キリスト再臨

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キリスト教は
「貴様が頬を殴られたら反対側も殴られろ」と強要してくるが
「私たちは他人に殴られても反対側を差し出す」とは言っていない。

つまり、
お前らは「ごとし(=悪事師[ワリゴトシ])」の餌食になって命や財産を盗られろ
私だけは「ごとし」と連んで助かるつもりだ
的な教義でしょ?キリスト教は?

災難に耐えているのは被キリスト教信者で
「塞翁が馬」的生活態度な日々を送っているのです。
全員「ごとし」の仲間になっても結局殺し合いは続く。

「ごとし」の言いつけを守らないと俺「ごとし」に殺されちゃうから
貴様が「ごとし」の餌食になれよ もうお終いにされちゃうよ
と訴えられる筋合い無いし・・・

キリスト教は もう1999年で破綻したんでしょ?

で、これからは
悪事が生き残るために必要だった物か
欲に駆られただけの裁かれるべき物か
人らの判断に任される時代でしょ?
「人ら」と言う支配者になって 世界を手に入れたい とか云う妄想は却下。
むずかしいなぁ、よく読んでみたけど半分ぐらいしか理解できなかったよ。
>>76 妄想は却下って、僕はたぶんそこまで至らないよ。
キリスト教に強い私怨があるようだけどなんだろうね。
呪術、信じ込まされた、1999年で破綻、などなど
邪な内容をどう口にしても心情の深い領域で不協和が奏でられておりますがな。
でも結局やくざの論理か御曹司の論理どちらに調和するかはその人の素性の部分だから
僕はどれが正しいとかにはかかわりたくないですなぁ。
君だってヤスさんに磔の最中自分の名前を絶叫され救済を求められたら
暗い人に罪を背負って貰うというコンセプトのキリスト教が大嫌いになると思う。
 
      _, 、_
<(。゜)> ∀<(゜)> えーんえーん
宗教に絶対性はないね。宗派には限界があるね。
結局わからないというところまではわからないから。
一神教信者は電波的独裁君主制信者。
民主化の昨今 廃れて当然の概念を盲信している。

自称権力者が「相手を殺さないと生き残れないよ」と弱者を強迫して
「ごとし(=わりごとし[悪事師])」の為の混乱した国家を作るのは
迷惑だし只の犯罪者だから止めて貰いたい。
一神教というが、実際神は一人じゃなければおかしいんだよ。
仏とか精霊だったらそうでなくとも成り立つけれど。
>電波的独裁君主制信者。
マインドコントロールの全てを宗教で片付けるからそうなる。
>自称権力者が「相手を殺さないと生き残れないよ」と弱者を強迫
弱者ほど強くなってしまうものであるからに、時間とともに消滅する方式だね。
やくざは虚勢で覆えているうちは強いもんだね。
だがそのヴェールを剥げば例外なくピュアリティーが眠っている。
恐れているとドロドロしたものが眠っていると感じてしまうものだ。
人を信用できないうちはまだ弱い。強い人間とは覚悟ができた人であるね。
死んでもいいという覚悟まであれば神に我が全てを委ねることができる。

ちなみに欝症状、共感の乖離、脳みその空洞感等は、祈りによって回復する。
親である神に純粋に救いを求めると実際に救われてしまうから不思議だ。
牢獄・密室で天に向かって手を編んで救いを求める構図がこの祈りに一番ふさわしい。
かわいそうな人は救われる。孤独な人は救われる。
裕福な気分のときにもっと満たしてくださいと祈ってみてもあんまり変化は感じられないが
苦しいときの祈りには救われる思いだ。お金がかからない。
神は孤独な存在である。誰も神に気づかず好き勝手に生きているから。
イエスも悲しい人であったね。

キリストの教えに「放蕩息子」というものがある。
ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、私がいただくことになっている
財産の半分をください』といった。そこで父は死ぬ前に自分の財を渡した。
弟のほうは何日ももたないうちに遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くした。
はじめはお金があるからほいほいとみんなにあげて友達が沢山できていい気分だけど
やがて使い果たし誰もが離れていった。
ちょうど飢饉が起こり誰も食べ物を分け与えてくれず空腹で苦しいと家に帰る。
しかしそんな不良のような息子のどうしようもない放蕩にすら父は怒らなかった。
父は最高の着物と最高の料理で温かく迎えた。
「なぜ自分なんかをこんな風に迎えるのですか。僕はしもべのしもべでいいのに。」と放蕩息子はいうが
「死んだと思っていたのに我がもとに帰ってきたのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
と答える。この話は神の愛のたとえである。神の愛とはまさに親の愛である。
人間は皆神の子であるからいずれ親である神のもとに帰るが、神はそこで怒ることはない。どうしようもないほどに広大な愛がある。
「くらいひと」が罪を引き受けてくれるという噂はデマだと思う。
現実的な客観的思考を極めるものが科学で深層の心理まで主観的意識を届かせることを教助するのが宗教であるからに、ただ信じたものが救われて、信じなければそれでおしまい、という話である。
疑わない人の人生は本当に幸せだろうね。不思議な体験をたくさんして成長も早いことだろう。
でもたしかに宗教やる人は絶対必然の中を生きていてついていけないところがあるね。
あなたに会ったのはあの日なんたら術を行ったら云々で解放がどうたら(意味不明だった)、摂理の正当化の激しいこと。正当化というか本気でそう思い込んでいる。
絶対偶然と科学における絶対必然、どちらが正しいかは僕の中ではもはや存在しなくなっているけど常にニュートラルではありたいよ。
>絶対偶然と科学における絶対必然、
間違いね。科学における絶対偶然と宗教における絶対必然だ。
キリスト教においては、偶然は存在しないらしい。偶然とは必然の断片であると。
人間の脳では断片としてしか認識できないから確率論とか偶然とせざるをえないだとか。
超感覚に生きていれば不思議な現象を体感できるけど、醒めたら醒めたでなんかつまらんなぁ。
どちらかしかありえないなぁ。
頑張ればあっちの世界とこっちの世界を自由自在に行き来できるようにはなるかもしれないけれど
その中間に居続けようとするのは疲れる。ニュートラルなんてのは無理があるんだろう。
88あしたば ◆RoxTRaXY7k :04/03/09 05:28
電波板住民とはかくも深く考えられるものか、と。
あなたほどに主観的意識の肯定の心地よさにふれながら現実的な客観的思考を
保っている人って滅多に見られないので。

私にとっての宗教観をひとつ。
主体間の地平を融合し、自分が他(神)と同じ方向性を獲得する
場合にのみ得られる自己存在、思考、行動の肯定・解明…。
宗教とは本当に偉大な発明です。
「自分」や「他人」でなく「神」のために行動せよと、つまり
断絶している多数の主体が神を通じて全ての行動(の理由付け)を行う。
他人に施しをするのは神のため。悪い行いをしないのも神のため。
(結局巡り巡って、自分が神の愛を受け「救済」されるためとなる訳ですが)
そのような社会システムとしての神、
全ての現象(愛、死、病、自然現象)の理由付けシステムとしての神、
まさにキリスト教の神は何でもやってくれますね。神本人は見てるだけで。

私の神は死んでしまいました。
私の主体の中や思想の仕組みの中に、バラバラになった神の断片を
いくつも見つけることが出来ます。それは既に私にとって用をなしません。

私は、どちらかというと禅宗的な考え方を持っています。
ニヒリズムに陥ること無く、ニュートラルで居たい…。
宗教は偉大な発明だねぇ。
あるいは思い込みの歴史かな。脳梁の太い女性のほうが嵌って抜け出せない側面がある。
「人を好きになった時、その気持ちが強い程相手を傷つけてしまう。
ただ少しでも一緒に居たいだけなのに・・・」
という恋愛の悩みは宗教やっている人の場合
「人を救いたい時、その気持ちが強い程相手を追い込んでしまう。
ただ少しでも受難から解放したいだけなのに・・・」
となる。
Le Soleil、la Lune、der Mond、die Sonne..
すべての人間は宗教的あるいは性的な思い込みの中に趣味や倫理を押し付けて生きている。
自分自身がそれに陥るのを恐れるならば、無趣味無宗教の無味乾燥の極致を生きなければならない。
主観と客観の中間なんてものはないから、神は主観的意識を肯定した先にいるという分析自体は客観である。
一旦醒めると共感は乖離する一方だ。ここで場に同調することを覚えれば新たな信仰を以って補うことができるけど。
反面、『デミアン』を読むとこの乖離した心持ちは神学校を脱走したというヘッセへの共感によって癒される。
このままキリスト教から離れたとしても、祈りを覚えただけでも大変な収穫だったと思う。
全てを赦すという精神もありがたく実践させていただこう。
キリスト教は素晴らしいけど過激だ。
霊的感性を高めるために禁欲・禁煙・禁酒により肉体を管理し、人を恨まず、自分が
犠牲になり、万物全てのために祈るという愛の実践によって感性は啓発されてゆく。
醜いものはより一層悪臭を放ち、美しいものはより一層きらめく。不協和に敏感になる。
ちょっとでも嫌な思いをサタンに吹き込まれたら折には祈って滅却するという癖がつく。
バッドトリップも主観的意識のうちにはいるので、祈れば神に救ってもらえる。しかし胸
の前に手を結ぶという姿勢でなければ祈れない。電車の中では人目を遮ってでも祈る
ことができるが、原付の運転中には祈れない。キリシタンは神がいなければもう生きて
いけない。無神論者よ消えてくれ、と叫びたくなる気持ちもわかる。このまま過激になっ
たら、腕を後ろに縛られ監禁されただけで祈れない苦しみに耐え切れず舌をかみ切っ
てでも死にたくなるんだろう。そういう風になるのを怖れて我に返る。

一度宗教を知ると、無宗教でいることを、無趣味でいるかのごとくに感じる。今から無宗
教に帰るのは寂しいかな。あしたばさんは禅宗かぁ、参考になるな。僕は祈りの過程で
体勢の神秘を知ったので、いずれ神が死んでしまったらヨーガにでも赴こうかと思うよ。
92あしたば ◆RoxTRaXY7k :04/03/10 14:16
「完成されたスタイル」としてのHIP-HOPは>>421だろう。
その存在論的論拠を「マネー」「力」「カリスマ的個」に求め、
>>421のような表現方法に落ち着いてしまった場合。
MTVが垂れ流すものを見て喜ぶのは、HIPHOPをそのように捉えている証拠。
(日本の場合、ちょいと特殊で「わかりやすさ」にそれが求められる)
このようなスタイルが一般的であるため、「完成したHIPHOP」といっても差し支えない。
完成して死につつある音楽文化だ。だがもし、
それ自体「ブレイク」から生まれた音楽が個々の思索的背景やスキルと合わさり
何処までも脱構築を試みていく手法論と、それが生む文化一般、
さらに関わる人間の数だけスタイルがあり、総括しえないものであるとして
HIPHOPを捉えるならば、
確かに「完成されたスタイル」としてのHIPHOPはありえない。
よく「HIPHOP」からかけ離れた作風のHIPHOPを表現するとき、
「これをHIPHOPと呼ばずに何と呼ぶんだ!」という言い方が良く使われる。
少なくとも根元的なHIPHOPに触れたことがあるなら、その表現は正しい。
HIPHOPの延長線上にあることを感じ取れるからだ。
そうやって個々のHIPHOPのスタイルがもし「完成」の域に達したとしても、
(そこでトリップホップという言葉自体は価値を持たない)
それはさらに脱構築が可能な土壌としてターンテーブルの上に投げ出されたものであり、
そこからますます新たな音楽と概念と文化が生まれてゆく。

参考音源:HIPHOP的精神をもったエレクトロニカ、マイカ・ナイン等も参加。
"Prefuse73"
http://www.warprecords.com/ography/WARP83/
(いきなり音がなるので注意)
93あしたば ◆RoxTRaXY7k :04/03/10 14:17
すいません…誤爆しました
すごいすみません…
94あしたば ◆RoxTRaXY7k :04/03/10 15:37
とりかえしのつかないことをしてしまった…周回軌道を描いて本題に入るしかない…

趣味と宗教は、ひとりの存在者が生起し得る土壌として似たようなものを
もっていると思います。
その重要性と効力は桁違いですが…。
存在論と方法論を学ぶと同時に組み立て、納得し実行し次のステップへ。
どちらもその人間が生まれ得る精神的土壌となっているように見えます。

とあるインドの哲学者について学ぶ機会があったのですが。
彼はインド古典哲学の聖典を片っ端から読み、かつ西洋形而上学を学んだ人でした。
彼はインド人として生まれ、インドの宗教的伝統文化の中に生きました。
彼にとって宗教とはどのようなものだったのか?
完全な想像や断定は出来ませんが、推測はできます。
ある意味で彼が自分を「Identify」するという時、語弊があるかもしれませんが、
自身の行動・思考・存在について論拠を求められた時の答えである底流、
その底流に流れるもの(となりうるもの)としての宗教、
さらに開かれた存在論・方法論の源泉としての宗教、
そのような役割を付与された為に、超古典的なものであったテクストが、
現代のコンテクストにとって非常に有益なものとなりました。
彼が生まれてからずっと共に生きてきた神は、彼の学生時代、
西洋の方法論によって陳腐な劣った道具とされてしまっていました。
それによって彼は苦しみ、自身の神の重要性を再発見することが出来たのですが。
彼でさえそうなのだから、完全にニュートラルな視点というのは誰も持ち得ないのだと
再確認させられてしまいます。何処かに主観を据えることもなおかつ、大事なことなんだと…。
95あしたば ◆RoxTRaXY7k :04/03/10 16:03
私にとって、趣味としての音楽(思考の源泉)と生活が大きく一致しています。
それが誤爆してしまった内容なんですが。
神が死んでしまったので、私はよりハードな存在論としての音楽に無理矢理走ってしまい、
ある時それが自分にとって別の優しい神となっていることに気付きました。
今ではそれらを神ではなく体験として見て、
ある程度経験してから原点に立ち戻ることを何度も行っています。
そうやって向こうまでの距離が解れば、納得しうる自己の目標を設定できるんじゃないかと。

禅的というのはこういう意味です。あらゆる神を脱構築する手法。
もし悟りを得た場合、次はそれすら捨てなくてはいけないと…。
こんなのは究極的には絶対ムリです。
「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」で終っちゃいます。悲しいくらい…。
ほんとに一時、私はあらゆる神を見つけ次第殺していたように感じます。
今は宗教を「体験」として見たいと思っています。
実際に「体験」してらっしゃるあなたの話は非常に興味があります。
自己否定を繰り返すと捌けていく。
矛盾性、堕落性を、神の力を借りて否定してゆく。空っぽになるまで否定してゆく。
カイン宗徒みたいなものもあるようだけど、たいがいの宗派は性善説の上に成り立っていて、
宗教の摂理のうえに説明のできる悪い動機や醜い感情を消し去ろうとしている。
神のことは、信仰に信仰を重ねていくことによって、より濃厚に感じようとしている。
どの宗派もこういうことやっていると思うけど、それぞれのバイアスやタブーが入ってくることは否めない。
自己否定なんて、宗教に訪ねることなく自分自身を基準にすることもできるからそれでもいいけど。
発明は大変で、誰か偉大な宗教家の教義にゆだねたほうが楽だし深い体験ができる。
どこかに所属したり、宗教仲間がいれば熱も醒めにくいね。と思うのが宗教を肯定する心理かな。
ただ、再構築には厳しいものがあるね。改宗に改宗を重ねることのできる人の精神はどうなってるんだろう。
ゲーテによれば、真の詩人は脱皮と転身によって更生することを怠らないものでなければならないようだ。
ヘッセにせよ、坂口安吾にせよ、偉大だと思うよ。僕はそんなことしてたらノイローゼになるな。
私にとって
表向きのキリスト教は
キリスト原理主義者に家畜(被キリスト教信者)と決めつけられている人達。
(表向きのキリスト教徒は 思想的には「塞翁が馬」な人達だと思う。←肯定的)

「ユダヤ人」とは
イエスの「奇跡の秘密」を公に明かした13人目の使徒に因み
キリスト原理主義者にとっての「裏切り者」のことで、
元々「カッバーラ預言」を信奉していた部族の人も含んではいるが
「トーラー(キリスト教信者視点で旧約聖書)」を信奉している集団や部族とは別物
という認識です。
ユダヤ悪人説を唱える全ての振興宗教はキリスト原理主義者(隠れキリシタン)の
隠れ蓑で家畜的な存在だと思う。

キリスト原理主義者の飼い主「GOD」は
日本で言うところの「ごとし(=悪事師、詐欺師・香具師興行師)」で
式神(犬神)の呪法を使って 人を奴隷化している様に思う。
(「主」の云うことを聞かないと死ぬと信じ込まされる、
殺し合いをして勝たないと「主」の采配で殺される、
「主」が理由を他人の所為と偽って虐待する、等。)

ゲーテは大嫌い。ゲーテにお友達呼ばわりされた人は苦労しただろう。
ゲーテが悲しいと泣きついてこられて一緒に悲しがらなきゃならなかったりして。
ゲーテの楽しいことを理由にパーティしたりするくらい余裕がある暇人なら
ゲーテが来ても困らないかも知れないが。


専門的なのか偏ってるのか知らないけど、詳しいねぇ。元キリシタンってとこかな。
キリスト教は結局左翼の道具なので純粋な信徒は利用されていることもあるね。でも宗教
は精神を進化させるためにあるのなら、利用されていてもいいと思うよ。盲目でいられるう
ちは幸せだ。あとで恨みに反転しなければ。僕は性格を改善するのに役立ったと思う。カ
ルマをある程度浄化させることができた。
ということで、キリスト教は一旦眠らせておいてヨーガを勉強し始めました。
面白いよ。幽体(アストラル)、モナド(高次)、ロゴス(神的)などの存在を確信しそうだ。
チャクラを覚醒させるとクンダリニーと呼ばれる蛇の火が脊髄から上る。ペンテコステを経
験したときもこれと似たような現象だったな。
しかしヨーガは実践的であるがゆえかなり危険な匂いがする。
クンダリニーの覚醒は、ヨギには解脱を与え、愚者には苦悩のくびきを与える。
心が拡大するので、心の解析が先にないと自分のルサンチにやられる。師匠にお前はもう
準備ができたと判断されるまでは蛇の火はじっと眠ったままにしておかねばならないようだ。
しかし黒魔術の一派には正統派が決して用いないようなやりかたで早熟に展開させてしまう
ものがある。オウムがこの典型だね。麻原に無理矢理クンダリニーを上げられる技法シャク
ティーパットを受けた人には自殺者が多いとか。
キリスト教なんて政治には絡むものの健全な部類だったのかもしれない。
僕の性格はまだ未熟だからヨーガを実践するのはもう少し発達してからにしよう。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/spb-kataru.htm
シルバーバーチはよさげだ。
この摂理上にキリスト教の信仰を立てているうちは心身ともに安全だろう。
99あしたば ◆RoxTRaXY7k :04/03/12 04:16
宗教は多かれ少なかれ、コンテクストに根付いた方法論としての側面があります。
>>97の言う「キリスト原理主義」も、それが本当に原理主義なのかどうかは解りませんが
密教やヨーガと同じように、時には他人を飼い犬(会員、と発音が似ているのがキニナル)
とする方法として使われる場合もあるでしょう。
考え方は具体的なコンテクストと合致した場合に行為となり、危険となりますが
それ自体に対しては、単純に善いとか悪いとか言えるものではないと思います。
(思想の自由が広く許容され、考え方それのみは罰されないという認識があります)
その考え方が「間違っている」ということも、コンテクスト抜きに語り得ません。
実際に>>97の言うような「キリスト原理主義者」が裏で糸を引いているのかについて、
(そのコンテクストについて)残念ながら私は全くのところ無知ですが。
確かにゲーテの著作は二元論に基づき非常に「キリスト教的」です。でも、それをもって
「キリスト教とはこういうもので、嫌いだ」という結論に至ってしまうのも、危険だと思います。
排除してしまっては、それについてそれより深く語ることが出来ません。

ヨーガは一つの方法論を備えた宗教(学派)としてありますが、
インド古典哲学(ヴェーダ)ではより幅広い意味をもった言葉として使われています。
(私の持つテクストでは「道」と訳されていますが…)
これは100でageろとの啓示ですね?

宗教画は好きですでも象さんのほうがもっと好きです
>>100
宗教画はレンブラントを見たよ
感動して泣けた
・゚・(つД`)・゚・。゚
102あしたば ◆RoxTRaXY7k :04/03/22 02:41
アフリカのある部族の宗教では、精霊と英雄と先祖が区別される。
どうやら、私たちを滅ぼすものと私たちに益するものと私たちを成り立たせるものらしい。
どうやらその場合、厳密な意味における神性とは「滅ぼす」ことにあるようだ。
103あしたば ◆RoxTRaXY7k :04/03/22 02:43
シヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーの区別に対応しているのかどうかは解らない。
104真琴:04/03/22 23:02
救済スレは昨日見つけた。このスレはきょう見つけました。
わたしは出会いとかタイミングとかご縁とかシンクロニシティとか世界が立ち現われてくる順序とかに「意味」を感じるほうで、
このスレを開いてピエロさんとあしたばさんが濃い会話をしているのを見て「ヽ(`Д´)ノ ウワァァン 」と小躍りしました。

ここにあるあしたばさんの断片を見たら、
あしたばさんの本家での言葉に現われている躰の姿勢がすこし身になってわかる感じがした。
より正確に言うと、わたしが誤解していた部分と、
だからわたしにはよくわからない話だったんだという部分がすこし見えてきた感じ。

わたしの口調はたぶんこのスレの雰囲気をちょっと崩してしまう気がするけど
中継地点で書くとむしろブロードキャストしてしまいそうなのでスレ汚しスマソ。

ピエロさん、お元気そうで嬉しいです。
てゆか、以前から一味違うひとでしたが、
以前の軽妙才子が別な光を放って凄くなってますね。

では、ごきげんよう。
神様僕は今日とてもつまらないんです神様は僕たちがおいしいとかきれいとか喜ぶようにこの世界を
お造りになったのに僕だけが今日とてもつまらないんですつまらないんですよーと手を合わせて訴えていたら
神はやっぱり僕のそばにいてくださった。僕は涙しました。僕が悲しむと神様は満たそうとしてくる。
だから神性が滅ぼすものだとしたらちょっと困るな。

シンクロニシティーにはもちろん意味ありますとも。
小宇宙の領域で有機的にシンクロしているのかね。
相対性理論の一部に考えられるとか本に書いてあった。
でも解明はできないね。
神についても無理だね。
観念的に考えても仕方ない。人間に宇宙や生い物は作れないし脳なんてものもそもそも人知を超えている。
考えすぎないことが信仰だというし、宗教は疑いさえしなければ見えてくるものだ。
せっかく無意識の世界を生きていても、夢のようでよく覚えていないけどね。
現実に沸き起こっているという現実が恐ろしい。夢ではないから現実に則ってちゃんと存在意識が羽ばたいている。
万物の全てと調和している。あぁ神を知ると自然が美しい。神が死んだらつまらない。
ではごきげんよう。
宗教的思考を発展させると無意識が見えてくる。その瞬間、聖書が比喩でないことがわかる。
歴史に自己の内層の世界を見ることができるというより、歴史は必然の摂理であり、内層世界
が現実化したもの、内層世界を現実化したものである。戦争を起こすほどのエネルギーがある。
聖書の全ては内的に現実に起こる。神の摂理に則って受難を乗り越えれば過越祭で祝福される。
その五日後には除酵祭にて確固たる自我が芽生え、神を求めるようになったらペンテコステで聖
霊に満たされる。バプテスマではいにしえの時代に回帰するし祈りを知れば常に心は整理される。
ハルマゲドンも走馬灯のようにして起こるもので神の国とは完全に聖霊に満たされた国に生きる
自分のことだ。聖書に書かれていることは自分の中にすっぽりと入ってくる。
祈りを覚える過程で神様の存在はどんどん大きくなるが、
あまり頼りすぎていてはいけないね、神様から自立しないと。
私は見ました。
啓示を受けた気になっている人の後ろで「啓示」的内容の囁きをしている人を。
私にご先祖様や妖精さんが見えるのでは無く、多分民事介入暴力団員です。
笑気ガスとか大麻入りタバコとか使ってます。 みんなが暴露しないのは
強迫されている所為だと思ってたが本当に記憶が出てこない様です。
表沙汰にならないのは麻薬捜査官が天皇縁の風習だと洗脳されているのです。

天皇が昔ナチス寄りの軍部と組んでいた頃は
本当に秘密警察風団体が世論操作のために暗躍していたのかも知れませんが
国籍にこだわらないナチス的集団の言うなりに殺し合いをするべきでは無い
と思います。
109108:04/03/31 23:31
「>殺し合い」というか、キリスト原理主義的世界の構築。

民事介入暴力団体はこんな風に洗脳していた。↓
『人間はゴットの家畜で 
ゴット(主)の手伝い手と狩られる羊(又は刈り取られる麦)に分けられる』
ぶっちゃけ、していることは「犬神の呪術」と同じ。
110108:04/03/31 23:37
民事介入暴力団体と表現したけれど、
「天皇風習絡み」と言う特例を詐欺に取り入れてウヤムヤにしていなければ
只のマフィア行為だと思います。
キリストは未だ要るの?
112あしたば ◆RoxTRaXY7k :04/04/11 02:06
キリストはやがて来るべき日に、再び来るのでしたっけ…?
113名無しちゃん…電波届いた?:04/04/12 00:08


  「 わ れ は  在 る 」
自己中心的に振る舞った人々の大罪を
背負って死んでくれる「クライヒト」など居なくて良し。

自己責任でお願いしますよ。
115月・ピ・エ:04/05/03 23:53
そう思うなら素直に仏教やっとけばいいのに。
116月・ピ・エ:04/05/03 23:53
そう思うなら素直に仏教やっとけばいいのに。
117月・ピ・エ:04/05/03 23:56
ルサンチしてても無駄無駄。馬鹿の不健康。
聖書なんてもんは健脳食でも食べるみたいに摂取して
そのあとはうんこひるみたいにしてればいいんだよ。
分析したければ数学でもやっとれって感じ。
118月・ピ・エ:04/05/04 00:00
仏教はいいね。ちゃかぽこちゃかぽこのあの音がいい。
119月・ピ・エ:04/05/04 00:05
法事の最中dでた。
仏陀が考えていた哲学の中ではきっと
お香を焚いた座敷の中で長時間正座してふらつく集会を催すことは
重要では無かったはずだと思いたい。
121名無しちゃん…電波届いた?:04/05/10 00:19
仏像をぶつぞう!
122名無しちゃん…電波届いた?:04/05/16 19:51
このスレにネ申は降臨するのか?
123名無しちゃん…電波届いた?
するのか?