漱石枕流(そうせきちんりゅう)
【意味】 強情に屁理屈を言って言い逃れをすること。へそ曲がり。負け惜しみが強いこと。
【説明】 中国晋の孫楚(そんそ)は隠遁しようと思い「流れに漱(すす)ぎ石に枕す」と言うべきところを「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまい、
友人の王済に誤りを指摘されたが、「流れを枕にするのは耳を洗うため、石で漱ぐのは歯を磨くため」と言い張ったという故事による。
夏目漱石のペンネームはこの故事に由来する。また流石(さすが)という語の由来でもある。
漱石枕流の語源となる故事は、「晋書」に記載されている。
晋は魏呉蜀三国時代の次の王朝である。西晋(265−316)、東晋(317−420)の正史「晋書」は、
唐の房玄齢(ぼうげんれい、578−648)により書かれた。成立は西暦648年である。
晋書は、帝紀10巻、志20巻、列伝70巻、載記30巻、全130巻から成る。
その列伝第二十六巻孫楚伝に漱石枕流の故事がある。
ところが、晋書には日本語現代語の全訳が存在しないらしい。
また、晋書は晋代から時間が経ってからの成立なので、誤記も多く、史書としての評価は低いらしい。
唐代に「蒙求」という書物が書かれた。撰者は李瀚(りかん)、成立西暦746年である。
漱石枕流の故事は晋書に拠って蒙求の標題七十一「孫楚漱石」(そんそそうせき)に記載されている。
蒙求は幼学書として撰者李瀚によって編纂された。
内容は編纂当時の唐代に存在した、史書、漢書、三国志、晋書、等々の書物より抜粋選択され、
「標題」と言う四字のタイトルが付けられた。標題の数は596である。日本における蒙求の最初の記録は西暦878年である。
その後蒙求は、日本、中国で幼学書として広く普及する。漱石枕流の故事は、蒙求に載ったことで後世に伝わることになる。
世説新語は東晋の後の南朝、劉宋の劉義慶(りゅうぎけい、403−444)によって編纂され、梁の劉孝標(りゅうこうひょう、462−521)が注を付した。
成立がこの後の時代になる晋書や蒙求にどう影響したのかは勉強不足でよくわからないが、影響を与えたのは確かだと思う。世説新語には漱石枕流の故事も含めて、
王済と孫楚がセットになってよく出てくる。王済と孫楚は同郷で、故郷を評して正反対の事を言い争った話や、王済が死んでその葬式に出席したときの孫楚の話などがある。
単独での記述は王済が多い。二人は郷里が近く若い時から仲がよかったようだ。郷里が近いとはいえ、孫楚は太原中都の人、王済は太原晋陽の人とある。
中都と晋陽がどれ位の距離なのかはよく判らない。二人とも西晋の貴族出身で、王済は太原王氏という名門である。晋の貴族には王氏が二つあり、
太原王氏と琅邪王氏(ろうやおうし)と呼ばれる。「書聖」として有名な王羲之は琅邪王氏出身である。
太原王氏は名門であるのでこのように立派な系図が判ったが、一方の孫楚の孫氏はそれ程の家系では無かった様である。
東晋の孫盛、孫綽が孫楚の孫にあたる、ということしか判らなかった。やはり家柄が違うので王済と孫楚は仲がいいのに仕官の面では全然違っている。
王済の妻常山公主(じょうざんこうしゅ)は西晋武帝司馬炎の娘である。この点別資料では妹となっている。どちらであるにせよ皇帝の血族である。
これだけで王氏がいかに名門かが判る。王済は武帝の側近として権力があったが、従兄の王佑(おうゆう)に謀られて左遷され、最後は免職になった。
免職後の王済は、頭がおかしくなったかのような贅沢三昧の生活をする。王済は馬好きで有名だったらしが、
自分の馬の放牧地を柵で囲いその柵全体に銭!?を編みこんだ話や、豚に人乳!?を飲ませて育て、その肉を食べた話が世説新語に載っている。
馬柵に銭の話は、蒙求にも標題「武子金埒」として取り上げられた。謀られて免職になったのがよほどくやしかったのであろう。
漱石枕流の故事では孫楚が、流れに枕するのは耳を洗うためだ、と言い訳している。
実はこの「耳を洗う」のは重要な意味を持っていて、「許巣伝説」を暗示している。許巣伝説とは次のようなものである。
許由(きょうゆう)、巣父(そうほ)は共に中国古代の伝説上の帝王堯(ぎょう)の時代の高士である。
許由は、堯が自分に帝位を譲ろうというのを聞いて、「耳が汚れた。」と頴川(えいせん)で耳を洗った。
巣父は、牛に水を飲ませようと頴川まで来たところ許由のその話を聞いて、「そんな汚れた川の水は飲ませられない。」と牛を牽いて帰ってしまった。という故事。
この故事は、帝王の資質を持っているほどの偉人は無欲であり高潔である、と言っている。
許由も巣父も帝王になる資質を持ちながら、そんな噂を聞くのも激しく嫌がった、という事である。
漱石枕流での孫楚の言い訳は、「許由が頴川で耳を洗ったように自分も耳を洗うのだ。」と言っていると考えられる。
漱石枕流の故事は、「流石」という語の語源にもなっている。孫楚が言い訳で許巣伝説を暗示しているのは、まさに流石と言えると思う。
漱石枕流の原文中には許巣伝説はでてこない。しかし、現代語訳ではどの解説書にも許巣伝説を暗示している、と書いてある。
許巣伝説を暗示している証拠が蒙求孫楚漱石の文中にある。原文で「誤云、漱石枕流」と孫楚が、漱石、枕流、の順に間違っているのに、
王済の反論は「濟曰、流非可枕、石非可漱」と、枕流、漱石、の順で述べられている。この部分は「濟曰、石非可漱、流非可枕」と表現されるのが自然ではないかと思う。
次の孫楚の言い訳も、枕流、漱石、の順である。想像するに、枕流にこそ許巣伝説の暗示があるため、実際の会話とは違って枕流が前に出てしまったのではないかと考えられる。
漱石枕流の故事についてインターネットで調べるといろいろな記述がある。孫楚、王済に関してもいろいろ書かれているが、
許巣伝説にまで言及されている方は少ない。私は許巣伝説の暗示があるからこそ、漱石枕流は故事として残ったと考える。それらを踏まえて、
孫楚と王済の面会がどのようなものだったか想像してみる。
資料によると、王済は生没年不詳、孫楚は生年不詳没年282年とある。王済のほうが名門で有名なのに生没年不詳とはおかしなことである。
世説新語によると、孫楚は王済の葬式に出席しているので、少なくとも王済は282年以前に死んでいる。
恐らく失脚後の病的とも言える贅沢な生活が災いして短命だったのではないかと思う。王済の父王渾は、223年生まれ297年没となっている。
孫楚は40歳にして初めて仕官した。5年仕官して没したと考えて、初めて仕官したのが277年、生まれたのが237年になる。王済も同じ年頃として、
しかし王渾が223年生まれなので、20歳の時の子とすれば王済の生まれは243年となる。王済より孫楚のほうが5歳年上になる。
二人が会ったのは孫楚漱石によるとまだ若い時とあるので、孫楚25歳の時とすると262年になる。西晋の成立は265年である。
王済が権力を握ったのは、晋の司馬炎のおかげなので、265年以降である。何かいろいろむりがあって、
もっと確かな事実を知っている人がこの稿を読んだら笑うかもしれないが、孫楚、王済が会って漱石枕流の故事の会話がなされたのは、262年、
つまりまだ晋の前の魏の末期と仮定する。この頃の日本はまだ国になっていなかった。卑弥呼が魏に遣使したのが239年、大和朝廷の成立が350年頃である。
こんな昔の人の話が今に伝わっているのはすごい事だと思う。
さて、孫楚、王済の面会の事である。262年頃、王渾、王済父子は魏において名門の家柄だった。王済はまだ年が若く仕官もしておらず、
しかし孫楚とはこの数年前より交流があり、互いの能力と似たような偏屈な性格のせいでおおいに意気投合した。孫楚は仕官したかったが、
家柄がそれほど高くなかったので仕官できず、日々悶々としていた。王済は「そのうち俺が出世してなんとかしてやるよ。」と言って慰めた。
ある時、王済が孫楚を訪ねて来た時、孫楚は変なことを言い出した。自分は隠遁したいと。
孫楚は能力があるのに仕官できない自分を隠遁することで、古の高士許由にでもなれるようなつもりでいた。
しかし、許由と孫楚には雲泥の差がある。孫楚は世に出たいという欲望があるが、許由にはそれがない。欲望がありつつ隠遁したいなどと言おうとしたので、
そんな時、人は言い間違えをするものである。「枕石漱流」と言うべきところを「漱石枕流」と言ってしまった。王済は即座に突っ込んだ。「石では漱げないし、
流れに枕はできないだろう。」と。孫楚は暫く沈黙した。王済はニコニコしながら「またそんな心にも無いことをよく言うよ。」と言い掛けた瞬間、
孫楚が「流れに枕するのは耳を洗うため。」と言い、少し間を置いて「石で漱ぐのは歯を磨くためさ。」と言った。孫楚はこの時、許巣伝説が頭に浮かんで、
とっさに「耳を洗う」と言ったのだが、そのことは言わなかった。王済は許巣伝説には気が付かなかった。この時もし王済が許巣伝説に気が付いていれば、
王済は必ずそのことに言及し、漱石枕流の故事はその言及までを含めた故事として残ったのであろうが、故事は孫楚の言い訳で終わっている。
これは王済が許巣伝説に気が付かなかったためだと思う。後日某と王済が話している時、孫楚の話になり、
漱石枕流の話をすると、某は「それは許巣伝説です。」と王済に教えた。王済はさすがに孫楚だ、と改めて関心した。
時は流れて王済は出世した。王済は孫楚を仕官させたかったらしく、人事職に就いたとき、孫楚を最高に褒めた推薦状を書いたと言われている。
恐らく王済が孫楚の人柄を語るとき、漱石枕流のエピソードも語ったのであろう。王済のおかげかどうか判らないが、
孫楚は歳40にして念願の仕官が叶うのである。そしてこの漱石枕流の故事は世説新語、晋書、蒙求を経て、現在に至るのである。
繰り返し述べるが、この稿で書いていることは全て想定の話で事実ではない。ほんの些細な事実が判明するだけで,
ここに書いていることは全て嘘になってしまうと思う。これを読んでいるこの時代の王済、孫楚に関する事実情報をご存知の方は是非ご連絡頂きたい。
漱石枕流は以上述べた経緯で成立した。蒙求に記載されたことは大きく影響して、この故事は成立から1,700年経った今でも語られているのである。
孫楚は有名な人物ではないが、この故事が語られる度に、「変な言い訳をした頑固者」として後世に長く名を残している。私は孫楚は変な人という解釈が多いのが気になる。
例えば、流石の語源を調べると必ず孫楚が出て来るのだが、一般的な説明は以下の様である。
「流石」の語源
中国の晋の時代に孫楚という人がいた。友人に隠遁したいという意味で「石に枕し流れに漱ぐ」と言うべきところ「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまった。
友人が誤りを指摘すると「石に漱ぐのは歯を磨くため、流れに枕するのは耳を洗うためさ」と(さすがな?)言い訳をした故事から、「流石」という語になった。
この説明では孫楚はやはり変な人になってしまう。流石がなんでさすがなのかというと、「耳を洗う」に許巣伝説を暗示しているからである。
孫楚の言い訳が流石なのではない。しかも説明は、石、流、の順で言い訳している。これでは石流でさすがである。
故事に王済の名がでてこないのも良くない。なにか孫楚だけが損をしている気がする。以下に私が考えた流石の語源を示す。
「流石」の語源
中国の晋の時代に孫楚という人がいた。王済という人に隠遁したいという意味で「石に枕し流れに漱ぐ」(枕石漱流)と言うべきところ、
「石に漱ぎ流れに枕す」(漱石枕流)と言ってしまった。王済が誤りを指摘すると「流れに枕するのは(あの許巣伝説の許由のように)耳を洗うため、
石に漱ぐのは歯を磨くためさ」と言い訳をした。王済は後になって孫楚の言い訳に許巣伝説が暗示されているのを知り、改めて(さすがに孫楚だと)感心した。
という「漱石枕流」の故事から、「さすが」という日本語に「流石」という漢字をあてるようになった。
これだと孫楚は少しはまともな人として認識されるだろう。私は流石の語源や漱石枕流の故事の説明には次に示す事を必ず入れないと正しい説明にならないと考える。
第一に王済という人物の名前を出すことである。漱石枕流の故事での王済の役割は大きい。言い間違えをしたのは孫楚だがそれを後世に伝えたのは王済である。
王済が漱石枕流に許巣伝説の暗示があることに気が付かなかったら故事にならなかっただろう。第二に孫楚の言い訳の順序である。
蒙求の原文や流石の語の順序が示す通り孫楚は許巣伝説の暗示のために言い間違った語と逆の順に言い訳をしている。
そしてこれが許巣伝説暗示の確たる証拠であると思う。第三に許巣伝説の暗示を必ず説明に入れることである。これを入れないと孫楚は変な人になってしまう。
これを読んでいる方で漱石枕流や流石のまずい説明文に出くわした方は是非以上の点を指摘して孫楚の名誉回復を図って頂きたい。
日本では中国より蒙求が広く読まれた。「さすが」が「流石」になったのは鎌倉時代以後のことらしいが、これは蒙求の影響の一部で、
蒙求が元になった語はたくさんあるらしい。現代人には蒙求は馴染みが薄く、私も知らなかったが、戦前までは漢文書の最もポピュラーなものだったようだ。
夏目漱石や正岡子規も蒙求を読んでいた。漱石枕流は夏目漱石の名前の由来になったわけであるが、それには正岡子規も関係しているらしい。
明治時代には夏目漱石の他にも漱石のペンネームを持った作家が何人かいたらしい。枕流もペンネームにこそないが、いろいろなところで名前として使われている。
どうも漱石枕流の故事には人を引き付ける魅力のようなものが有るらしい。夏目漱石の名前の由来に関しては流石と同じ説明がよく出て来る。
孫楚は夏目漱石からも引き出されている。漱石枕流の故事は、世説新語→晋書→蒙求→流石→夏目漱石、という流れで現在に至っている。
今後も流石と夏目漱石のおかげでずっと語られ続け、その度に孫楚が引き出されるだろう。
【参考文献】
「蒙求」(上)(下)、早川光三郎著、明治書院、新釈漢文大系58
「世説新語」(上)(中)(下)、目加田誠著、明治書院、新釈漢文大系76
「世説新語」、井波律子著、角川書店、鑑賞中国の古典14