3月8日は「国際婦人(女性)デー」。1904年、米の女性労働者が参政権デモを始めた日だ。
1910年、ドイツ社民党の反戦派の女性活動家がこの日を記念日とするよう提唱し、後年、
国連が定めた。20世紀は女性が人権意識に目覚め、政治活動する時代が到来していた。
一次大戦がつづく1915年、オランダ・ヘーグに欧米諸国の女性が集まり、WILPF(婦人国際
平和自由連盟)を結成。身を飾ったご夫人たちが、「愛と涙」に訴えて戦争に反対した。
http://www17.ocn.ne.jp/~wilpf/ 戦争を忌避する空気は、1920年の国際連盟や1928年の不戦条約の成立へとつながっていった。
戦争観の激変に写真も寄与した。1924年、ドイツで出版された反戦写真集は生々しく過激だ
った。添えられたコピーの最後は、女性へのアジテーションで締めくくられていた。
《そして汝ら女性たちよ。…… 夫を前線に行かせてはならない。……すべての鉄道を破壊
せよ。そして,身を投げて列車の前に立ちはだかれ。…… 全世界の母たちよ,団結せよ!》
(*エルンスト・フリードリッヒ『戦争に反対する戦争』訳:坪井主税 龍渓書舎 1988 頁30-31)
だが、その言葉がドイツの女性にどれだけ届いたかは分からない。 (4へ)
親しい者を奪われ、一方的に裁かれ、凶暴なハイパーインフレに苦しめられた20年代、
ドイツでは『シオンの議定書』がベトスセラーとなった。(拙
>>172)
1930年代前半、大佛次郎と同級生の日本人が出張先のドイツで反戦小説『西部戦線異常なし』
(1929)を読んでいると、下宿屋の女将から注意された。「そんな本は読むな」と。
雪辱を晴らしたいと望む女性は、むしろ民族優越思想やヘイトスピーチに心を奪われた。
ヒトラー最大の支持層は、軍人でも経済人でも若者でもなく……女性層だった。
しかし、その先に待っていたものは……。
《ドイツ人のなかに罪なきものなど存在はしない。…… なんとしてもドイツ女の人種的
高慢の鼻をへし折ってやれ、殺せ、汝ら勇敢に進撃する赤軍兵士たちよ!》
上は、あるユダヤ系作家が反撃に転じた赤軍に配布したとされる檄文だ。
(*A・ファークツ『ミリタリズムの歴史』訳:望田幸男 福村出版 1994 頁502-503)
……ベルリンが陥落したとき、一説では200万人の女性が性暴力の犠牲者となった。