★大学院生や博士号持ち【無職・だめ】13

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19名無しさん@毎日が日曜日
昭和62年7月22日午前8時35分、広島市中区東千田町1の広島大総合科学部新館の
1階学部長室で、岡本哲彦学部長(61)が胸と背中に2ヶ所づつ計4ヶ所を刺されて殺され
ているのが発見された。岡本学部長は物性物理の権威、7月21日午後9時30分に自然科
学棟3階の藤井博信教授の研究室で学生15 人と和やかにビールを飲むなどした後、帰宅
すべく同棟2階でタクシーを手配して一旦、学部長室へと戻った際に遭難したと思われた。死
体には砂がかけられており、犯人の正体は皆目、不明で事件の猟奇性だけが先行した観が
あった。10月2日午前1時35分、基礎科学研究講座の末光助手(44)が犯行を自供して逮
捕された。末光助手は9月30日から2日間ぶっ通しで取り調べを受けており、学部長殺害は
「昇任で冷遇を受けたため」とし、砂を撒いたのは捜査撹乱が目的だったとした。末光助手は
9月21日夜に刃物を焼却炉に入れていたのを目撃されるなどしていて捜査線上に浮かんでいた。
 
末光は昭和 45年11月に広島大教養部助手となり、昭和47年2月に理学博士に、素粒子
物理学の専門だったが、広島大は生え抜きの研究者を「インディアン」と呼び差別し、京大や
東大からの「天下り」組の研究者を「白人」と呼んで優遇する習慣もあって広島大出身の末
光は昇進に不利であった。さらに末光は寡黙で特にめぼしい研究成果も事件前には挙げてお
らず、一定時間の間に何度も席を立っては腕を丹念に洗ったりなど極めて神経質な性格と同
僚にも見られていた。16年間も岡本学部長の下で薄給の助手生活に甘んじていた末光が不
満を爆発させた前代未聞の学内殺人であった。