とんがり

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350名無しちゃん…電波届いた?
【迷える仔猫】
魔王の多彩なキャラクターを横断した思索の旅における最後の寄港地と呼べるフクハン。
キスミの立ち上げた「優れた人格」論の着地点を「キレイな生き方」論へと発展させた。
>>224下にある「キレイに生きたい」スレ冒頭における迷妄と住人からの不理解という試練を経て、
最後にみ〜という真に響き合える対話の相手と巡り合うという一つのドラマが展開されており、
ここに至って、そのフクハンからは煽り属性が薄れ、レスには仄かな詩情さえ宿るようになる。
「人間関係の実践」と「幸福論」との融合という、魔王のフクハン活動の一つの極点であろう。
我々が再三強調する魔王の最終到達点たる第42代魔王スレにおける「頭の良さ」論中においても、
魔王自身が>>163-164の通り、み〜の知性の分析のためにこのフクハンのスレッドを引用しており、
ここからも、魔王にとっての「迷える仔猫」とその「キレイに生きたい」スレの重要性が伺える。
尚、このスレッドの終盤では先述のキスミがフォロー役として登場し、自論との関係に言及しつつ、
更なる発展的な議論を展開するのだが、この件については本総覧の範囲を超えることから別論とする。
また、「仔猫」において芽生えた詩味や遊び心は、純化されて後述する第二期「薔薇」へと結実する。

344 :迷える仔猫 :03/02/01 21:25 ID:/RCRQlc3 ※「キレイに生きたい」より抜粋
僕の言う「キレイな生き方」ということが誤解されやすいみたいだから、少し頭を整理してみた。
僕の考えるキレイというのは、潔癖、純粋、無垢といった現実を無視した理想論じゃないんだ。
僕は、これまでにいくつかの生き方に触れてきた。
僕は、これまで経由してきたどの生き方にも安住することを否定し、
かつそこから得た真実はきちんと包括した上で、なお新しい道を模索してる。
回顧してみると、僕は今までに四つの段階を生きてきたと思う。
@無垢の段階
A悪の段階
B虚無の段階
C賢明の段階
まずはこれらについて一つ一つ説明してみるよ。

345 :迷える仔猫 :03/02/01 21:26 ID:/RCRQlc3
@無垢の段階
汚れを否定する純粋さを特質とする段階。
汚れを知らず敵を知らず、己の罪さえ知らない。ピュアでイノセントな楽園。理想郷。
白紙のままの人間の自然な性として、まずはじめにここを経験する。
もちろん、現実を無視した脆弱な楽園には必然的に破局が訪れる。
人間はキレイなままではいられないという確かな限界がそこにある。
でも、この最も原始的な段階からでも、僕は一つの真実を拾った。
どこまでも拭い去れない汚れへの嫌悪、キレイであることへの希求、
こうしたものが、自分の出発点にあったことだけは否定できない真実だから。
どんなに変わろうと、この原点は忘れずに、包括しておきたい。
そうして、この段階を否定し先に進むことにした。
A悪の段階
@とは逆に汚れを肯定してみせる悪の道。
無垢な期待を裏切った世界に失望することもなく、自らの業に罪悪感を抱く必要もない。
自分がそっち側に染まってしまえばもう傷付くことはないから。
傷つくことへの防衛の欲求から生まれる、悪の逞しさへの憧れから、反動的にここに至る。
でも実は、悪の姿勢を貫くのも楽ではなかった。
絶えない苦悩が自ずとこの生き方の限界を示した。
ただ、世の中に厳然としてある汚れと害意、そして自らの業という苛烈な現実、
この誰もが否定しえない真実だけはきちんと包括しておく。
そして、ここもまた安住の地としては否定し、先を目指した。
351名無しちゃん…電波届いた?:2009/02/08(日) 15:47:19
346 :迷える仔猫 :03/02/01 21:27 ID:/RCRQlc3
B虚無の段階
全否定から全肯定へと謳い0地点を漂う生温いニヒリズムの段階。
何も期待せず、何も期待されず、何も持たず、いかなる拘りも捨てる。
失望も負い目も失う悲しみも必死になる疲労からも解放され、
ただただ気楽に安楽に自堕落に、生死の狭間、まどろみのような弛緩した自由を生きる。
一つの価値を掲げることへの絶望、拘りを持つことへの倦怠から、反動的にここに至る。
しかし、ここでは大きく傷付くことがないないかわりに、喜びや幸せさえも溶解する。
じわじわと腐食し自分が失われるような気持ち悪さのみが最後に残り、この生き方の限界を悟った。
根源的な全ての無価値・無根拠という究極的には否定し得ない真理を包括しつつ、
この段階もまた否定し、さらなる道を模索した。

347 :迷える仔猫 :03/02/01 21:27 ID:/RCRQlc3
C賢明の段階
弱さを否定し勝利・成功・得の原理で動く理性を指針とした価値中立的賢明主義。
ニヒリズムもまた思想的な極端であった。思想的・価値的には「ほどほど」が最も賢い。
突き詰めて考える必要さえなく、矛盾を放置したまま図太く生きればいい。
今までの全ては弱者の論理、今度は逃避の姿勢を反転させ、積極的に勝利・成功・利益を掴むこと、
先を読みトラブルを避け世の中で思いのままに振る舞えるような賢明さ、
つまり経験と気配りと知識から最善の判断をして世の強者たらんとする理性至上主義に行き着いた。
無駄に突き詰めて考えて、バカを見ることよりも、真に理性を働かす中庸こそが賢いと。
強者たることへの欲求が、この段階へと導いた。
確かに何物にも縛られないというだけのニヒリスティックな消極的自由よりも、
世の中を思いのままに動かせ、思いのままに振る舞える力を持つ積極的な自由の方が魅力的だった。
でも、そこにさえ穴があった。美しさの欠如、幸せの不在、埋められない欠損は確かに限界を示した。
もしも自分が全知全能の神だったとしたら、この世に生きることは幸せだろうか。
全ての謎を解き、全てのアイテムを揃え、レベルを最大まで引き上げ無敵の強さを手にした時、
そのロールプレイングゲームに、もうプレイする魅力を感じなくなるような不穏な結末。
だとしたら、そんな虚しい最終地点を目指して切磋琢磨する過程に真の幸せはあったのだろうか。
一つレベルを上げたとき、新たなアイテムを手に入れた時、倒せない敵を倒した時は確かに嬉しい。
でもそれが人生に許された幸せの全てなのかな。まるで目の前にニンジンを吊るされた馬。
時々餌を貰ったって単調な生き方に変わりない。いわば、未来の奴隷になったような不自由な生き方。
力を求めて奔走した挙句、次々と「今」を切り売りして手段に変えて、見返りを期待して投資して、
自分の命・時間という資源を失うか、残したとしても何がしたかったのかわからなくなってしまう。
一生懸命働いてきた人が、定年を迎えて自分の居場所を見失ってしまうように。
もっと美しく、もっと自由な生き方こそが幸せだと思う。だからこの生き方にもまた限界が見えた。
だから僕は、世間に生きるための経験・知恵の不可欠という真実を包括して、なお新たな道を模索する。
352名無しちゃん…電波届いた?:2009/02/08(日) 15:49:21
348 :迷える仔猫 :03/02/01 21:51 ID:/RCRQlc3
僕が目指すキレイな生き方というのは、@のことじゃないんだ。
@からCを経由して辿り着く新たな道。ここまでの段階を否定し、かつ包括して先に進みたい。
悪も虚無も受け止める寛容さ、しかし決してそこに染まりきらない気高さ、そして賢明さ。
これらを全て備え合わせた上で、原点を見つめなおしたい。キレイであることへの希求を。
強く、そして美しく。生きることを肯定する力に溢れた幼心をここで取り戻したい。
この肯定性さえ取り戻せば、ここまでの@〜Cの全てさえ、四季の移り変わりのような、
健康とたまの風邪のサイクルのような、より高い視点から全体を肯定し直せるものに変わると思う。
ただ注意しないといけないのは、Cの後に何の確かな基盤もなく生の肯定性と解放を謳ったとしても、
ポスト・モダンの二の舞になってBへと逆戻りするだけだということ。
確かな基盤がなくて、生を肯定する活力は維持できない。生まれ持ったままの力はすぐに尽きる。
本当はただ「肯定性」とか「自由」とか「幸せ」とか、言葉で言っても何にもならないんだ。
それどころか、肯定性の泉源を「語りえない」と言ったって、それ自体には何の価値もない。
「語りえない」「『語りえない』と言って落着することさえ許されない」「どこまでも逃走せよ」、
これだけのことを言いながら、結局、ポスト・モダンもまた言葉だけだった。
全てを否定し、「生の肯定性を供給・確保する基盤」のようなものまで固定的だと破棄した結果、
根拠のない肯定性はすぐに尽きて±0のBへと逆戻り。
ポスト・モダンが決定的に世界を変えることなく、20年前の一時的な流行に終わった理由。
もうこの失敗は繰り返したくない。だからといってCに止まることも拒否したい。
「生の肯定性を供給・確保する基盤」が何かなんて語れない。だけど決して伝えられないものじゃない。
チョコレートの味を言葉で教えることはできないけど、君にチョコレートを売ってる店は教えられる。
チョコレートの味は教えられないけど教えられる。学べないけど学べる。真理はきっとここにある。
幸せは何かなんて語れない。だけど、愛する君にだけは幸せを教えられる。教えられた。

349 :迷える仔猫 :03/02/01 21:52 ID:/RCRQlc3
他者との関係。コミュニケーション。そして偉大な他者、尊敬する人。僕の師。
僕のおぼろげに見え始めてきたこの先の地点を語ろうとすると、こんな言葉しか出てこない。
ここから先は、一般論では語りえない。僕が求めているのは、僕と君とのもっと具体的な対話。
僕がこのスレを立てて、みんなに求めてたのはこういうことだったんだ。
まずは僕の悩みの地点を理解してほしい。そして、一緒に語り合いたい。
「人間はキレイなままではいられない」なんて言葉はもういらない。
@を否定しAを包括した僕にはもう反復された言葉にしか聞こえないから。
「経験が足りない」という言葉も必要ない。僕の位置付けでは「経験」はCの一環にすぎないんだ。
だって、経験と気配りと知識、つまり理性を働かせて、
お金を稼ぎ仕事に成功し有利な人間関係を築き上げたとしたって、幸せとは限らないから。
「経験」も「お金」も、その必要性を包括しつつ、そこに止まることは拒否する。
「お金は確かに必要だけど、お金だけが全てじゃない」これを悟る人は多いのに、
「経験は確かに必要だけど、経験だけが全てじゃない」このことを悟れないのはなぜだろう。
もちろん、幸せな生活の実践としての他者とのコミュニケーションの経験は大切だけど、
世間に生きる知恵をつけるための経験はお金と同じことだよ。
だから僕が生き方について悩んでるからって、それは経験不足の一言で片付けられるものではない。
「経験が足りないからだ」という言葉は「お金が足りないからだ」と言ってるようにしか聞こえない。
353名無しちゃん…電波届いた?:2009/02/08(日) 15:51:34
350 :迷える仔猫 :03/02/01 22:18 ID:/RCRQlc3
それなら今すぐ他者とのコミュニケーションを経験すればいいと言うかもしれない。
でも、それも違うんだ。なりふり構わず誰とでも交わればいい、自由だ何でもありだというのは違う。
「何でもあり」は「何にもない」と隣り合わせだから。それは、ポスト・モダンの罠だった。
その活力を持続させる根拠がどこにもなくて、結局はBへと回帰してしまう。
コミュニケーションを始める他者は、誰でもよかった他者の一人じゃいけない。
どこかで選別が働いて、出会うべくして出会った、運命的な君との出会いでなくてはいけない。
他でもない君との出会い、肯定される出会い、まさに君と出会えてよかったと言える根拠が必要。
だから、捨てきれない価値はどこかに残る。そういう基盤に裏打ちされた出会いでなければならない。
それはさっき言った「生の肯定性を供給・確保する基盤」と重なると思う。
その基盤が何なのか、僕にはまだはっきりしたことは言えない。
ただ、まずは僕のいる地点を理解してほしい。そういう人こそが真に価値ある出会いに繋がると思うから。
だから僕はここで語り続ける。語りえないものについて、言葉を紡ぎ続ける。
キレイに生きるために、僕は君との運命的な出会いを求めてる。
でも、どんな言葉も形だけになってしまう。命を吹き込んでくれる君がいないと、乾いてしまう。
だから、言葉の限界を超える魔法の言葉を僕は添えることにする。それは、例えばこんな……
「君の言葉を待ってる」[email protected]

390 :迷える仔猫 :03/02/03 18:19 ID:epVp5/WL
もっと慎重に、考えてから行動しろと人は言う。
ところが、どこまで考えてみても答えは出ない。
考えてばかりじゃだめだ、行動しろと人は言う。
ところが、闇雲に生きてみてもやはり失敗する。
適度なバランス感覚、中庸が大切だと人は言う。
ところが、中庸とは何かを考えても分からない。
人に聞くな、それは語れないものだと人は言う。
そう語る人自身、中庸を知らないと僕は気付く。
幸せな人は、中庸を生きているのだと人は言う。
僕は、幸せな人達と交わって生きようと思った。
語りえないものを、身体に伝えてくれる人達と。
そんな出会いを、僕はいつも求めて生きている。
「君の言葉を、下さい」 [email protected]
354名無しちゃん…電波届いた?:2009/02/08(日) 16:06:02
435 :迷える仔猫 :03/02/08 03:47 ID:q3qrN+CQ
>>410からの続きで時間と命の話。

時間は命だと思う。単純に考えても、一生分の時間を奪われることは命を失うことに等しい。
時間の本質は変化。日の昇り沈み、季節の移り変わり、身の回りの様々な変遷、
みんな、何かの変化によって時間を捉えてる。この世に変化がなければ、時間もなかった。
砂の落下、水晶の振動、セシウム原子の放射…、人は自動的に変化を計測する機械を時計と名付けた。
時計の進みに従って、人間の時間も進んでいく。体は成長し、衰え、いつかは寿命が尽きる。
でも、時計の変化も肉体の変化も、僕たちにとっては本質的じゃない。
一番大切な変化は、心の動きだと思う。
今まで体験しなかった気持ち、感情が沸き起こること。
理解されなかった自分が理解されること。理解できなかった相手が理解できること。
共有できなかったものを共有して、心が触れ合って、ふるえる。
命を刻む時計は、水晶の振動じゃなくて、心の振動、魂なんだね。
心が動かないうちにただ時計と肉体の時間だけが過ぎていくのは、
まるで内容を入れそこねた空箱を出荷するみたいに、悲しい。
時間はただの箱。魂を注ぎ込むことで時間は命になる。
僕たちにとって大切な時間の中身は魂、心のふるえ、それはコミュニケーション。
僕たちのコミュニケーションは言葉から始まる。言葉は魂。言霊。

436 :迷える仔猫 :03/02/08 03:48 ID:q3qrN+CQ
コミュニケーションの本質は「同じ」と「違い」。
もし僕と君があまりに違いすぎたら、コミュニケーションはできない。
まずメディアの一致が必要。同じ日本語を話すから僕と君は会話できる。
同じアドレスを知ってるから、メールを送りあえる。同じ番号、周波数の電波で電話ができる。
そして、同じ前提知識、ルール、感覚を持っているから、安心して語り合える。
もし僕がいつ何をするか分からない獣や、
全く理解できない異常者だったら、きっとコミュニケーションは始まらない。
だから、コミュニケーションにはまずなにより僕と君の「同じ」が必要。
でも、もし僕と君が本当に全く同じだったら、今更コミュニケーションをする必要はない。
それどころか、もし君の今考えてることがそのまま僕にも分かり、
君の感じてることをそのまま僕も感じ、記憶も痛みも目の前の風景も、
全く同じに分かるとしたら、もう「僕と君」の違いさえないことになる。
僕は君で君は僕、同じものの二つの呼び方にすぎないことになる。
未知な部分があるから興味が沸く。届かない彼方の存在だから惹かれる。
こうしてコミュニケーションが始まる。
だから、コミュニケーションには僕と君の「違い」も必要。
「同じ」と「違い」の微妙なバランスから始まるコミュニケーション。
コミュニケーションとは僕と君の「同じ」を広げていくプロセス。
僕にあって君に無いもの、君にあって僕に無いもの、
互いを理解しようと語り合い、触れ合って共有の領域を広げていく。
共有の経験、共有の気持ち、感情。新たな違いを発見しては、それを埋めていく。
こうして二人を重ねていく過程、これがコミュニケーション。
一つにはなれない、だけどどこまでも一つに近付いていく。
コミュニケーションの過程が心のふるえを起こし、魂を生成する。
355名無しちゃん…電波届いた?:2009/02/08(日) 16:07:25
437 :迷える仔猫 :03/02/08 03:49 ID:q3qrN+CQ
二人が重なっていく過程が二人に魂を宿らせる。魂が重なっていく。
魂は時間の中身。それぞれの時間にはそれぞれの魂が宿る。時間を重ねよう。命を創り出そう。

時間は命。
昔の人は大変だった。まず生きなきゃいけない。怪我をする病気になる、雨風雪台風、外敵もいる。
暑すぎる寒すぎる疲れる、不快な環境じゃ楽しめない。労働に時間を奪われて余暇がない。
だから、仕方なしに時間=命を削って、生存と安全と快適さを確保するために労働して、
さらにこれだけの労働をしても余りの時間を残すために便利さ、テクノロジーを研究した。
必要なものを手に入れるために、自ら道具となって働いて、時間、命を代償にした。
合理的な頭の指令に従って、体は奴隷となり、なんとか生きていけた後には残りの時間はなかった。
でも、人は一生懸命競争しながら近代化して、テクノロジーを進歩させて、
やっと命を取り戻すことができる時代が来た。
快適な環境を作りながらもなんとか余暇を残し、そこで本当の自分の時間を持てるようになった。
だけど、近代化の生き方が染み付いてしまった人は、せっかく持てるようになった自分の時間を
再び道具に変えて未来に投資してしまう。見返りを期待して、「今」を我慢することの繰り返し。
頭が体を支配してしまったせいで、競争して人に勝つという優越感や嫉妬に突き動かされて、
もう人と競う必要はないのに、いつまでも体を奴隷にして働きつづけてしまう。
優越感は頭の快感、嫉妬も頭の衝動。よりたくさん稼ぎたい、より上の地位につきたいって、
もしその目標をクリアしたって幸せにはなれず、さらに次の目標のための道具となるだけなのに。

438 :迷える仔猫 :03/02/08 03:50 ID:q3qrN+CQ
僕は、そんな生き方はもうやめて、自分の時間を創っていきたいと思う。
そのためには、コミュニケーション、僕と君が相互作用して重なっていく過程。
魂を注ぎ込み、心がふるえる変化によって命の時間を紡ぎ上げていく。
頭だけじゃなくて、身体と心で感じる自由を解放していく。
語り合うのはいい。言葉を受け止めるのは頭でも、それは心に届くと気持ちと感情が動く。
会って話したり飲んだり遊んだりすれば、もっと心と身体で触れ合える。それが幸せ。
でもここは匿名掲示板。文字でいくら率直に語り合えても、会ってはもらえない。そこが難しい。
君ともっと語り合いたい。もっといろんなことを一緒に経験したい。
「会いたいよ」 [email protected]
356名無しちゃん…電波届いた?:2009/02/08(日) 16:10:00
572 :迷える仔猫 :03/02/10 20:44 ID:v3Ih02fq
>>462 >>469 >>485 >>488 >>490 >>495 >>509
確かにこの手の疑問に対しては、もう少し丁寧に答えておくべきだったね。
でも、僕の言うことは嘘じゃない。ちょっと言葉が足りなかったとは思うけど。
「嫉妬や優越感をなくすこと、あるいはそれを良い形に転化させること」について。
嫉妬や優越感は近代社会の競争課程に特徴的な現象だと言ったね。
競争が何故起こるかというと、優劣を決するある価値基準が働いているから。
より多く生産すべし、より有利な職場、より上の大学、そのためにより多く勉強を・・
こうして、常に「今」を手段に変えて、嫉妬や優越感に突き動かされて、
競争に奔走してしまう近代、これをはじめに批判したのがポスト・モダンだった。

「卒業のための進級、就職のための卒業と、手段−目的の連鎖を追っていっても、目的はどんどん
彼方へと後退し、あとには即時充足的(コンサマトリー)な意味を喪った手段の残骸が
連なっているばかり、無理に目を凝らしてみても、官僚や医師としての成功、
『なんとなく、クリスタル』な『アッパー・ミドル』の生活といった『幸せ』のイメージが
ぼんやりと浮かんでいるにすぎないのだが、その『幸せ』もたかだか『スプーン一杯』程度となると、
いささか物悲しい話ではある。」浅田彰『構造と力』

573 :迷える仔猫 :03/02/10 20:45 ID:v3Ih02fq
だけれど、ポスト・モダンの提示した道というのは、あらゆる価値の解体、つまりはBへの道だった。
確かに、あらゆる価値を解体するということは、「AよりBが優れている(価値ある)」
と判断する基準自体を放棄することになるから、優劣の分割は生じず、
つまりは自分より相手が優れているという認識も劣っているという認識も成立しなくなる。
そうなれば当然、嫉妬や優越感からも解放されて、
一時は競争に奔走しすぎた人の疲れを癒せる時がくるとは言える。
人間の根源的な感情といったって、感情だって全ては認識に依存している。
羞恥は「この状況は恥ずべき状況だ」という認識、怒りも「この状況は怒るべき状況だ」という認識、
当然、嫉妬や優越感だって、ある価値基準にてらして、
自分に属すものと他人に属すものの優劣を含んだ状況認識があってはじめて成立する。
というより、感情は身体的な反応を伴う認識の一形態と言っていい(哲学者、大森荘蔵の議論など)。
だから、Bのニヒリズムを単に優越感のための飾りとしてではなく、
真に思想的実践として行っている人には、嫉妬も優越感も起こらない。
もちろん、嫉妬や優越感が人間の根源的な感情とも言えるのは確かだよ。
こういう感情を起こすということは、人間が価値の観念を持つからであって、
人間は根源的に何かに価値を見出さずにはいられない生き物だから。
ニヒリストの実践といっても、現実的にはどこかに価値は残存して、
小規模な嫉妬や優越感は起こるものだと思う。
でも、世の中に支配的な価値観に従って競争を続け、疲れ果て傷付いた一部の人たちは、
反動的にメジャーな価値観の解体へと向かうことがある。そうして嫉妬も優越感もない安らぎを得る。
この安らぎの快楽に味をしめたさらに一部の人は、本当に極限的な価値観の解体に向かうこともある。
鶴見済の本なんかを読むと、世の中にはこんな人もいるということが分かると思うよ。
江川達也の『東京大学物語』に描かれたものも、そうしたメジャーな価値観へのアンチテーゼ。
江川達也が東大を描き、鶴見済が東大出身というのが興味深い。
357名無しちゃん…電波届いた?:2009/02/08(日) 16:11:47
581 :迷える仔猫 :03/02/10 21:30 ID:v3Ih02fq
>>573からの続き)
ポスト・モダンの近代批判、Cの生き方の否定には確かに真理があった。
でも、人間は根源的に価値を見出す生き物。だから全ての価値の解体は人間の本来にそぐわないと思う。
あらゆる価値が解体した砂漠を舞踏する肯定性ということをポスト・モダンの人々は言った。
でもその肯定性には根拠がない。だから結局は安らぎの快楽が引いた後はニヒリズムしか残らない。
生の肯定性を確保するには、どこかに価値を残す必要がある。
近代は、勝利・成功・得・生産・・という限りなく貧しい価値観のみを残し、
それ以外は「下らない」と目を背け、価値の一極集中、熾烈な競争社会を帰結した。
多くのものを「下らない」と切り捨てる点では、ニヒリズムと通じるものがある。
ポスト・モダンの立場からは、近代こそがニヒリズムであって、
近代の貧しい物差しも含めた価値の全否定の先には全肯定があると、自らをニヒリズムから差別化した。
でもそれは、現実の推移からみて分かる通り、ニヒリズムを飾り立てた理想論、@だったとも言える。
ポスト・モダンは罠だったけども、近代(モダン)もまた否定せずにはいられない。
貧しい物差しで計られるから、人は一つの価値の形態ばかりに固執し、嫉妬も優越感も肥大する。
より高い偏差値、より上の大学・会社、より役に立つもの、より迅速な仕事・生産・・
はじめ、人の視野が狭いうちは、どうしても限られた価値しか見つけられず、
嫉妬や優越感は避けられない段階としてあると思う。この意味でも、確かに人間に根源的な感情。
だけれど、ここから価値の解体に向かうよりは、価値の増殖に向かうべきだと僕は思う。
一つの価値基準で計られる時、それで自分が劣っていると判定されれば行き場を失い、
腐るか、あるいは克服を目指して奔走することになる。そうして近代の競争は生まれた。
そういう劣等感や嫉妬を背景にした優越感もまた、刹那的な快感しかもたらさない。
なぜなら、競争は加速していく以上、優越感に安住すること自体、必然的に困難になっていくから。
仮に実際は優越的な立場を維持していたって、それは常に追い抜かれる恐怖と隣り合わせだから。

582 :迷える仔猫 :03/02/10 21:31 ID:v3Ih02fq
でももし価値が増殖し、多様な価値基準が有効であれば、一つの物差しによる劣った判定を
受け止める余裕が出てくると思う。物差しはたくさんあって、自分を肯定できる局面を確保できるから。
そうすれば、自分よりも優れたものを人が持っていることを喜ばしく受け止められるようにもなる。
だって、たくさんの分野で優れた人がたくさんいることは、
それが巡り巡って最終的には自分の利益にもなるはずだから。
例え自分の取り組む分野で人に負けたとしても、まだ他の様々な面で自分を肯定できることを知る人なら、
近代的な競争みたいに強迫的にならずに、奮起できる。客観的にも、この方が結果も良くなると思う。
なぜなら、人に負けて劣等感・嫉妬に打ちひしがれ自分が無価値になることを恐れて競争するよりは、
余裕を持ってそれ自体を楽しみながら努力する方が生理学的見地からも効果的なはずだから。
そうして、他からの肯定的な眼差しを背景にして、自分の優位が祝福されて認められる時、
人は真の意味で「誇り」を持てるのだと思う。人の劣等感・嫉妬を背景にした「優越感」とは違う。
>>450で言った
>つまり、より進んだ人を見て自分を奮い立たせたり、
>人には真似できないことを成し遂げた自分に誇りを持ったり、
>こういう形に転化された感覚を持ち続けることが大切。
このことの内実、条件を詳しく説明するとこういうことなんだ。
前のレスでは価値の増殖という観点が抜けていたね。
鶴見済は価値の解体に安らぎを見出したけど、江川達也はむしろ価値の増殖を訴えていた気がする。
358名無しちゃん…電波届いた?:2009/02/08(日) 16:12:49
583 :迷える仔猫 :03/02/10 21:31 ID:v3Ih02fq
最後に3点、補足しておくね。

@まず、僕がニヒリズムによらない嫉妬・優越感の克服をこうして訴えたからといって、
嫉妬や優越感が人間の根源的な感情と言えることまでは否定しない。
第一に、未熟な段階では誰しも通る道のはずだし、また僕の言うような生き方が実践できたとしても、
完全に隅々まで嫉妬や優越感を駆逐することは、よほど限られた人以外は無理だと思う。
それでも、一歩一歩、新たな道に進み始めることが大切だと思う。どこまで行けるかは分からなくても。

A次に、多くの人は今の社会でも仕事には「適性」が重視されてると言うかも知れない。
でもそれは、僕の言う「価値の増殖」とは違うんだ。
近代では、例え人の適性に合わせた仕事の選択がなされても、その多様性は
その全てを一括して計りにかける貧しい価値基準の上に成り立っている。代表的なのは「貨幣」。
近代社会はほとんど全ての生産物を商品化し、自然数を値に持つお金によって評価してしまう。
サラリーマンの仕事も芸術家の仕事も、結局はお金によって質を無視し量で統一的に計られる。
だから、本来、比べようもない異質な価値が、統一的な尺度の元に序列付けされてしまう。
それが競争を加速する。お金という統一規格があるから、異分野間の比較も可能になってしまう。
アーティスト・芸人は分野の違うより稼ぎのいい者に嫉妬し、大衆も有名人に嫉妬する。
「大物」かどうかは、動かせるお金で決まってしまう。
一見多様でありつつ、その実統一規格の競争がここに展開される。
これではまだ、僕は真の意味で価値が増殖したとは言えないと思う。
商品化されない人格的な優位性、また経済の原理を超えて交換がなされるような商品、
こういう価値までが広くコミュニケーションの現場に流通した時、真に価値の増殖は始まる。
例えば自らの作品を原価オーバーの価格で売りながらも、客の笑顔を対価にできるというように。

584 :迷える仔猫 :03/02/10 21:34 ID:v3Ih02fq
B最後に、ポスト・モダンもまた近代とは違った価値の多様性を訴えてるとも言える。
でもそれは、価値の増殖というよりも、価値の散乱。
彼らは良いか悪いかを判断する根拠までを解体してしまう。
そして、個々の瞬間に出会うものたちは、全て「どれでもよかった」うちの偶然的な一分子。
だから、そこに喜びも楽しみも見出す根拠がなくなって、結局はニヒリズムに陥ってしまう。
近代は、確かに分かりやすい数字で価値を序列付ける統一規格が存在した。
でもそれは、「今」を手段化し熾烈な競争へと誘う不幸の元でもあった。
一律の序列付けを避け、といってポスト・モダンの価値の散乱をも避けるには、
一歩一歩の出会いの中で、「これを自分は価値あると思う」と自信を持って言えるような、
宿命的な価値の基盤(統一規格ではないある程度の可変性を備えた自己の拠って立つ根拠)
を維持しなければならないと思う。価値の一極支配を避け、といって全てを無化することもない、
緩やかな単位で人を束ねるような価値の基盤が何層か重なる中に、自己の位置が決まる。
価値を判断するには、判断主体のアイデンティティーが確立されていないといけない。
でもそれは、統一規格の一層だけでは、明確ではあっても揺るぎないものにはならないと思う。
つまり、多層的なアイデンティティーの確立。自己の個人史、帰属する共同体、国・・という階層、
こうして、縦方向にも横方向にも価値を増殖させることが大切だと思う。
そして、揺るぎない基盤とはいっても、繰り返される新しい価値との出会いの中で、
時に大規模の転換を経験することもある。科学史の中ではパラダイム・シフトがその一例。
それでも常により深層にはに変わらない層があって、自己の同一性を支える。
変わっていく価値と変わらない価値を緩やかに重ねて自己が浮き上がり、その自己固有の構えによって、
同じように増殖したまた別の価値を持つ他者との出会い、コミュニケーションが始まり、
「横」に広がった経験のある部分はいつしか沈殿して深層の基盤へと変わり、「縦」の深みも増す。
絶対的な一つの価値がないことは、ニヒリスティックな相対主義を必ずしも帰結しない。
それは捉え方によっては、無限の出会いの可能性を保証する希望ともとれるから。全ては構え次第。
359名無しちゃん…電波届いた?:2009/02/08(日) 16:56:03
606 :迷える仔猫 :03/02/10 23:15 ID:v3Ih02fq
今までのレスの整理。
>>344-350>>435-438
どちらも@〜Cの行き方を経た後の新たな道について語ってるわけだけど、
前者はポスト・モダン(Bへの逆戻り)の罠について十分な警戒をしてる一方、
その生き方自体の内実についてはおぼろげにしか触れてなく、
後者はその内実についてかなり突っ込んで書いてる一方、
ポスト・モダン的な罠への警戒に触れられてない。
だから、できれば両方を合わせて読むと僕の考えの基礎的な部分を正確に理解してもらえると思う。
そして>>572-584
ここでは嫉妬と優越感の克服をポスト・モダンとの比較を通じて書いたけど、
後半では「価値の増殖」やアイデンティティーの話と絡めながら、
前の二つで行った話を総合して更により深くまで追究してる。

>>344-350>>435-438を読んだ下地の上に>>572-584を読んでもらえれば、
僕の一番進んだ考えを理解してもらえると思う。
そこに書いた生き方を僕は求めてるんだ。
まずは、僕に共鳴してくれる他者と出会いたい。[email protected]

804 :迷える仔猫 :03/02/15 03:58 ID:a/U/BJVn
>>799 >>802
言葉の意味というのは、固定的なプログラムじゃなくて、
自律性とともに少しずつズレを孕んでいく運動性にも本質があるんだよ。
それが、人間が制御された機械とは違う、自立した自由な存在であることの証。
誤解の余地のない、完全にコード化された情報通信は機械だけのもの。
人間のコミュニケーションは、誤解の可能性があるところにこそ、本質がある。

僕がその語りえないものを伝えるためには、無難な表現じゃいけなかった。
無難な言葉のレッテルを貼って、何てことのない話だと安心した途端、大切なものは逃れ去る。
まさにそれを、決してそれまでのように安易に片付けることはできない、というのが僕の問題提議。
頭だけじゃなく、身体を動員して受け止めてほしかった。
そのために、伝達の方法は情報の通知ではなくて、実演的な触れ合いでないといけなかった。
無難な言葉で片付けられてしまったものに、今一度、命を吹き込もうという「あがき」。
「キレイ」という危うい表現に託した一つのズレは、このための苦肉の策だったんだ。
もちろん、「キレイ」という言葉を選んだ理由には、もう少し付加的で具体的な要素もあったんだけど。
それについては、今度話すかもしれない。

確かに、このスレの構成は、一つのズレを投げかけることと、
それをフォローする対話へと相手を巻き込んでいくための接続に、少し不手際があったことは反省してる。
それでも、大切なのは、僕と君が今しているような一歩外に出た対話だと思うんだ。
言葉の網は、本質的な獲物を捕らえたと思っても、安心した途端、もぬけの殻になってしまう。
常に新しい網を投げつづけないといけない。だから僕は語りつづける。