなのに、海洋測量の為の機材も権限もない内務省の前島が、徳川幕臣時代には、
沿岸測量業務にも携わったことがある前島密が、六分儀やクロノメーターの効力を
知っていた前島が、当時の最新技術を使った水路局の調査を待たず、調査結果を
待たずに勝手に島を比定するというような、勝や柳の大先輩の二人の顔を潰すような
こと、するわけないだろうが。
そういった日本人の心が理解できない内藤っていう人は、名前は日本人みたい
だけど、あれは中身は日本人じゃないな。
>>34 「★スイス政府観光局(韓国語版)より」のページが消されました。
おそらく韓国系の仕業と思いますが見事なものです。
残る中国サイト等で、スイスではキム・テヒ&イワン一行が黄色地に地図が
書いてある「独島愛Tシャツ」を着ていない事を確認して下さい。
このスレは、本当に勉強になります。m( _ _ )m
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/09(金) 11:48:50 ID:PyTIxZ2S0
柳 楢悦という人は軍人というより数学や水路学に興味があって社会人として歩み始めた人だと思う。
そして彼は長崎海軍伝習所を卒業した後も徳川幕府時代から水路調査に従事していた。
前島密も徳川海軍軍艦操練所の生徒だったとき沿岸部の測量調査に従事したときがあったとの記録が
あるが、そういった意味で測量調査という面では、その実地的な先生、先輩は柳楢悦だったと思われる。
1862年 幕府海軍福岡又右衛門、柳 楢悦(後に初代水路部長)らオランダ人より測量術を学び、尾張、志摩、伊勢沿岸実測
http://www.mirc.jha.or.jp/knowledge/survey/history.html
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/15(木) 01:50:49 ID:OZa7XlEK0
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/15(木) 01:55:10 ID:OZa7XlEK0
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/31(土) 20:15:30 ID:r1smLQ090
最近じゃ「日清、日露戦争は侵略戦争」なんて左翼だって言わなくなってる。
言うのは極左か朝鮮半島人だけ。この内藤っていうのはおかしいよ。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/01(日) 07:21:10 ID:ewHt9prN0
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/24(日) 18:59:04 ID:2zuKcs0L0
こういう売国教授どもに税金が使われているっていうのは腹が立つ。
内藤って、著書の中では石島が”独島”であると断言して書いている一方で、
そのあと中央日報か朝鮮日報かのインタビューで石島が”独島”である証拠はないって認めてしまった痛い人だからな。
あとあれだ、ウサン島が”独島”であると、韓国側の主張をまったく検討もせずそのまま著書に引用して主張していたが、結局韓国側がひた隠ししていた鬱陵島調査員が書いた鬱陵島詳細図のことを知らされていなかったらしく、結局見方をしていた韓国にもだまされて恥をかいた人。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/29(金) 13:28:28 ID:FCE4b7Um0
そもそも、太政官指令の「外一島」の解釈については、蓋然性でしかないものを
、それもイロイロな外交政治状況だけの面だけから主張して、そこから始まって、
「日露戦争のため」とかって最終的に結論している。
その結論に至る論理展開では、韓国側にとって都合の良い事実だけを引っ張り出し
てきて、軍艦天城の報告や、それをとりまく明治政府の官僚機構の管轄権や人脈
などを全く無視して、断定的に主張するのは、到底、「歴史学者」とは言い難いと
思える。単なる外患煽動家に近い人だと思うね。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/31(日) 06:03:09 ID:0LXb6u1n0
内藤教授が最後の切り札にしていた明治10年の太政官指令の証拠能力は以下の歴史観で消滅したね。
明治10年の「太政官指令」での「外一島」(の曖昧)記述については、以下のURLで、すっきり
納得できたな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E5%A4%96%E4%B8%80%E5%B3%B6 「・・・つまり、当時の明治政府での海図編纂の権限、機材は海軍省(水路局)にあった
以上、1877年の時点で(前年に海軍省水路局が改編され柳楢悦が初代局長に任命された)、
海軍省水路局の最新技術による調査が済んでない時点で、勝海舟や柳楢悦の権限を越え、
測量技術や天測航法(天体航法、天文航法)などの航海術での先生でもあった両者の隷下
にある海軍省水路局の調査結果を待たずに、前島密が独断で鬱陵島近海での島嶼の比定、
領有権の帰属先について断言するようなことをできるはずもなかったという説である。
「・・・・
前島密としては海事界での大先達の勝海舟(明治政府においても海軍で枢要な地位に置
かれていた。)が編纂した『大日本国沿海略図』での「鬱陵島二重記載」の誤謬を公表
しなければならない立場になってしまったが、それをするのには、海軍省の最新の機材
を利用した調査もなしに断定できるはずもなかった。
(むしろ、初代海軍卿・勝海舟が編纂した海図の誤謬について公表するのは、内務省の
前島密にとっては、海軍省にしてもらうほうが好都合だった、とも言える。)・・・・・」
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/02(火) 15:58:39 ID:X3kcZ1Op0
内藤正中という人は、日本人や日本政府のする善意、あるいはした善意を
ことごとく悪意にもとづいたものであるかのように、日本人以外に受け止め
させようとする工作・扇動家にしか見えない。
内藤の本には、「鬱陵島から竹島が肉眼でみえる」とのキャプションをつけて、
400mm望遠レンズ+高級カメラで半年粘って撮影した三枚のうちの一枚であることを隠して
印象操作をしている。
まあ、内藤は朝鮮人にだまされていたんだよね。
于山島である竹嶼を、朝鮮人は松島と思っていたわけで。
結局韓国人がひた隠しにしていた鬱陵島調査員の鬱陵島詳細図が出てきてしまい、
それまで朝鮮のプロパガンダ(于山島=現竹島)を信じて著書に堂々と書いていた。
石島も、著書では全羅洞方言の変化説の韓国側主張を引用して本に書いていたものの、
1882年の再開発以降、主な住人が全羅道ってのが嘘で、江原道や慶尚道民であることがばれてしまい、
結局朝鮮日報か中央日報かのインタビューで、「石島が毒島である証拠を発見しなければならない」と答えて
石島が毒島である証拠が現在ないことを認めてしまったからのう。
朝鮮側プロパガンダを鵜呑みにしたがために、学者人生を失ったわけだ。
結局韓国人がひた隠しにしていた鬱陵島調査員の鬱陵島詳細図が出てきてしまい、 X
↓
結局韓国人がひた隠しにしていた鬱陵島調査員の鬱陵島詳細図が出てきてしまったにもかかわらず、
>>14 急いでいた理由は、
この頃、このあたりでは、欧米の捕鯨船が増えたから。
また、イギリスがQuelipartを占領し、ロシアがDageletを狙っていたから。