STILL & MOTION 動画デジカメ SANYO DSC-MZ3 * II *
>>283 まぁ画素ピッチが小さい=ダメとはいわんが、基本的には「だめだめ」である。
それはラチチュードと解像感の2つのファクターがあって、
ラチチュードとは各画素がフォトンを受け入れられる容量による部分が多い。
通称バケツのサイズというヤツである。
従って、画素ピッチが一段小さくなったと言っても、技術改善で何とかしてしまえる可能性はあるわけだ。
それは1/2型200万画素と、出だしの1/1.8型300万と最近の1/1.8型300万画素を比較してみれば分かる話だ。
あるいは同じ画素ピッチでもフレームトランスファーとインターラインでは
バケツのサイズが大きく違うのを見ても分かるだろう。
ところが解像感というのは光学的限界があり、例えばどんなに画素を細かくしていっても、
光にその画素を使い切る能力が無ければ意味がない=オーバーサンプリングなのである。
ローパスフィルターで高周波をカットしてモアレを除去するのとおなじように、
最近の機種で激しいモアレを見なくなったのは、ローパスフィルターの進歩に夜部分もあるだろうが、
そもそも回折現象のボケによって、光がモアレを起こすほどの能力を持たない部分もある。
もっとも、回折のように光学的現象によって起こる解像感の消失は、自然現象であり
人間の目に起こるものと親和性が高く、違和感が少ない。だから解像感が足りない部分があっても、
脳が補ってしまえるのだ。つまり、その結果、極小画素のカメラでも、一見ラチチュードも何とかなり、
解像感はないが目には違和感が無い=大丈夫に思える。これがある種、極小画素化の容認の根拠になっている。
しかし、それが正しい姿か?違うんじゃないの?
それは薄氷の上のダンスみたいなもんだ。コンピュータが無ければ
いっこも飛ぶ事が出来ないB2爆撃機みたいだし、100km/hしかでない車で100km/hで走るようなもんだ。
こういった根拠を元に、メーカーの人が極小画素容認を主張するのは別にかまわない。
それがメーカーだからでだ。
しかしそれをうんうんと鵜呑みにして「大丈夫」なんてトンネルして読者に伝えるライターは愚かすぎだ。
そんなだからいっこうに大本の改善がすすまないのである。アホクサ。
私は原理主義者だからね、そういう所は譲れないし、頭悪いからとにかく数を撮って
その中から生まれる漠然とした感想をすくい上げて、コメントとしている。
その結果思う。極小画素はだめだめだし、1/2.7型300万画素のCCDの画像は、「よほどの芸が無い限りダメだ」
大丈夫なんて書いているライターを見ると、頭おかしいんじゃないかと思う。
で、それで作品撮る気になるか?作品撮る時は、良いカメラ使うだろう。
1/2.7型300万画素で作品を撮って、それを世に自分の作品であると胸を張って発表出来るのならばどうぞ。
そうでないならば、自分と反対の立場に居る人間の発言は眉につばをして聞け。
(つうか反対に居ると思ってないんだろうけど)
私はまた同時に社会主義的であり、こと表現のデバイスの誕生に際しては、
すべての人を残さずバラ色の未来へと連れて行くべきであると考える。
だから、「これは良いけど、アレは仕方ない」みたいな事は許さない。
すべてベストにしてもらおう。でないと、それはフィルムからデジタルへの革新として不十分である。
デジタルはフィルムの息の根を止めるだろうから、
そのデジタルのメリットとフィルムに対するデジタルのデメリットの相殺は許さん。
フィルムのすべてをもってデジタルにシフトしなければならない。
そう思ってDigital Photoをやっている。
世の中の意識が変わらないならねじ伏せてでも変えてやる。