【虚栄の三十年 失速する痴性 廃人亀岡の世界】 執筆 友坂紀茂
晩秋の風が肌身に染みる季節になった。いまだに将来に光明を見いだせないでいる
廃人亀岡にとって、木枯らしが一層骨身に染み渡る時期であろう。この1年、私は
常に廃人亀岡に注目してきた。無職・だめ板においては様々なコテハンと称する
人達が存在する。興味深い人物は何人もいるけれども、その中で特に廃人亀岡は
私の胸奥にひそむ知的好奇心を刺激したのである。だめ板の中でも廃人亀岡の
ように人間味豊かな人物を私は知らない。廃人亀岡の書き込みを読みふけるように
なった私は、次第に廃人亀岡を人格崩壊へと導いていった過程を知りたくなった。
この夏以降、私は様々な観点から廃人亀岡を検討してきた。そして半年余りの時間の
経過を経て、どうやら私の考察を公にすべき時期が到来したことを確信する。私は
この機会にこれまで考察してきた廃人亀岡の半生に関するレポートを諸君に提供する
ことにした。この記録が廃人亀岡研究の素材になれば喜びこれに過ぎることはない。
諸君は廃人亀岡の一連の駄文に気付く点があろう。このところ廃人亀岡をたしなめる
書き込みが後を絶たないが、取るに足らない極く一部のものを除いて廃人亀岡は
これらすべてをことごとく無視している。荒らし撃退法なるものによると、次の
ような対策が効果的であると指摘している。まず第一に、荒らしに一切反応しないこと、
あたかも存在しないかのように振る舞うこと、第二に、軽く扱うこと、例えば荒らしに
よるAAやコピペ貼り付けは黙殺し、業者による広告コピペのみ削除依頼するなどは
効果大である、これらは徹底的に荒らしの存在を無視することによって荒らしの
意欲を殺ぐことを狙った考え方である。廃人亀岡はこうした助言を忠実に実行している。
しかしそれゆえに廃人亀岡はバカの謗りを受け続けているのである。適当に受け流しておけば
いずれ静まるだろう、と楽観しているのであれば、また、批判者が去るのを期待しているので
あれば、無駄というものである。廃人亀岡は批判する者に貼られたAAを自ら貼ったり、故意に
ふざけた書き込みをしたりで、あたかもいわゆる〔荒らし〕を嘲弄しているかのように見せかけ、
余裕があるように虚勢をはってはいるものの、廃人亀岡の内心は錯乱状態にあると言えよう。
毎日自分を批判する者を発見するたびに、心あたりのあるスレッドをしらみつぶしに調べ、
IDが同じではないか、書き込み時刻はどうか、など白目を剥いて口から泡を吹きながら
確かめているのである。廃人亀岡がいまだに亀岡なるコテハンに固執し、スレッドに
しがみついているのは、もはやいわゆる〔荒らし〕に対する意地以外のないものでもない。
しょせんインターネット上の巨大掲示板など、取るに足らないものである。匿名で好き
勝手なことが書き込める2ちゃんねるなどは仮想空間の域を出るものではない。そうした中で
つまらぬ意地を振り回し、分別も弁えずに2ちゃんにのめり込んでいる廃人亀岡の現状は
当事者でなくても首を傾げさるを得ないだろう。
仮想空間と現実の区別もつかない廃人亀岡の現状はもはや末期と言うほかない。
彼にとっては仮想空間がすなわち現実であって、すべてである。現実は廃人亀岡に
とっては何の価値もない世界なのだ。廃人亀岡は己の無知無能ぶりを熟知している。
彼が己の存在をアピールできるのはもはや2ちゃんねるしかないのだ。たぶん
廃人亀岡は一生今のような生活を続けていくのだろう。
私は廃人亀岡に会ったことはない。しかし廃人のこれまでの書いてきた作文から、
彼の人となりは理解できる。廃人亀岡の半生はバカとかそういうありふれた表現
では言い表すことが困難なほどの電波である。廃人亀岡の人間性(そんなものは
ない、という説もあるが)を考えることは決して無意味なことではないだろう。
それは、どうすれば人間は廃人亀岡のように下劣になれるのか、恥知らずに
なれるのかを学ぶことである。
廃人亀岡ははじめから今のようなろくでなしであったわけではない。子供の頃から
両親に甘やかれて育てられた結果、他人への配慮に欠けた自己中心的な人間に
なってしまった。そうした性格は、廃人亀岡を退廃的な人格へと導いていった。
しかし他人への免疫に欠ける廃人亀岡は己への攻撃に人一倍敏感である。これは
周知の事柄であるが、廃人亀岡が立てたスレッドのタイトルに「恋」や「日記」
などのタイトルが頻出することをどのように考えればいいのだろうか。
廃人亀岡の性格の一端を物語興味深い事実である。廃人亀岡は本来、荒らしを
好む人間ではなかった。彼の場合、少なくとも当初は荒らし行為はほんの
悪ふざけの域を出なかった。マッタリと落ち着いた、或いはしっとりとした
やり取りをしたかったのである。それは今でも変わらない。機会があれば、
と窺っているのが今の廃人亀岡である。
ところが悪ふざけの度が過ぎたようである。場の雰囲気を読めない無神経さ…、
それは、両親から甘やかされて育てられた結果、他人の感情への配慮が出来ない
人間になってしまったゆえである。もともとは廃人亀岡に悪気はなかったのだ。
しかし前述のように歪んだ人格が無意識のうちに人の心を傷つけてきたのである。
彼にはなぜこれほどまでに非難、罵詈雑言を受けねばならないのか、廃人亀岡は
開き直っているわけではなく、心底理解出来ないでいる。だから己が傷つけた人
から反発を受けると、それが理解不能で自分自身への攻撃と曲解し、逆上するよう
になったのである。
今の廃人亀岡は荒らしの代名詞的存在になったも同然だ。実際そうした行為を
依然として続けている。それらは自分を非難した人への怨念であり、また自分を
攻撃する人の矛先をかわすためである。廃人のくせに自尊心だけは人一倍の亀岡は、
口先では「だめ」だの「かわいそう」だのと自称しているが、それを人から
指摘されるのを何よりも嫌がる。
その心理は例えれば男が自分のことをおじさんと称しているようなものだ。先手を
打って自称する者に限ってズバリ指摘されると逆上しがちなものであるが、廃人亀岡も
ご他聞に洩れない。自分を相対化できない廃人亀岡は(と言っても相対化という言葉自体、
廃人亀岡には難解であろうが。)ひたすら自己を絶対視するのみである。だから自分を
批判する言葉を許容出来ない。傷つけられた自尊心はそのために憎悪に代わり、復讐心の
ために恥も外聞も忘れて狂奔するのだ。
そんな愚かな廃人亀岡にも多少なりとはいえ悪知恵もあり、空っぽの頭を絞って
攻撃を続けてはいる。しかし当初は人目をひいたいわゆる〔荒らし〕もすっかり
ネタぎれになり、あたかも落目の手品師ごとく十年一日同じことを繰り返している。
すっかり自分の世界に陶酔している三流手品師には、己を嘲笑している観客の冷たい
視線が理解できないらしい。「あのバカ、また同じことやってるよ、頭おかしいんじゃ
ねえか」という客席の声も聞こえてはくるが、あいにく自省心のない三流手品師には
ただの罵詈雑言としか耳には入らないのだ。廃人亀岡に多少なりとも客観的に分析
出来るだけの知性と教養があれば、もう少し工夫があってもいいはずである。それが
一向に変わり映えがしないのは、結局のところそれが廃人亀岡の限界なのであろう。
感情の赴くままに生きている廃人亀岡の人格が投影されていると見るべきであろう。
廃人亀岡の人生(と呼べるような立派なものではないが、他に適切な表現がない)は
敗北の連続であった。学生時代には同級生のいじめに遭い、それが廃人亀岡の人格形成に
重大な影響を与えることになった。もともと親の不適切なしつけと教育方針によって
世間知らずに育てられた廃人亀岡は、他人と接することに一種の恐怖が芽生えていた
わけだが、学生生活はそんな廃人亀岡の社会不適応さを決定的なものにしてしまったのだ。
以後幾つかの企業に勤めたが、あるところでは仕事が辛くて逃げ出し、またあるところでは
対人関係に耐えられず職場放棄をし、あるところでは素行不良で懲戒免職になるなど、
廃人亀岡の半生はまさに惨澹たる有様であったと言えよう。そうした敗北と現実逃避で
日々を過ごしていたある日、巨大掲示板を知ったのである。4年ほど前、廃人亀岡の人生に
まだ可能性と呼べるものが僅かに残されていた時のことである。
たら・れば、は禁物だと言われるが仮に廃人亀岡に、一般人の幾らかでも思考力が
あれば己の更生に時間を費やしたであろう。けれども愚かな廃人亀岡は、人生に
おけるもっとも貴重な時を巨大掲示板への落書きに使ってしまったのである。
確かにそこでは愚かで幼稚で役立たずの廃人亀岡もどんな人間にでもなりすますことが
出来る。辛い現実から離れることが出来る。かくして愚かな廃人亀岡は最後の機会とも
言うべき更生の時を無為に過ごし、ただただ巨大掲示板の片隅でひたすら現実逃避に
明け暮れるようになってしまったのである。
思えばこれほど愚かな生活はあるだろうか? ある者は自衛隊員として危険な地で
生命を省みず職務を遂行し、またある者は被災地で福祉に勤しみ、またある者は
愛する家族のため、愛する郷土のため、骨身を削り社会という名の戦場で戦っている
のである。廃人亀岡が「恋」だの「日記」だのと称して書き連ねている駄文の数々に
見られる幼さは読むものをして目を覆わせるものがある。通常、人は社会活動を通じて
人格が形成されるものであるが、残念なことに廃人亀岡の場合、常に職場放棄と現実逃避に
終止してきたために、本来行われるべき年相応の人格形成が為されなかったのである。
その結果「廃人」や「生ける屍」だの、あるいは「人間の屑」などと、人としてはこれ以上は
ないと思われるような屈辱的な評価を為されるような哀れな状況に至ったのである。親の怠慢、
社会生活不適応、そして自堕落な生活の末の今である。が、廃人亀岡の存在意義自体は決して
小さいものではない。人間、日々の研鑽を怠ると廃人亀岡のようになる、彼のようにならぬよう
常に自省心を忘れず、謙虚に且つ勤勉にならなければならない。廃人亀岡の人生は私たちに多く
のことを教えてくれる。
廃人亀岡は、どこかに自分に適した職業があるに違いない、とあらぬ妄想を
膨らませているようだが、全く非現実的な夢想であるとしか言いようがない。
グッドウィルのごとき中学生でも出来る単純作業さえままならない廃人亀岡に
勤まる仕事などあるわけがないだろう。廃人亀岡はグッドウィルさえ職場放棄した
屑である。辛いことがあれば逃げればいい、後はなんとかなるだろう…と
その場しのぎのいい加減な生き方をしてきた屑である。こんな生ける屍に人並に
遂行出来る職業があるとは当底考えられないのである。
廃人亀岡は常に人からの愛を求め続けている。たとえそれが束の間のものであっても、
愛情に飢えている彼にとっては切実なことなのである。廃人亀岡が日頃自作自演を
している恋愛メールはそうした感情の現れである。しかし、いったい誰が廃人亀岡の
ために愛を示すであろうか? 廃人亀岡は自分の利益しか考慮しない人物である。
そのような男の求める愛情に応える者などいない。廃人亀岡は常に見返りを求める
偽善者である。人々は皆、廃人亀岡の心の奥底にどんよりと横たわるやましさの影に
気付いている。人一倍寂しくて堪らない。彼の常套手段になっているいわゆる〔荒らし〕も
寂しさの裏返しに過ぎない。荒らせば誰かに注目してもらえる。あわよくばレスも
もらえるかもしれない。しかし、廃人亀岡の心の内はとうに見抜かれている。人々は
憐憫の情にかられて形ばかりのレスをしてやるだけである。そこには発展性もなければ
深みもない。ただ刹那的な感情の断片があるだけである。寂しいのだろう。寂しくて堪らないのだろう。
諸君はここまで読んで、気付くことがあろう。母親の気を引くために故意に悪戯をする幼児の話を。
それは母親からの愛情に飢えた幼児に特に見られる傾向である。廃人亀岡は幼児がそのまま大人に
なったようなものだ。諸君にはもうお解かりであろう。彼がどこへ行っても満足に勤まらない理由が。
幼児に仕事などできるわけがないからだ。幼児の精神状態の三十路男…戦慄するほかない。しかも
廃人亀岡の場合、自分の幼児性に気が付いていないことが悲劇的なのである。喜劇的人物の悲劇的半生…、
愚かしくも哀れである。
24 :
星岡夢子夢子:04/12/13 12:03:44 ID:8Djve16b
廃人亀岡はだめ板においては粗暴な一面を見せてはいるものの、実生活では全く正反対の
日々を送っている。自分に自信をもてず、常に何かに怯えている。いつも人の顔色ばかり窺い、
他人に迎合ばかりしている。満足に自己主張も出来ないくせにプライドだけは人一倍で、
そのくせ人前に出ると人の僅かな顔色の変化にオドオドしている。精神面の自尊心の高さと
現実とのギャップが激しすぎ、日々精神の混迷は深まるばかりだ。廃人亀岡のネット上における
錯乱の度が強まってきたのは、まさにこうした背景があるからだ。
常に匿名でいられるネット上では現実で暮らしている時のように人の顔色の変化に
一喜一憂することもない。そのために廃人亀岡の自己顕示欲が一層強まり、現実で
彼が受続けてきた数限りない屈辱の反動であろう、ネット上では他人への攻撃性が
激しくなってきたのである。廃人亀岡は卑怯者である。匿名の掲示板上だからでは
ない。いかに巧妙に装っても、必ずその人の人格が表れるものである。
廃人亀岡のこれまでの数え切れない量の書き込みを読み込んでみると、己の打算のために
第三者を利用してやまないその姿、己のひと時の快を貪るためだけの攻撃などは、人恋しさと
いう側面があるにせよ、現実において抑圧され続けてきた感情が大きく作用したことは否めない。
常に他人を意識せずにはいられない廃人亀岡。他人への恐怖と憎悪、そして愛情を欲する枯渇した
乾ききった心の揺れ。廃人亀岡はこうした様々な錯綜する心理状況下にあるのだ。今の彼には
自己の置かれている状況を客観的に考える余裕はない。数年前までならまだ幾許かの精神的余裕も
残されていたかもしれない。しかし今となってはただ一日一日を刹那的に生きていくだけだ。
かつては現実逃避の格好の場所だったネット上が現実以上の殺伐とした空間になってしまった。
今も彼は我々の知らない所で新たな安息の場を求めてさまよい歩いているのだろうか…。
あとがき
さて、廃人亀岡研究をこれでひとまず終えることとしたい。たが私はこれからも
日夜廃人亀岡の腐敗した精神、その病理を研究していく。また近い将来、私の
研究をご紹介できることと思う。ご期待いただきたい。
2004年11月14日 友坂紀茂