(((神)))(((智)))(((学)))(((的)))(((美)))(((音)))
1 :
月・ピ・エ ◆/bb.....Cc :
界面(Plane)
宇宙を構成する全物質(顕現)をその「密度」の精粗にしたがって七層に
分け、それぞれ界面(プレーン)または界(ワールド)と呼ぶ。これらはまた、
一定の認識力に応じる意識の状態でもある。これを表示すればつぎのよ
うになる。 (リードビーター『神智学のテキスト』より)
2 :
月・ピ・エ ◆/bb.....Cc :05/02/26 03:12:23
神
よ 界 7 よ
り り
繊 モ 高
細 ナ 6 位
な ド の
物 界 界
質 面
精
↑ 霊 5 ↑
| 界 |
| |
| 直 |
| 観 4 |
| 界 |
| |
| メ |
| ン |
| タ 3 |
| ル |
| 界 |
| |
↓ ア ↓
ス
よ ト 2 よ
り ラ り
濃 ル 低
密 界 位
な の
物 物 界
質 質 1 面
界
3 :
月・ピ・エ ◆/bb.....Cc :05/02/26 03:12:36
より繊細な物質、より濃密な物質・・・
裏を返せば目に見える物質は粗く、裸形的に形成されている。
神は薄くとも存在できている。
4 :
月・ピ・エ ◆/bb.....Cc :05/02/26 03:12:51
物質に見える物質的な音は、物質的な段階に於いてのもの。
電子音は美音であって美音ではない。
空気として感じられる音は人間に於いては感性の段階で判断される。
爆笑は騒音であり微笑みに伴う音は無音であり美音である。
空気を介した音は間接的な美音であり実質的な中身が宿っている。
ホールトーンは美音であり高位の界面へゆきわたる倍音の段階においても
(演奏者の霊性に準じて)神智学的美音として美音が保たれる。
界面≠海綿
6 :
月・ピ・エ ◆/bb.....Cc :05/02/26 04:13:24
◎
肯定的にせよ否定的にせよ神について言及しない哲学者はいない
未発達の馬鹿は困るね
http://boo.arinecoinco.com/butuyuine.htm おしゃか様はなぜ五感のこだわりをなくそうとしていたのか
味のこだわり、香りのこだわり、音のこだわり、色のこだわり、感触のこだわり、、
それらはアディクトと涅槃的なものとの間に位置するもので、害はないけど繊
細な感性を生み出すこともないからだ。繊細な感性、霊的なレベルの波動をも
っと濃密にするにはそれより振幅の大きい単純なものに同調せず、それから一
切離れて高いもの、界面として繊細複雑なものを得ようとしてないといけない。
PATHOS
信仰の世界だと思ってる馬鹿もいるね
みんなばか
あの板の人は心霊体験したとか言いつつ信仰心を持つことがない
前世見たとか言いつつ輪廻から脱しようとはしない
守護霊がどうこう言いつつ産土の神という言葉すら知らない
人を呪おうとする自分を疑わず、心経唱えることもしない
落ちてゆくものは落ちてゆく
あそこにはグロ画像を好む人が多い
同類に引き寄せられていくかのように落ちてゆく
自殺した霊はそれだけのものを持っているので
一般的な人間にはその境遇を理解できず、なかなか成仏されることがない。
かわいそうに。
思ってるほどたいしたもんでもなかったはずなのに…
不浄霊は、
腐心や怨みからきた定義が、その魂にとって呪縛ではなく自慰になっている。
だから霊性の高いものを唱えれば目を醒ますことになるんだな。
定義や解釈は人生経験によるもので
どんどん覆る。
ヘッロドココ
霊性の高い人と一緒にいれば霊性が上がっていく。
何も教えてくれない人につくのも、いいみたい。
だんだんと風格が身についてきたころに、
じゃぁお経でも教えてあげようかと教えてくれる人がいいみたい。
恰幅広げていろんなことを教えてくれる人に、あまりたいした人はいないみたい。
そいうい人についていても霊性は上がってこない。
心経を唱えると浮遊霊をおびき寄せると聞いた。どうもその世界で
は「常識」となっているようだが、これについて飛不動尊というところ
に聞くところ、何をもって浮遊霊とするか、あるいはそれを気持ち悪
いと思うか、べつにどうでもいいと思うかによるようだ。
また自分の先生によると「心教で浮遊霊ですか、そうですね呼んで
しまうこともあるかもしれませんが、しっかりした背後霊さんが居れ
ば問題無いですよ。霊性が低いのに、闇雲に唱えたりするのは危
険でしょう。やはり師に付かねばなりません。」―インドからのメール
霊性の低いものは定義の仕方が暗い。
育ちが黯ければ良家と聞いても黯いイメージになる。
ちゃんとした人に聞いて確認すると、低次な物議のほとんどは迷信に思えてくる。
仏教は基本的には無霊魂説なので、ないと思っておけばよい。考え方が暗いのだ。
心経とはひとつに低級な概念、極端な定義から離れようとするもの。
謙虚さ素直さこそ困難なものである。
解釈や定義を先に施せばその紐に足をとられる。
慣性に任せるのが自然。
魔を呼ぶ、というのは魔の力を求めていることの裏返し。
神仏に守護されるということはその基準に到っているということ。
それはその人のカルマの少なさ、霊性の高さでもある。
空間に刻みつけられる固有の記憶って
あれなんなんでしょう
ヨーロッパはそういう所が多いみたいだけど
彼らは幽霊信じないですよね
エアエッジでホームページ作って、
無線から出来上がった空間なんだなぁと思うとすごい。
ドラえもんのせい
力がないしとがなにをしてもむだ
僕は力ないけど力のあるのを呼び寄せていたい
最電波としりあってから3年もたつ
どこにいったんだろう
去年はみーめのレスしてた
それっきりだなぁ
PsYchO
平和な板ですぬ
哲学板とか荒らしばっかり
集まるようです
宗教の所もそんな感じ
電波が一番いい
敵のために祈るとか瞋恚に耐え忍ぶとか
魂を成長させることにはなろうけど、敵がいることを省みれば無意味さを感じる。
怖れや恨みは感情のエラーでいわば癌である
とまではいかなくても、ジャンクDNAの類だ。驕慢とか諂曲とか戯論も然り。
人間は純粋に理性のみの存在である神とは違うので
闘争して乗り越える部分も多いが、パトスとか触れ合いのようには成長させない。
怖れや恨みなどは霊性があがれば自然に消滅しているし、それ自体は無駄なストレス。
レムスがアクテの顔に見出したなにか憎しみを超える強い心
ルサンチ以上の原動力になるもの
そういうのがサムシンググレートで、それ自体生物を進化させている。
電波とかお花畑はサムシンググレートの類。
一般性に迎合した言い方する奴はヘタレだな
霊性の高い人はチャネリングなんてやらないらしい。
通信とかやるのはヤバい奴ばかりらしい。
レイキも霊性低いらしい。
やってる奴を見ればわかることだな。
一般に霊性の低いものほどしつこく
霊性の高いものほど優しいオーラに満ちている。
霊性が思考を司っている。
霊性は信仰したものの影響を受ける。
ちゃんとした信仰を持ってなければ神仏もどきに関わってしまう。
まともでない勉強をした行者、中途半端な行者を天狗がまとめて引き連れている。
「霊性」が「木馬」。
「『おまえなんか、必要ない』
とケイスは言った。」
こんな?
( ゚Д゚)???
仕方ないから同意しておこう
ぐろ柳のスレいつの間に落ちてたんだろう!!
『ニュ-ロマンサ-』
オカルト用語いわれてもわからないんですが
『ニュ‐ロマンサ‐』はSF小説
「木馬」だとかは知らない
SF小説なんて読んだことがない
面白いのかな?
メル・ギブソンが著した『ニュ-ロマンサ-』
『カウント・ゼロ』『モナリザ・オ-ヴァドライヴ』
の三部作は映画『マトリックス』等に
出てくる電子化された世界観の大本を築いた傑作。
一口にSFと言っても、SFそれ自体は内部に様々なジャンルを抱えた小世界の
様にテ-マや描き方の裾野を広げていて、
そのせいでほとんどファンタジ-と区別のつかないような作品も数多いが、基本的には、現代の科学の視野に入る最新の展望をアイディアの基としているものが正統派のSFとされるらしい。
そのような質のSF(ハ-ドSF)を著している作家はアイザック・アシモブとア-サ-・C・クラ-ク
が有名。
私はハ-ドSFの人間に深入りしない物語の描き方が気に入っていて、またクラ-クが著した『都市と星』の科学の発達の極限を推察した内容が50年も前の小説であるにも関わらず、今だ古びた感覚を起こさせない所にSF作品の真の成果であろうものを感じる。
それほど広く本を読んでいないのではっきりしたことは分からないがフィリップ・K・ディック『ヴァリス』やコリン・ウィルソン
『精神寄生体』『賢者の石』等は「オカルトSF」にあたるらしい…。ラヴクラフトの小説もSFの様な書き方の文章が多い…。
その筋だとノンフィクションだがロバ-ト・アントン・ウィルソン『コスミック・トリガ-』がいい読書ガイドになるようだ
ティモシ-・リアリ-が序文でほめちぎっていた…。
長くなったけど私の知る限りのSFはそんなですね…面白いかどうかは最初に出会った本によるでしょう…。
改訂:ニュ-ロマンサ-を書いたのはウィリアム・ギブソン
未体験ゾーンかもすれないなぁ
勝手に目くじらたてておいてどうでもよくなった暁に相手がその視線に今更気づいてしまい具合悪いので向こうがむかつくから悪いんだったんだぞと自分の感情を正当化すればそうやってどつぼに嵌っていく。
こんなに長い行が入るんだ
わら
運が悪い
入らなければ消してたのに
あーあ
二年半も経つ
57 :
名無しちゃん…電波届いた?:2005/05/30(月) 00:05:50
t
ハァ〜〜〜〜〜〜+鬱陶し〜〜
光触かぶるものはみな〜あ〜 有無をはなるとのべたも〜お〜
あつはなついね
ころすきですか
ころすけですか??
僕にも世界を動かせるほどお金があれば・・・
お金はいいけど動くエアコンがあれば・・・
動くだけで役目を果たしたつもりなのじゃなくて
コーヒー飲んでハイになって、スピードがすごいとかほざこうが
やったことない数Tの問題はいつまで経っても解けないね。
頭はたちかに回転してるけどぐるぐると回ってるだけ。
解けるようになるのはコーヒーがきれてから。
超能力とかでも同じことが言えそう。思い込みの仕組み
上から定義すれば超えられたつもりになれる
そういえば図星の人だけは反応したなぁ
自分はそれに比べて未熟な存在です、と定義していったほうがいろいろとお徳。
チャネリング系にはヤバい奴しかいない。その「ヤバい」のニュアンスは、本物のヲタを初めて見た人がとっさの一言で発するあの種のものね。
現実と非現実が区別ついてないあの目つきはでもとても魅力的なものよ。
でも真実めいて話すのは恥ずかしい。(不可知論者から見た断言調)
言ってもないことを勝手に言わせたり。自分を選ばれた、とか。
ルサンチを投影していることが多いので、信者の結束もそういう形で出来ががっていく。
人間関係も念によって思いどおりにできるのなら楽だな
逃避
オカルトに固執してルサンチを晴らすのではなく仏[手本]を信じてそれを無く[滅却]すことができなければ意識[音色]は汚れる一方で、同類[難弱者]を巻き添えにしていく。(マーラ)
[][][][]
これいいな
たいして意味なくとも含蓄ありそう
[こ][れ][い][い][な]
今家の猫がすごいギャーゴいってた
世紀末の叫びみたいだった。びびりんこ
他の猫が入ってきたから。
あまり家から出ず共存経験不足してるから、すごい反応する。
でも毛並みはきれいなにゃんこだよ。
たまに蜥蜴の尻尾もってきてくれんねん
くにょくにょ踊ってんねん
「龍の尻尾」
龍を見たことがある。2歳ぐらいのときに。
まんが日本むかしばなしでは子どもが龍に乗ってるし
家に龍の古い絵が飾ってあったので、龍はいると思い込んで
土曜の夜はよく縁側から空を眺めていた。
その思考が現実化しただけかもしれないけれど
日本むかしばなしのCM中に空を飛んでった。
今空にいる!と突然そう思って縁側に出たら尻尾だけ見えた。かなり至近距離だった。
龍の尻尾というとドラゴンズを追いかける巨人みたいなイメージになってしまったけど、あのときはたしかに見ていた。
そのあともっと高いところでまた南から北へ飛んでいたような気がするけど、むかしばなしが始まるのでテレビのとこへ戻ったと思う。
星のある夜で普通なら暗くて見えないはずなので、光を発してたと思う。尻尾のやつは、斑点が光っていた。輪郭のもやもやもあった気がする。
幻獣は幻なのか。
仏や神が存在することはほぼ明らかになったけど、幻獣もどうしてもいてなければ困るとき、先生に幻獣はいるのかと聞いた。聖獣とか幻獣っているんですか。
聖獣を性の獣と聞き間違えたようで、先生に教えてもらうの二回目でいきなりそんなことを聞くというその場の状態に、ちょっと恥ずかしくもなったが、そういう性に狂った人もいるという余計な話は聞けた。
聖獣とか幻獣はいないようだ。
人によってはそう映ることがあるだとか、人の霊がそう変貌しているだけのよう。式神のよう。式神ももとは人間のよう。
なんだ人間か・・・とがっくりしてしまった。人間じゃなく獣じゃなければ嫌だった。
「幻獣とかの絵は空想画なんですか?」と未練がましいので「でもいるかいないかだったら、いるかもね」と一応希望を残す形にしてくれた。
あれからもうすぐ一年。幻獣はいてもいなくてもどちらでもよくなった。幻獣でなくとも猫はたしかにいてるし、実際触れることもできる。
それに麒麟とかカーバンクルと交歓してみたいという妄想にも飽きてきたから。実際にはいないというのが現実だとしても今は精神安定している。
極端に有無に囚われているのは病気だ。子どものころは当たり前にいてるものだった。
80 :
名無しちゃん…電波届いた?:2005/07/01(金) 12:23:03
なんだこれ
81 :
名無しちゃん…電波届いた?:2005/07/01(金) 12:34:07
イミフ
>>80├─-√レ──ー─√レ-┤ うそ
>>81├─w─────ー──┤ ほんとう
保育園のサルビアの蜜が美味かった
一人でちゅーちゅー吸ってたな
イタチが(・∀・)イイ!! から二周年以上だよ。
ユニバーサルに出てくるよ。イタチが(・∀・)イイ!! が
イタチが(・∀・)イイ!! に汚染される
もう勘弁してくれ
イタチが(・∀・)イイ!! にヒニニーニ
人
(゚∀゚) ヒニニーニ ヒニニーニ
くくく
天狗グループはアストラル(普通の人間レベル)からメンタル(かなり高い)までいるらしい。
人間一人の一生では比較できないほど人間を見てきているし、力もかなり持ってるみたい。
でも見方を変えればメンタルまでしかいない。
魂の方向性を間違えたままではブッディ(神社仏閣レベル)までは行けないんだろう。
独学では天才でもない限りある程度のところまでしか行けなさそう。
正しいプラーナの成長と違う誤った方向に進むと,いずれアストラル界のおぞましい連中の甘言に乗り、低レベルの欲望のとりこになってしまうとのこと、正しいやり方や正しい方向性とやらがわからないでいるほうがまだよさげ。
乗せられて突き進めば、間違えた道を引き返す努力をしないといけない。時間と労力の無駄を喰う。ジョークにできる知性と余裕があればいいが、経験としては誇れない。カミングアウトという形をとるしかなくなる。
消えないで〜
アミリテイ
アミリトウドバンベイ
アミリタサンバンベイ
アミリタギャラベイ
アミリタシッデイ
アミリタテイゼイ
アミリタビキランテイ
アミリタビキランタギャミネイ
アミリタウンパッタ
アミリテイウンパウンパウンパッタ
アミリタポチョムキン
アミリタギャギャノウキチキャレイ
アミリタオタンコナース
アミリテイピカイア!
すごい貯金がたまった心地がする
話言葉を発しないというのも、一つの行にはなるんだなぁ
恐れの気分がわかった気がする
「一つの行」が文章の「一行」だとしたら、やたらと意味深だ
以心伝心
していなかった
馬鹿でけっこうコケコッコー
おまえは下衆な
今年のイチローは四月に調子がよかったせいで間違いに気づけなかったようだ。
例年は四月に調子が悪い。
間違いに気づけないほどの間違いがあるなんて天才的だなぁ。
ロートレアモンの霊性を見てもらったら
キリスト教より仏の影響を感じるらしい。
霊性の高さをきいたら、普通の人より高いとのこと。
とりあえず低いものではなくて安心。結構影響受けているからな
人を侮蔑したいとか悪に憧れるとかではなく
悪に踏み込みおぞましい人類の標本を芸術化しているわけだから
ルサンチにおける魂の方向性も問題ないな。むしろ善良なものだろう。
まぁ文章は霊性が投影されたものにすぎないので
その影響のほとんどは間接的なものだけど。
まがいもんは曲がった論理により曲がっている。
波動が粗い
思念がおかしい
様相が醜い
ロートレアモンの場合は美しい
霊性低い奴は超越してないと存在意義が保てない。
普通の人レベルなら別に超越してなくともなんともない。
それで価値があることがわかっている。
霊性の高い人はもっと価値があることがわかっている。
言葉だけの奴なんてあんなもんよ
今まで例外がなかった
言語上では超越したつもりの哲学もどきだから
ちょっとしたことですんごい反応を見せる。
ここではなかなか見ることのできないものだ。
また舞い戻ってくるのかな。
夢を持たなければ…なんだか、人間じゃないみたいになるからね…
夢はいつも持ちつづけていてください、と卒業式で年配の教授が
控え目で少し滞りながら言っていたのが感傷的だった。
そういうのが本物。
教授になりたいだけの奴にはそういう言い方はできない。
その年齢にふさわしく育てられている子どもは孤独である。
習慣から生じる愛着のほかには愛着をもたない。
かれは自分の時計をだいじにするように妹をかわいがる。
犬をかわいがっているのと同じように友だちを愛している。
自分の性をぜんぜん意識していないし、人間仲間の一人
であることも意識していない。男も女も同じようにかれにと
っては無縁の存在なのだ。かれらがしていることも言って
いることも、なにひとつ自分に結びつけて考えない。
それを見もしなければ聞きもしない、あるいはそれにぜん
ぜん注意をはらわない。かれらの話もかれらの実例も同
じようにかれの興味をひかない。そういうことはすべてかれ
にとっては関係のないことなのだ。それはこの方法によって
あたえられる人工的な誤りではない。自然にもとづく無知な
のだ。時がくれば同じ自然は生徒に説明してやることになる。
そのときはじめて自然は、あたえられる教えをなんの危険も
なしに生徒が利用できるようにしてやる。これが原則だ。
細部の規則はわたしの主題ではない。 『エミール』
先ばしった知識をあたえられ、それを実行に移す能力をひたすら待ちこがれている、
世なれて洗練された子ども、文化的な子どもは、その能力が生じてくる時期について
思いちがいをするようなことはけっしてない。そういう子どもは、待っているどころでは
ない、その時期をはやめ、はやくから血を沸き立たせて、欲望を感じるずっとまえから
欲望の対象がどういうものであるべきかを知っている。自然がかれを刺激しているの
ではなく、かれが自然をせきたてているのだ。自然はかれを大人にするとき、かれに
教えることはもうなにももたないのだ。かれはじっさいに大人になるずっとまえから、
気持ちのうえでは大人になっていたのだ。
注意ぶかく育てられた青年が感じることのできる最初の感情は、愛ではなく、友情である。
あらわれはじめた想像力の最初の行為は青年に自分と同じような人間の存在を教えるこ
とであって、人類にたいする感情が異性にたいする感情よりもはやくめざめる。そこで、無
知の状態をひきのばすことにはもう一つの利益があることになる。それはあらわれはじめ
た感受性を利用して年若い青年の心に人間愛の最初の種子をうえつけることだ。これは、
一生のあいだでこの時期こそそういう心づかいがほんとうに実を結ぶことのできる唯一の
時期であるだけに、なおさら貴重な利益である。
はやくから堕落して、女と放蕩に身をもちくずしている青年は不人情で残酷である事実を
わたしはたえず見てきた。激しい気質がかれらを忍耐心に乏しく、復讐心の強い、凶暴な
人間にする。かれらの想像力は、ただ一つのことにとらえられていて、ほかのことはいっ
さい考えようとしない。かれらは思いやりもあわれみも知らない。とるにたりない快楽のた
めにさえ、かれらは父親も母親も、宇宙ぜんたいも犠牲にしてしまうにちがいない。それ
とははんたいに、めぐまれた単純さのうちに育てられた青年は、自然の基本的な衝動に
よってやさしい愛情にみちた情念をもつようになる。
人間を本質的に善良にするのは、多くの欲望をもたないこと、そして自分をあまり
他人にくらべてみないことだ。人間を本質的に邪悪にするのは、多くの欲望をもつ
こと、そしてやたらに人々の意見を気にすることだ。この原則によれば、子供と大
人のあらゆる情念を、どうすればよいほうに、あるいは悪いほうにむけることがで
きるか容易にわかる。このむずかしさそのものが、人間関係がひろがるにつれて
必然的に大きくなっていくのだ。そしてとくにこの点において、社会のいろいろな危
険は、新しい必要から生まれる堕落を人間の心に生じさせないようにするための
技術と心づかいを、わたしたちにとっていっそう不可欠のものにしているのだ。
人間にふさわしい研究は自分のいろいろな関連を知ることだ。肉体的な存在として
の自分だけしかみとめられないあいだは、事物との関連において自分を研究しなけ
ればならない。これは子ども時代にすることだ。道徳的な存在としての自分が感じ
られるようになったら、人間との関連において自分を研究しなければならない。これ
は今わたしたちが到達している地点からはじめて、一生かかってすることだ。
ほんとうの恋愛は、人がなんと言おうと、いつも人々から敬意を寄せられるだろう。
恋愛の興奮はわたしたちの心を迷わせても、そういう性質を生み出すことさえある
にしても、それにしても恋愛はいつも、すぐれた性質のあることを示しているのであ
って、それなしには人は恋愛を感じることはできないのだ。理性に反したことと考え
られている選択は、じつは理性から生じてくるのだ。愛の神はめくらだといわれてい
る。この神はわたしたちよりもするどい目をもっているからだ。そして、わたしたちに
みとめられない関連を見ぬいているからだ。すぐれた点とか、美しさとかいうことに
ついてなんの観念ももたない者にとっては、どんな女性でもけっこう、ということにな
り、最初に出会った女性がかならずいちばん好ましい女性、ということになる。恋は
自然から生まれるなどとは、とんでもないことだ。それは自然の傾向を規制するも
の、そのブレーキになるものだ。恋を感じればこそ、愛する対象を除けば異性はな
んの意味もない存在になる。
愛されることがどんなにうれしいことかわかっている者は、すべての人から愛された
いと思うだろうが、だれもかれも特別に愛されることを願うとすれば、その願いをか
なえられない者がかならずたくさんできてくる。恋愛と友情とともに、不和、敵対、憎
悪が生まれてくる。こういう多くのさまざまの情念が渦巻くなかに、憶見が揺るがし
がたい王座をうちたて、愚かな人間たちは、その権威にしばられて、かれら自身の
生活をひたすら他人の判断のうえに築いている、そういう光景をわたしは見ている。
人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさせるのは
わたしたちに共通のみじめさなのだ。人間でなかったらわたしたちは人間愛など感じ
る必要はまったくないのだ。愛着はすべて足りないものがある証拠だ。わたしたちの
ひとりひとりがほかの人間をぜんぜん必要としないなら、ほかの人間といっしょにな
ろうなどとはだれも考えはしまい。こうしてわたしたちの弱さそのものからわたしたち
のはかない幸福が生まれてくる。ほんとうに幸福な存在は孤独な存在だ。神だけが
絶対的な幸福を楽しんでいる。といっても、わたしたちのだれがそういう幸福につい
ての観念をもっていよう。何者か不完全な存在者が自分だけで満足できるとしたら、
わたしたちに考えられるどんなことをかれは楽しむことになるのか。かれはひとりで、
みじめな者になるにちがいない。なんにも必要としない者がなにものかを愛すること
ができるとは考えられない。なにものも愛していない者が幸福でありうるとは考えられ
ないのだ。
そこで、わたしたちがわたしたちと同じような人間にたいして愛着をもつのはかれらの
喜びを考えることではなくむしろ苦しみを考えることによってなのだ。そこにわたしたち
はいっそうよく、わたしたちの本性と一致するものを、そしてわたしたちにたいするかれ
らの愛着の保証となるものをみるからだ。わたしたちに共通の必要は利害によってわ
たしたちを結びつけるが、わたしたちに共通のみじめさは愛情によってわたしたちを結
びつける。幸福な人の様子は、ほかの者に愛情よりも羨望の念を感じさせる。そういう
人が自分ひとりの幸福を手に入れたのは、もってもいない権利を横どりしたからだとわ
たしたちは非難したくなる。そして自尊心は、その人がわたしたちをぜんぜん必要として
いないことをわたしたちに感じさせ、なおさら苦しむことになる。ところが、目のまえで苦
しんでいる不幸な人をかわいそうだと思わない者がいるだろうか。その人を不幸な境遇
から救い出すにはただその気になればいいというばあいには、そうしたいと考えない者
がいるだろうか。想像はわたしたちを幸福な人の地位において考えさせるよりもむしろ
みじめな人の地位において考えさせる。この二つの状態の一つはもう一つの状態より
もわたしたちにとっていっそう身近に感じられることがわかる。同情は快い。悩んでいる
人の地位に自分をおいて、しかもその人のように自分は苦しんでいないという喜びを感
じさせるからだ。羨望の念はにがい。幸福な人を見ることは、うらやましく思っている者
をその人の地位におくことにはならないで、自分はそういう地位にはおかれていないと
いう恨めしい気持ちを起こさせるからだ。一方はかれが悩んでいる苦しみをわたしたち
にまぬがれさせるように、他方はかれが楽しんでいる喜びをわたしたちから奪っている
ように感じられる。
だから、青年の心にあらわれはじめた感受性の最初の動きに刺激をあたえ、それを
はぐくんでいこうとするなら、かれの性格を慈悲と親切のほうへむけさせようとするなら、
人々の幸福のいつわりの姿を見せて、傲慢な心、虚栄心、羨望の念を芽生えさせるよ
うなことをしてはならない。最初は、宮廷の花やかさ、宮殿の豪奢な生活、さまざまな
催しごとの魅力をかれの目のまえにひろげて見せてはいけない。いろいろな会合や輝
かしい集まりに連れていってはいけない。上流社交界の内情を考えることができるよう
にしてやったあとでなければ、その表面の姿を見せてはいけない。人間を知らないうち
に世間を見せてやることは、かれを教育することにはならないで、堕落させることにな
る。それはかれを教えることにはならないで、だますことになる。
子ども時代から思春期への移り変わりの時期は、それほどはっきりと自然によって定め
られているものではなく、個人にあっては体質によって、国民にあっては風土によって、
ちがってくる。この点について、暑い国と寒い国とのあいだにみとめられるちがいはだれ
でも知っているし、血の気の多い体質はそれほどでもないものよりもはやくできあがるこ
ともみんなが知っている。けれども、原因がまちがって考えられていることもあるし、道徳
的なことのせいにしなければならないことが、肉体的なことのせいにされていることもしば
しばある。これは現代の哲学にもっともひんぱんにみられる誤りの一つだ。自然の教えは
おそくなってからはじめられ、ゆっくりとすすめられる。人間の教えはほとんどいつも時期
に先だってあたえられる。自然の場合には官能が想像をめざめさせる。人間の場合には
想像が官能をめざめさせる。想像は官能をはやくからはたらかせるが、これはまず個人
を、やがては人間ぜんたいを弱く無気力にせずにはおかない。風土の影響ということより
も、もっと一般的に、そしてもっと確実にみとめられる事実は、教養のあるひらけた国民の
あいだでは、無知で野蛮な国民のあいだにおけるよりも、思春期と性の能力がかならずい
っそうはやくあらわれることだ。子どもは特有の明敏さをもって、礼節のあらゆる猿まねの
かげに隠された悪い風習を見破ってしまう。人が子どもにつかわせる洗練されたことば、
かれらにあたえる品をよくするようにとの教訓、かれらの目のまえに張り巡らそうとする神
秘のとばり、これらはすべて好奇心を刺激するものとなるにすぎない。
経験に照らして考えてみるがいい。そういう考えのないやりかたがどれほど自然の仕事を
いそがせることになり、体質をそこなうことになるかがわかるだろう。これこそ都会に住む
人間を退化させる主な原因の一つだ。青年は、はやくから生気を失って、体が彼本来の大
きさより小さく、弱く、十分に発育しないままに、成長しないで老いこんでしまう。春に実をな
らせたぶどうの木が秋を待たずにしおれて死んでしまうのと同じことだ。
粗野で単純な国民のあいだで暮らしたことがなければ、そういう国では幸福な無知がどれ
ほど長いあいだ子どもの純真さをもちつづけさせるか知ることはできない。そういう国の男
女が青春の美しい盛りになんの不安も心に感じないで子ども時代の無邪気な遊びをつづ
け、かれらの親しげな様子そのものがけがれのない楽しみを示しているのを見るのは、感
動的でもあり、ほほえましくもなる光景だ。
人間が性を意識することになる時期は自然の作用と同じ程度に教育の結果によってもち
がってくるとするなら、子どもの育てかたによってその時期をはやめたりおくらせたりする
ことができるわけだ。そして、その歩みをおくらせるかはやめるかによって体が丈夫になっ
たりならなかったりするものとすれば、その歩みをおくらせるように努力すればするほど青
年はいっそうたくましさと力を獲得することにもなるわけだ。いまのところわたしはたんに肉
体的な結果について語っているだけだが、結果はそれだけにとどまらないことはすぐにわ
かるだろう。
これらの考察から、わたしは、よく議論されている問題にたいする解答をひきだす。それは、
子どもの好奇心のまとになっていることについてはやくからかれらに説明してやったほうが
いいか、それとも、お上品なうそでかれらをだましておいたほうがいいか、という問題だ。そう
いうことはどちらもしてはならない、とわたしは考える。だいいち、そういう好奇心はきっかけ
をあたえなければ子どもに起こってこない。だからそういう好奇心をもたせないようにしなけ
ればならないのだ。つぎに、解答をあたえる必要のない問題は、それについて質問する者を
だますことを必要としない。うそをついて答えるより、黙らせたほうがいい。どうでもいいような
ことではいつも黙らせることにしていれば、そう命じられても相手は別に意外とは思うまい。
それに、答えてやろうと決心したばあいには、できるだけ素直に、はっきりと答え、困ったよう
な顔を見せたり、微笑を浮かべたりしないことだ。子どもの好奇心は、刺激するよりも満足さ
せてやったほうが、はるかに危険が少ない。
「子どもはどうしてできるの?」 ごく自然に子どもに起こってくるやっかいな疑問だが、それに
たいする不謹慎な解答、あるいは思慮深い解答が、一生のあいだのその子の品行と健康を
決定することもある。息子をだますようなことをしないでそれをきりぬけるために母親が思い
つくいちばんかんたんなやりかたは、かれを黙らせることだ。けれども、母親はそれだけです
ませるようなことはめったにない。「それは結婚した人の秘密です。」 母親はこんなことを言
いきかせるだろう。「小さい男の子はそんなことを聞きたがるものではありません。」 これは
母親を窮地から救いだすにはまことにけっこうなことだ。けれども、その小さい男の子は、そ
ういう軽蔑した調子に頬っぺたをふくらまして、結婚した人の秘密を知るまではひとときも落
ち着けないだろうということ、そして、遠からずその秘密を知ることになるだろうということを、
母親は承知していなければならない。
同じ質問にそれとはまったくちがった返事をしているのを聞いたことがあるが、それをおつた
えすることを許していただきたい。それはことばづかいも態度もつつましい婦人の言ったこと
だったので、いっそう感銘が深かったわけだ。けれどもその人は、必要な場合には、息子の
しあわせのために、また、美徳のために、人々の非難や、おどけ者のむだ話の種にされは
しまいかというつまらない心配を無視することができるひとだった。まだいくらもたたないころ、
その子は尿といっしょに小さな結石を排出して、そのために尿道を傷つけたことがあった。し
かしその痛みはもう忘れていた。「お母さん」と子どもは不意に言った。「どうして子どもはで
きるの」 ―― 「坊や」と母親はためらうこともなく答えた。「女の人はおしっこをするようにして
子どもを生むんですよ。それはとても痛くてね、そのために死ぬこともあるんですよ。」 ばか
者は笑うがいい。頭のない連中は眉をひそめるがいい。だが、賢い人は、これ以上に分別
のある、目的にかなった解答がほかにみあたるかどうか考えてみるがいい。
十六歳になれば、青年は悩むとはどういうことか知っている。自分で悩んだことがあるからだ。
けれども、自分とは別の存在もまた悩んでいることはまだほとんど知らない。悩んでいるのを
見てもそれを感じなければ知ることにはならないし、わたしがすでにくりかえし言ったように、子
どもにはほかの者が感じていることは考えられないから、不幸といえば自分の不幸しかわから
ないのだ。しかし、感覚の範囲がひろがってきて、想像の火が点火されると、かれは自分と同
じような人間のうちに自分を感じ、かれらの悲しみに心を動かされ、かれらの苦しみに悩みを
感じるようになる。そこで、悩める人類のいたましい光景がこれまで味わったことのない感動を
はじめてかれの心に呼び起こすことになる。
あなたがたの生徒のばあい、そういう時期をみとめるのは容易でないとしても、それはだれの
責任でもあるまい。あなたがたはかれらに、はやくから感情をもてあそぶことを教えている。は
やくから感情の言語を学ばせている。だから、かれらはいつでも同じような調子で語り、あなた
がたの教えをあなたがた自身にたいして逆用し、いつうそをつくことをやめて言っていることを
感じるようになるのか、みわける手段をぜんぜんあなたがたにあたえないのだ。ところが、わた
しのエミールを見るがいい。わたしがかれを導いてきた時期には、かれは感じたこともなければ、
うそをついたこともない。かれは、愛するとはどういうことか知らないうちに、だれかに「わたしは
あなたをほんとうに愛します」と言ったことはない。父親の部屋、母親の部屋、あるいは病気で
寝ている教師の部屋にはいるときにはこういうふうにしなさい、などとかれはいいつけられたこ
とはない。感じてもいない悲しみをよそおう技巧を教えられてはいない。だれが死んでも、そら
涙を流したことはない。死ぬとはどういうことか知らないからだ。心情が無関心なら、態度も同
じように無関心だ。ほかの子どももすべてそうであるように、自分のことのほかにはいっさい関
心をもたないかれは、だれにも興味を感じない。ほかの子どもとちがう点は、興味を感じている
ようにみせかけようとはしないこと、ほかの子どものようにうそつきではないこと、それだけだ。
エミールは感覚をもつ存在ということについてあまり考えてみたことがないから、悩むとか死ぬ
とかいうことについてはずっとおくれて知ることになる。嘆き悲しむ声がやがてかれの心を動か
しはじめる。血が流れるのを見れば目をそむけるようになる。息絶えようとしている動物の痙攣
は、これまで感じたことのないその心の動きがどうして起こってくるのかわからないうちから、な
んともいえない苦悶を感じさせることになる。感じがにぶくて野蛮だったとしたら、かれはそうい
うことは感じまい。もっと多くの知識をもっていたとしたら、かれはその原因を知るにちがいない。
かれはもう多くの観念をくらべてみているからなにも感じないわけにはいかないのだが、感じて
いることを理解できるほどにはまだ十分に多くの観念をくらべてみていないのだ。
こうしてあわれみの心が生まれてくる。これは自然の秩序によれば最初に人の心を動かす相
対的な感情である。感じやすく、あわれみぶかくなるためには、子どもは、自分が悩んだことを
悩み、自分が感じた苦しみを感じ、自分もまた感じるかもしれないこととしてその観念をもって
いるほかの苦しみを感じている、自分と同じような存在があることを知らなければならない。じ
っさい、わたしたちをわたしたちの外へ移して、悩んでいる生き物に同化させるということがな
ければ、いわば、わたしたちの存在を捨ててそのものの存在になるということがなければ、どう
してわたしたちはあわれみに心を動かされよう。そのものが悩んでいると判断することによって
のみわたしたちは悩む。わたしたちのことを考えてではなく、そのもののことを考えてわたした
ちは悩むのだ。だから、想像がはたらかなければ、自分の外へ自分を移すことができなければ、
だれも感じやすい人間にはなれない。
あらわれはじめたこの感受性に刺激をあたえ、それをはぐくんでいくためには、それを導いてい
く、というよりその自然の傾向に従っていくためには、わたしたちはいったいなにをしなければな
らないのか。青年の心にみちあふれている力がはたらきかけることのできる対象、心をのびの
びとさせ、ほかの存在のうえにひろげ、いたるところで自分の外に自分をみとめさせる対象をか
れに示してやることではないか。心をしめつけ、内部に集中させ、人間の自我を緊張させるよう
な対象を注意して遠ざけることではないか。つまり、ことばをかえていえば、親切な心、人間愛、
同情心、慈悲ぶかい心など、おのずから人々を喜ばせることになる、やさしく人をひきつけるあ
らゆる情念を刺激し、羨望の念、憎悪心など、人にいやがられる残酷な情念、いわば感受性を
無意味にするばかりでなく、否定的にして、感じている者の心を苦しめることになるあらゆる情
念を呼び起こさないようにすることではないか。
わたしたちが不幸な人をあわれむのは、その人があわれむべき状態にあると考えられるかぎり
においてである。わたしたちの不幸の肉体的な感じは見かけ以上にかぎられている。それを連
続的にわたしたちに感じさせるのは記憶力なのだ。それを未来にひきのばして、わたしたちをほ
んとうにあわれな人間にするのは想像力なのだ。共通の感受性はわたしたちを同じように動物
にも同化させることになるとしても、動物の苦しみにたいしては人間の苦しみにたいしてよりもわ
たしたちが冷淡である原因の一つはそこにある、とわたしは考える。荷馬車ひきの馬が馬小屋
にいるのを見てあわれみを感じるような人はほとんどいない。その馬は、まぐさを食いながら、さ
っき打たれたことや、これから骨を折らなければならないことを考えているとは思われないのだ。
あの羊はまもなく殺されるだろうとわかっていても、それが草をはんでいるのを見て、やはり人は
かわいそうだとは思わない。羊は自分の運命を見透してはいないと考えられるからだ。この考え
をおしすすめると、人は人間の運命にたいしても冷淡になる。そして金持ちは、貧乏人を苦しめ
ながらも、かれらは愚鈍だからなんにも感じはしないのだと考えて、みずからなぐさめている。
一般的にいって、それぞれの人が自分と同じ人間の幸福をどのくらい重くみているかは、かれら
がそれらの人間にたいしてはらっているようにみえる尊敬の程度によってわかるとわたしは考え
る。軽蔑している人間の幸福を軽く考えるのはあたりまえのことだ。だから、政治家があんなに軽
蔑した調子で民衆について語るとしても、多くの哲学者が人間をごくたちの悪い者にしようとして
いるとしても、もう驚くにはあたるまい。
人類を構成しているのは民衆だ。民衆でないものはごくわずかなものなのだから、そういうもの
を考慮にいれる必要はない。人間はどんな身分にあろうと同じ人間なのだ。そうだとしたら、いち
ばん人数の多い身分こそいちばん尊敬にあたいするのだ。考える人にとっては、社会的な差別
はすべて消えうせる。かれはくずのような人間のうちにも輝かしい人のうちにも同じ情念、同じ感
情をみとめる。もちいる言語のちがい、上っ面のよしあしをかれらのうちに区別するだけだ。もし
なにか本質的なちがいがかれらを区別するとしたら、ごまかしの多いほうが不利になる。民衆は
あるがままに自分を示し、愛想がよくない。ところが社交界の人たちはどうしても自分を隠さなけ
ればならない。あるがままの自分を示すとしたら、嫌悪をもよおさせるにちがいないのだ。
金持ちの苦しみはその身分から生じるのではない、それを悪用する金持ち自身から生じるのだ。
貧しい人にくらべてさえ不幸だとしても、金持ちをあわれむことはいらない。不幸はすべて自分が
つくりだしたものだし、自分の意志ひとつで幸福になれるのだから。ところが、貧しい人の苦しみ
はその境遇から、かれのうえに重くのしかかっているきびしい運命から生じるのだ。疲労、消耗、
空腹からくる肉体的な感じをなくしてくれるような習慣はない。すぐれた精神も知恵も、かれがお
かれた状態から生じてくる苦しみをまぬがれさせるにはなんの役にもたたない。エピクテトスは、
主人が自分の足を折ろうとしていることをあらかじめ知ったところで、どんな得をしたことになる
のか。それがわかっていたところで、主人はやはりかれの足を折るのではないか。エピクテトス
にはその苦しみにくわえて、先見の明による苦しみがある。わたしたちは民衆を愚鈍だと考えて
いるが、まったくはんたいに、分別のある人たちだとしたところで、かれらは現にあるようなものと
は別のどういうものになれよう。現にしていることとちがうどういうことができよう。この階級の人た
ちを研究してみるがいい。ことばつかいはちがっても、かれはあなたがたと同じくらいの機知とあ
なたがた以上の良識をもっていることがわかるだろう。だから、あなたがたが属している人類に
尊敬をはらうがいい。人類は本質において民衆の集合から成り立っていること、国王や哲学者
がみんなそこから除外されてもほとんどなんの変わりもないこと、事情はいっそう悪くなるわけ
でもないことを考えるがいい。一言でいえば、あなたがたの生徒に、あらゆる人間を愛すること、
人間をいやしめる連中さえ愛することを教えるがいい。自分をどんな階級にもおくことなく、あら
ゆる階級に自分をみいださせるようにするがいい。かれをまえにおいて、感動をこめて、さらに、
あわれみをこめて、人類について語るがいい。しかし、けっして軽蔑をこめて語ってはならない。
人間よ、人間を辱しめてはいけない。
こういう道を通って、そのほかにも同じような、すでにきりひらかれている道とはまったく反対の道
を通って、年若い青年の心に分け入り、そこに自然の最初の動きを刺激し、かれと同じような人間
のうえに心をひらかせ、ひろげさせるがいい。それにつけくわえて、そういう心の動きにはできるだ
け個人的な利害の念をまじえないようにすることが必要だと言っておこう。とくに虚栄心、競争心、
名誉心など、わたしたちをほかの人間にくらべさせるような感情を起こさせてはいけない。そういう
比較は、わたしたち自身の評価においてにすぎないとしても、わたしたちと優劣を争う人々にたい
するなんらかの反感をかならずともなうことになるからだ。そうなると、盲目になったり、いらだった
りして、意地わるになるかばか者になるかせずにはすまない。こういうことはどちらもさけることにし
よう。そういう危険な情念はいずれにしてもおそかれはやかれ生まれてくるだろう、と人はわたしに
言う。わたしはそれを否定しない。あらゆるものにはその時機がある。ただわたしは、そういう情念
が生まれてくるのを助けるようなことをすべきではない、と言おう。
これがとらなければならない方法の精神だ。ここで例をあげたり、細かいことにたちいって述べた
りしてもむだだろう。ほとんど無限にみられる性格の相違がここにみとめられてくることになるので
わたしがあげる例の一つ一つは、おそらく十万人のなかの一人にしかあてはまらないからだ。この
時機においてこそまた、有能な教師は、心情を形づくる仕事をするにあたって、人の心の中を深く
きわめる技術をこころえた観察者、哲学者としてのほんとうの役割をはたすことになる。青年がま
だ自分をいつわるようなことを考えないあいだは、そういうことをまだ学んでいないあいだは、かれ
に見せる一つ一つのものからかれがどんな印象をうけとるかを、その様子、その目つき、動作によ
って知ることができる。かれの顔にはかれの心のあらゆる動きが読みとられるのだ。それによく注
意していることによって、かれの心の動きを見ぬき、さらにそれを導いていくことができるようになる。
ひろくみとめられるところでは、血の滴り、傷、泣き声、うめき声、つらい手術の道具など、苦悩の
対象を感官にもたらすものはすべて、いっそうはやくから、いっそう一般的に、あらゆる人の心を
とらえる。破壊の観念は、もっと複雑なので、同様には感じられない。死の姿はもっとあとになって
から心にふれ、それほど強く心を動かすこともない。だれも自分のこととして死んだ経験をもつ者
はいないからだ。瀕死の人の苦悶を感じるには死骸を見たことがなければならない。しかし、ひと
たび死の姿がはっきりとわたしたちの精神にきざみつけられると、わたしたちにとってそれ以上に
恐ろしい光景はなくなる。それは、死の姿がそのとき感官を通してあたえる完全な破壊という観念
のためであり、また、人は、その瞬間があらゆる人間にとって避けがたいことを知って、まぬがれ
られないことが確実にわかっている状態にいっそう激しく心を揺さぶられる思いがするからでもあ
る。
こういうさまざまな印象には変化と段階があって、これは各人の個別的な性格と以前からの習慣
に依存している。けれども、それは普遍的なもので、それを完全にまぬがれている人はいない。
そのほかにもっとおそくなってから感じられるそれほど一般的でない印象があり、これは感じやす
い心をもつ人にいっそうよく感じられる。それは精神的な苦痛、内面的な苦しみ、悩み、憂い、悲
しみなどからうける印象である。泣き声を聞き、涙を見なければ、心を動かされないような人たち
もいる。こういう人たちは、悩みにしめつけられた胸からもれる長いあいだのひそかなうめき声に
嘆息させられたことはけっしてない。がっかりした様子、やつれて血の気のない顔、もう泣くことも
できないうつろな目、そういう人を見て、こちらが泣いたというようなことはけっしてない。こういう人
たちにとっては、心の苦しみなどはなんの意味もない。それがわかっていても、かれらの心はなに
も感じない。こういう人たちには、やわらげることのできないきびしさ、頑固な心、残酷な心以外の
ものを期待してはいけない。かれらは廉潔な正しい人になれるかもしれないが、寛大であわれみ
ぶかい人にはけっしてなれない。かれらは正しい人になれるかもしれないとわたしは言った。しか
しそれは、人間はあわれみをもたなくても正しい人になれるとしたら、としての話だ。
しかし、こういう規則によって早急に若い人たちを判断してはならない。当然そうでなければならな
い教育をうけて、まだ感じさせられたことのない精神的な苦痛についてなんの観念ももたない青年
のばあいにはなおさらのことだ。もういちど言えば、こういう青年は自分が知っている苦しみのほ
かにはあわれむことができないのだ。そして、その表面的な無関心はただ無知のせいなので、人
生には自分の知らない無数の苦しみがあることを知るようになれば、無関心はたちまち感動に変
わってしまうのだ。わたしのエミールについて言えば、子ども時代にはかれは単純さと良識をもっ
ていたが、青年時代になれば、やさしい心と豊かな感受性をもつことになるとわたしは確信してい
る。正しい感情は正確な観念にもとづくことが多いからだ。
わたしたちは表面的なことで幸福を判断していることがあまりにも多い。どこよりも幸福のみあた
らないところにそれがあると考えている。幸福がありえないところにそれをもとめている。陽気な
気分は幸福のごくあいまいなしるしにすぎない。陽気な人は他人をだまし、自分でも気をまぎらそ
うとしている不幸な人にすぎないことが多い。人の集まったところでは微笑をたたえ、快活で、朗
らかな様子をしている人は、ほとんどみんな、自分の家では陰気な顔でどなりちらしていて、召使
いたちは主人が世間でふりまいている愛嬌のために苦しむことになるのだ。ほんとうの満足感は、
陽気でもなければ、ふざけちらしたりすることでもない。その快い感情をだいじにして、それを味
わいながらよく考え、十分に楽しみ、それを発散させてしまうことを恐れている。ほんとうに幸福な
人間というものは、あまりしゃべらないし、ほとんど笑わない。かれは幸福をいわば自分の心のま
わりに集中させる。騒々しい楽しみごと、はねっかえるような喜びは、嫌悪と倦怠を覆いかくして
いる。一方、メランコリーは快楽の友だ。感動と涙がこのうえなく快い楽しみにともなう。そして、大
きな喜びもまた、叫び声ではなく、むしろ涙をもたらすのだ。
はじめは、いろいろと変化のある楽しみごとが幸福に役だつようにみえるとしても、一様な変化の
ない生活ははじめは退屈なようにみえるとしても、もっとよく見れば、はんたいに、いちばんなごや
かな心の習慣は、欲望と嫌悪感にとらえられることが少ない、節度ある楽しみのうちにあることが
わかる。落ち着きのない欲望は、好奇心を、変わりやすい気分を生みだす。騒々しい楽しみのむ
なしさは倦怠感を生みだす。もっと快い状態を知らなければ、人はけっしてその状態に退屈するこ
とはない。世界のあらゆる人間のなかで、未開人は、いちばん好奇心をもつことが少なく、いちば
ん退屈することの少ない人間だ。かれらはどんなことにも無関心だ。かれらは事物を楽しんでいる
のではなく、自分を楽しんでいるのだ。かれらはなにもしないで人生を過ごしているが、けっして退
屈しない。
社交界の人は完全に仮面をかぶって生きている。ほとんどいつも自分自身であることはなく、いつ
も自分とは縁のないものになっていて、自分に帰ることを余儀なくされたときには、窮屈な感じがす
る。かれにとっては、じっさいにあるものにはなんの意味もなく、表面的なことがすべてなのだ。
さっき話したような(省略してある)青年の顔を見ると、落ち着いた人に不快の念をあたえ、やりきれ
なくなるような、なんとなく生意気なところ、猫をかぶったようなところ、気どったところを感じずには
いられない。ところが、わたしの生徒の顔には、満足感、ほんとうに朗らかな心を示し、尊敬、信頼
感を呼び起こす表情、かれに近づく人々に友情を感じるためにひたすら相手の友情の発露を待っ
ているようにみえる、人をひきつける素直な表情を見ずにはいられない。容貌というものは、自然に
よってすでにしるされている線をたんに拡大したものにすぎないと人は考えている。わたしは、そう
いう拡大ということのほかに、人間の顔の線は、ある種の心の動きのひんぱんな、習慣的な印象に
よって知らずしらずのうちにできあがってきて、一定の特徴をもつようになると考えたい。そういう心
の動きは顔に示される。これ以上にたしかなことはない。そして、それが習慣になると、そこに永続
的な印象を残すことになる。こういうわけで、容貌は性格を示すものとわたしは考える。そして、とき
には容貌で性格を判断することができるのであって、それには、わたしたちがもたない知識を予想
する神秘的な説明をもとめるようなことをする必要はないとわたしは考えている。
子ども時代にすることはたいしたことではない。そこに忍びこんでくる悪には対策がないわけでは
ない。そして、そこに生まれる善はおそくなってからでも生まれてくるものだ。しかし、人間がほんと
うに生きはじめる最初の時期についてはそうはいかない。この時期は、そのあいだになすべきこと
をするのに十分なくらい長くつづくことはけっしてないし、しかも、これは重要な時期だから、たえま
ない注意を必要とする。だからこそ、わたしはこの時期を長くひきのばす技術について強調するの
だ。すぐれた栽培法のもっとも有益な教えの一つは、なにごともできるだけおくらせるということだ。
ゆっくりと確実に前進させるがいい。青年が大人になるためになすべきことがなにも残っていない
ことになるまで、大人にならせないようにするのだ。肉体が成長しつつあるあいだに、血液に芳香
をあたえ、筋肉に力をあたえることになっている精気がつくられ、精製されていく。あなたがたがそ
れにちがった道をとらせるなら、二つのものはいずれも無力な状態にとどまり、自然の仕事は完成
されないことになる。精神のはたらきもまたやがてそういう変質を感じさせることになる。そして魂
は、肉体と同じように弱々しく、無気力で衰弱した機能しかはたさないことになる。太い頑丈な手足
は勇気も才能もつくりだすことにはならないし、また、魂と肉体をつなぐ器官がうまくできあがってい
なければ、魂の力は肉体の力にともなわないということもわかる。しかし、その器官がどんなにうま
くできあがっていたとしても、そのもとになるものが無気力な乏しい血液、体のあらゆる機構に力と
はずみをあたえる実体を欠いた血液にすぎないなら、その器官はやはり弱いはたらきしかしないこ
とになる。一般に、若いころ、早期の堕落からまもられていた人たちには、ふしだらな生活をするこ
とができるようになるとすぐにそういう生活をはじめた人たちにおけるよりも、豊かな魂の力がみと
められる。そして、これは疑いもなく、よい風習をもつ国民が、ふつう、そうでない国民よりも、良識
においても、勇気においても、まさっていることの理由の一つだ。後者はただ、かれらが才気とか
明敏とか繊細とか呼んでいるなにかよくわからないつまらないおしゃべりの才能で知られている。
けれども、りっぱな行為、美徳、ほんとうに有益な仕事によって人間をすぐれたものにし、かれに尊
敬をはらわせることになる、知識と理性にもとづく偉大な、高貴な営みは、ほとんど前者において
のみみいだされる。
r、ノVV^ー八
、^':::::::::::::::::::::::^vィ 、ヽ l / ,
l..:.::::::::::::::::::::::::::::イ = =
|.:::::::::::::::::::::::::::::: | ニ= に そ -=
|:r¬‐--─勹:::::| ニ= ゃ れ =ニ
|:} __ 、._ `}f'〉n_ =- な. で -=
、、 l | /, , ,ヘ}´`'`` `´` |ノ:::|.| ヽ ニ .ら. も ニ
.ヽ ´´, ,ゝ|、 、, l|ヽ:ヽヽ } ´r : ヽ`
.ヽ し き に ニ. /|{/ :ヽ -=- ./| |.|:::::| | | ´/小ヽ`
= て っ ゃ =ニ /:.:.::ヽ、 \二/ :| |.|:::::| | /
ニ く. と な -= ヽ、:.:::::::ヽ、._、 _,ノ/.:::::| | /|
= れ.追 ら -= ヽ、:::::::::\、__/::.z先.:| |' :|
ニ る い =ニ | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::.|'夂.:Y′ト、
/, : 出 ヽ、 | |::::::::::::::::::::::::::::::::::::_土_::| '゛, .\
/ ヽ、 | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::.|:半:|.ト、 \
/ / 小 \ r¬|ノ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| \
僕は除霊より浄霊のほうが好きだ。
祓っても祓ってもどうせすぐに戻ってくるから。
それならば時間をかけて性質から変えていったほうがいい。
その御霊の霊性を引き上げてやればやがて成仏できる段階に至る。
浄霊は、自分でするよりもされる側が好きだ。
楽だし一瞬で気持ちいいから、霊感ないなりにもわかる。
そのあと視界が開けている。身軽になって摩訶不思議。
自分は、霊性の高いものになら調伏してもいい。
と思えてしまう。
わては「霊=鏡」やて思てたんや
まるで身体の中で羽織る衣みたいやな
ぞくぞくてする
関西の女はリアルで祈ってる人を見たら
「ウソでしょ?」
と反応する
グリークラブの合唱見たら「ごめんマジ無理」
hitmancoの証言
まっくら闇の中に階段がある。
透明の階段が。
どこまで歩いていけるのか。
どこまで続いているのか。
確かに歩いているしまだまだ先は続いている。
でも本当に階段はあるのか…
上ってしまってもいいものなのか…!
と疑った瞬間に本当に階段がなくなって
あーれーーーーーーと落ちてってしまう。
また上りはじめる。
あ〜あ
ごくろう
どういたまして
最下層記念パピコ
あげ
最下層記念パピコ
我はくどいやつが嫌いじゃ
モオツアルトの音楽は、人間を震撼させるために悪魔につむびかれたものであることは、小林秀雄にも評されるところ
かの天才モオツアルトは多動性とか不安神経症だった
モオツアルトの親は健常で、それが遺伝性のものではないだろうことを考えると、悪魔がモオツアルトの知能を利用して作ったというのも否めない
ブルックナーやベルリオーズ、ベートーベン、ジョスカンデプレは、大地自然や神性の賛美、人間性の解放、神とキリストへの信仰としての音楽で、所謂チャネリングとは違い、自分は主にこちら側においておいて、それを崇めるというスタンスになっている
モオツアルトが危険なのはそこ、神懸かり、悪魔憑きになっているところだ
モオツアルトに魅せられた人間は、洗脳された人のように彼を崇めるようになる
極度に調性のとれた音楽は平常な人を狂わすのだ
とか、アルファ波アルファ波!副交感神経が賦活されるからだ!・・と言われればそれだけのことかもしれないけれど
と女の友達にメール送ったら
どこからあんな文章が浮かんでくるの?ホント思議だよ!
普通の人だとああいう文章は書けないよ。少なくとも私には無理(笑)
とほめてくれた
なんかむなしくなった
171 :
バリ島の記憶:2005/12/17(土) 01:09:25
観光客にたかってくるバリ島の子供から買ったお面がある。ガルーダっぽい顔つきで、龍みた
いなもの。もう14年も2階に飾ってある。木彫りのいいもので、色あせることがない。
当時まだ僕も子供だったけど売り手の子はもっと小さい子供だった。裕福な国ではないし、い
らないもんばかり強引に売り付けてくる子供が多かったけど、そこの寺院の入り口でたかる売
り子は、美しい出来ばえのよいものを手に持っていた。
特にこのお面がかっこよくて、ほしがった。
父親は、「どうせ見せびらかしているものとは別のものにすり替えるから」と得意げだった。
なーんだと思っていたけど父親は強引にも「ぜったいそれをくれるのか」とその売り子に聞いた。
その子はすんなり「うん・・・」と言った。僕はそれをすり替えられずに買えたのだけど、今思うと
すごいかわいそう。子供の買い物だから、せいぜい1000円か2000円ぐらいだったと思うけど
これがそんな値段のはずがない。愛地球博のバリ島ショップではこれと同じようなやつが3万と
か5万とかで売られてたし。ひょっとするとあの子は損してるかもしれない。1000円でも損した
らすごい大変な世界なのに。あの子、きょとんとしていた気がする。その子が手に持っているそ
のお面が欲しかったから、ありがとうも言わず奪うようにして手にした気がする。寺院の中に向
かう途中、ほんとうにいいのかな…と振り返ったりした。こっち向いてた気がする。
でも既に次の観光客にたかっていた気もする。そうであってほしいのだけど。
もう人生の半分以上も前のことになるけれど、もしも本当に奪ったという形になっていたとしたら
どうしよう。 …こんなときは神と仏に頼るしかない。どうかあの子に報いがあってください。僕の
手に渡ってきたお面よ、おまえが形どっている神よ、僕が想っている分をどうかあの子に届けて
ほしい。もしおまえが僕よりもほんとうに霊性が高いのなら、僕より自由で僕よりほんとうに崇高
な判断力をお持ちなのなら、どうかあなたの考えでいちばんいい風にしといてください。あの子ご
めんね
チンコ学
というメールを昔からの友達に見せたら、
「要するにパパが悪いってことが言いたいんでしょ?」
って言われた
神智学なんかとうの昔に飽きちょるけん
あははは あははは
えーん えーん
珍痴学最高!
飽きちょるというに
次第に氏素性が明るみになってくるのがやだ
僕はいいところの出の人しか相手にしたくない
。゜(゜´Д`゜)゜。
僕は貴族だけど頭悪いよ?
お前の言ってることもわけわかんないし
理解できない
僕が問題にしてるのはおつむじゃなくて素性なんだ
魂のツールなんだ
( ゚ ∇゚ )b
185 :
名無しちゃん…電波届いた?:2005/12/26(月) 02:22:40
この痛みだぁ!!
今こそ天下取りじゃあ!!!
186 :
名無しちゃん…電波届いた?:2005/12/26(月) 04:25:49
なるほどピエロか。
何がじゃ
めんどくさいもんに巻き込まんでくれ
おはよう
おはよー
ただいまー
おはよー
ただいまー
ただいまー
千と千尋の油屋に行ってきたよ
テス
おはよー
14時間ぐらい寝た
おみくじができるんだ
猫の初抱きをしたよ
そのあと投げた
DIATONEのアンプが結構いける
地味で主張なくて学校の音楽室になったみたい
(((ΘωΘ)))じゃあトート神様を讃える歌を歌いましょう