上京してきて間もなくのころの話なのです。
当時はお仕事で神奈川県の中村さんというお宅に毎週二回お伺いしていたのです。
建ったばかりのマンションの脇道を一番奥の突き当たりまで入ったところに中村さんのお宅はありました。
マンションを過ぎて中村さんのお宅までには古い二階建てのアパートが一つあって、脇道を挟んだアパートの向かいには
小さな地面を剥き出しにした駐車場と空き地を利用したこれまた小さな公園がありました。
小さな公園にはスペースを考慮せずにジャングルジムとブランコと滑り台が置かれていて
遊戯のために置かれているのか、どこかの別の公園のための物置場として利用されているか
判断がつかないような有様でしたなのです。
それでも天気の良い日にはマンションの住民の子供達や、お母さんに連れられた年端のいかない子が遊んでいたりするのを何回か見かけたりしましたなのです。
公園と脇道の境には半分だけ地上に出た状態の古タイヤが埋められていて、
いつもそのタイヤに腰掛けて何か本を読んでいる女の子がいました。
小学校に入るか入らないかくらいの年齢の女の子で、あんまり見かけないおかっぱ頭の女の子でしたなのです。
私が車で通る脇道には背中を向けているのでどんな顔をしているのかはわかりませんでしたが、
いつも同じ本、大きく絵が描かれている絵本を読んでいるのはわかりましたなのです。
他に遊んでいる子がいる時にも一緒に遊んだりしないで一所懸命にいつも同じ絵本を読んでいる女の子というのは
それこそが絵本のようで私の興味をひいたものなのです。
中村さんのお宅はもう子供も大きくなりそれぞれ別に所帯を持ち、家にはご主人の中村さんと奥様の二人だけで住んでいましたなのです。
私は仕事の話が一段落した時にその女の子の事を中村さんにそれとなく訊いてみたのです。
どうやらその女の子はちょっとした有名人だったらしく、中村さん夫婦はいろいろ話してくれたのです。
その女の子は脇道沿いに建つ古いアパートに越して来た夫婦らしき男女の子供である事。
夫婦らしきというのは女の子のお母さん(女の子がそう呼ぶのを何回か見かけたりしたので)は三十過ぎに見えるが
男は二十歳そこそこでとても女の子の父親には見えないため。
女の子はあかねという名前である事。
たぶん状況から判断するにあかねちゃんは女の連れ子であり若い男は女の新しい男ではないかという事。
あそこで本を読んでいるのはどうやら男が夜仕事らしくあかねちゃんが部屋にいるとうるさいと怒鳴られる
ために男が仕事に出かけるまではああやって座っているのだという事。
雨が降る日は見かけないから部屋に居られないというわけではない事。
などなどいろいろ話してくれたのです。
それから先は中村さん夫婦は二人してその男女がゴミの分別を守らないとか、住んでいるアパートの2階の窓からゴミを捨てるとか、
大きな音を立ててバイクで朝方に帰ってくるとか、男女に対する不平不満を語り始めて
とんでもない奴らで迷惑しているんだと罵ったりしたのです。
それとあかねちゃんもかわいそうだとは思うが手癖がよくないのだと半ば飽きれ気味に嘆息したのです。
ヤクルトを配達するバイクから何回かヤクルトを盗んだり近所のスーパーでも似たような事をしたりしてよくない事で有名な子なんだと教えてくれたのです。
意外にいろんな事を中村さん夫婦が知っていたのでちょっと驚いたけれど古くからここに住む中村さんには
いろんな情報が自然に入ってくるようだったのです。
あるとき私が脇道を車で通りかかるとヤクルトの配達用バイクが止まっていて配達の女性の姿は見えず
あかねちゃんがバイクに付けられたバックの中に手を入れて何かを取ろうとしている場面に出くわしたのです。
あかねちゃんは私の車の音に気づいたのか慌てて手を引っ込めて背中の後ろに回し
私の車の方を見て恥ずかしそうに笑ったのです。
私の車がすぐ横を通り過ぎて行く間もあかねちゃんは笑顔でした。
笑顔で私をじーっと目で追います。
バックミラーに映るあかねちゃんはまだ笑顔です。
私は思い切って車を止めました。
車のドアを開けて降りちょっと戻って笑顔のあかねちゃんに話かけようとしました。
「なにもしてないよ」
私が話かけるよりも先にあかねちゃんは言いました。
どうやらヤクルトを取ろうとした事を咎められると思ったようなのです。
不思議なのはあかねちゃんは嬉しそうに屈託なく笑顔でそういうのです。
咎められる後ろ暗さを隠すようなそぶりをまったく感じさせないのです。
「そうですかなのです。ちょっと訊きたいことがあるのですがいいですかなのです。」
嬉しそうに笑うあかねちゃんに私は話かけます。
「なーに」
あかねちゃんはこれまたいっそうに嬉しそうに答えます。
「いつも読んでいる絵本はなんていう絵本ですかなのです。」
私はずっと知りたかった質問をあかねちゃんにしました。
あかねちゃんはものすごく意外な顔をして、きゃはっと笑い声をあげながら答えてくれました。
「泣いた赤鬼っていう本だよ」
それ以来、あかねちゃんは私を見かけるたびに手を振ってくるようになりました。
公園の古タイヤを座っているときも絵本から顔を上げて私の方を見て手を振ります。
脇道は行き当たりが中村さんのお宅なので車が入ってくる事もあまりないため音でわかるみたいなのです。
一所懸命手を振るあかねちゃんに私はいつもちょっとだけ手を振って答えます。
あかねちゃんは安心したようにまたうつむいて絵本「泣いた赤鬼」を読み続けます。
いったい何回、何十回ことによっては何百回、あかねちゃんは泣いた赤鬼を読んできたのでしょうか。
陽も長くなったある日の事なのです。
私が中村さんの家を辞し車に乗り込もうとすると車の陰にあかねちゃんがいました。
絵本を抱え笑顔で私を見上げています。
どうやら私の帰るのを待っていたようなのです。
「どうかしたんですかなのです。」
私が不思議そうな物言いで問いかけると、あかねちゃんは私に絵本を自慢するように両手で掲げて「読んであげようかー」と言います。
どうやら私に泣いた赤鬼を読んでくれるために待っていてくれたようなのです。
「それはうれしいですねなのです。読んでほしいのです。」
まだ陽は高く絵本の文字も絵も十分に読み取れます。
私とあかねちゃんはいつもあかねちゃんが座っている古タイヤにならんで腰掛けました。
絵本はもう角が擦り切れたりして装丁もかなり傷んでいました。
あかねちゃんが毎日毎日読んできたのだから当たり前かもしれません。
浜田広介さんの書いた童話「泣いた赤鬼」を子供向けに簡略した絵本なのでした。
一つ小さい息を吸い込むとあかねちゃんは読みはじめました。
山の中に、一人の赤鬼が住んでいました。赤鬼は、人間たちとも仲良くしたいと考えて、自分の家の前に、
「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます。」
と書いた、立て札を立てました。
けれども、人間は疑って、誰一人遊びにきませんでした。
赤鬼は悲しみ、信用してもらえないことをくやしがり、おしまいには腹を立てて、立て札を引き抜いてしまいました。
そこへ、友達の青鬼が訪ねて来ました。青鬼は、わけを聞いて、赤鬼のために次のようなことを考えてやりました。
青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。
そうすれば、人間たちにも、赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう、と言うのでした。
しかし、それでは青鬼にすまない、としぶる赤鬼を、青鬼は、無理やり引っ張って、村へ出かけて行きました。
計画は成功して、村の人たちは、安心して赤鬼のところへ遊びにくるようになりました。
毎日、毎日、村から山へ、三人、五人と連れ立って、出かけて来ました。
こうして、赤鬼には人間の友達ができました。赤鬼は、とても喜びました。
しかし、日がたつにつれて、気になってくることがありました。
それは、あの日から訪ねて来なくなった、青鬼のことでした。
ある日、赤鬼は、青鬼の家を訪ねてみました。青鬼の家は、戸が、かたく、しまっていました。
ふと、気がつくと、戸のわきには、貼り紙がしてありました。そして、それに、何か、字が書かれていました。
「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。
それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。どこまでも君の友達、青鬼。」
赤鬼は、だまって、それを読みました。二度も三度も読みました。
戸に手をかけて顔を押し付け、しくしくと、なみだを流して泣きました。
どれだけ読めばこんなに小さな子がつまる事もなく朗読できるのかな思うほどにうまくあかねちゃんは読んでくれました。
小さな指でページくりながら一所懸命読んでくれたのです。
絵本は青鬼がいなくなってしまった事を知らずに青鬼の家を訪ねてきた赤鬼が持ってきたお土産を肩を落として持ち帰る後ろ姿で終わっていました。
「おしまい」
あかねちゃんは読み終えると「おもしろかった」と私に訊きました。
「かなしいお話ですねなのです。」
と私は答えました。
まだ外は明るく、ついでに私とあかねちゃんはいろんな話をしました。
あかねちゃんは本来なら幼稚園に通っている年齢らしかったなのです。
でもお母さんとその男が育児を放棄しがちで引っ越してきてからずっと家にいるみたいなのです。
引っ越してくる前、まだお父さんとお母さんと一緒に住んでいた時は保育園にも通っていたみたいなのです。
そんな内容なのに楽しそうに話すあかねちゃんは聞いてくれる相手がいるだけでいいのかもしれないのです。
中村さんの所に伺うようななって数ヶ月経ったころに「あんたあんまりこんな事を言いたくないんだけど」と前置きされて
私があかねちゃんと話したりしているのが噂になってたりするから止めてくれないかと言われたのです。
「あんたに悪気があるとは思ってないんだけど、うちに出入りしている人だらさ、なにかとね」
中村さんの言われる事もなんとなく理解できたのです。
私は仕事で週二回来ているだけであり仕事が終わればもうこちらに来る事もないのです。
ずっとこの場所に住み続ける中村さんに迷惑をかけるわけにはいかないのです。
「どうも思慮が足らずにすみませんなのです。気をつけますなのです。ただあかねちゃんはいい子ですよなのです。」
とだけ言いました。
そんな事もあったり、中村さん依頼の仕事も終わりに近づき自宅まで訪ねる機会も減ってきたので
あかねちゃんに会うことはもとより姿を見る事もしばらくありませんでした。
七月に入って久しぶりに仕事の最終チェックをしてもらうために中村さんのお宅に伺いましたなのです。
幸い仕事の出来はご希望に沿えているようでたいして修正する事もなく無事に終わりそうでしたなのです。
御自宅を辞去する時に中村さんが思い出したように言いました。
「あの、あかねちゃん家ね、引っ越したみたいよ。引っ越したという夜逃げだね。昨日の夜中に夜逃げしたみたいだ」
どうやら家賃も数ヶ月分払っていなかったらしく部屋もゴミだけ残してもぬけの殻だと大家さんが愚痴っているのを聞いたみたいなのです。
私は中村さんの家を出るとなんとはなしに公園へと歩いて行きました。
長居をしたので日はすっかり暮れて公園にあるわずかの外灯はあかねちゃんがいつも座っていた古タイヤを照らしていました。
向かいのアパートに目をやるとあかねちゃんが住んでいた部屋は真っ暗でした。
何気なく反対側に立つジャングルジムを見ると真ん中辺りでなにかが風に吹かれてくるくると回転していました。
どうやら誰かがジャングルジムの鉄パイプに何かを結び付けたみたいなのです。
それが夜風に吹かれて回っていたのです。
暗がりの中を歩いてジャングルジムに近づき回転するそれを手に取ると、それは七夕の短冊でした。
ああ今日は七月七日で七夕なのかと私は思いました。
笹が手に入らないからなのか笹の代わりにジャングルジムに糸で短冊が結んであったのです。
短冊には
「 あかおにさんとあおおにさんがまたあえますように あかね 」
とありました。
空には上弦の月がかかり星はあまり見えませんでした。
私はあまり上手く結べていない短冊が夜風に飛んでいかないようにしっかり結び直しました。
赤オニクン。ニンゲンタチトハ ドコマデモ ナカヨク マジメニ ツキアッテ タノシク クラシテ イッテ クダサイ。
ボクハ、シバラク キミニハ オ目ニ カカリマセン。コノママ キミト ツキアイヲ ツヅケテ イケバ、ニンゲンハ、キミヲ ウタガウ コトガ ナイトモ カギリマセン。
ウスキミ ワルク オモワナイデモ アリマセン。ソレデハ マコトニ ツマラナイ。ソウ カンガエテ、ボクハ コレカラ タビニ デル コトニ シマシタ。ナガイ ナガイ タビニ ナルカモ シレマセン。
ケレドモ、ボクハ イツデモ キミヲ ワスレマイ。イツカ ドコカデ マタアエルカモ シレマセン。
サヨウナラ キミ。カラダヲ ダイジニ シテ クダサイ。
ドコマデモ キミノ 友ダチ 青オニ
おしまいなのです。