大森荘蔵は現代的公理論を参考に
他我問題に対してより緻密な議論をしているし
自分としてもまた別の視点での主張がある。
ただまず何よりも、
日常の常識的な世界そのものに対する
見方の変化が重要だと思って記したのだ。
自分は(三面)記事的な出来事には驚かない。
むしろ平凡な世界それ自体が驚きに満ちている。
それがどれ程同じ事の繰り返しであってもだ。
経験と知識を蓄積することと、
世界を初めて見るかのような態度は矛盾しない。
それは自由な思考の両輪になるだろう。
書き写しに変なもん付け足すなよ(^^;
83 :
73:04/06/12 00:14 ID:GdQCrKmV
酔っぱ酔っぱ。
>>76 >そして、その極点は不可能的
>極限というわけではなくて、現実的なものなわけですよね。
そうです。
>例えば両親を2として捉えること。あるいは、人間と鉛筆の差異が消失すること。
というのはレベルの差はあれ至るところで起きています。
絶対知は
>>73の前者へのなけなしの対応であって、後者の形式が無言の権力です。
弁証法的発展なんてのは無言の権力に比べれば健全な思想ですよ。
>>77以降の人が使っている、
「あなたはなんとかだと思うかもしれない」「でもそうではない」
という典型的な擬似ダイアローグ的手法がありますよね。
この手法で「断裂がある他者」問題を扱っているのが面白いと思ったんですが、
これは聞き手がフッサール的な他者であることを前提にしていますよね。
つまり、>実は想像も出来ない断崖絶壁が開けている という他者への言葉じゃなくて、
これこそまさに
>超越論的意識が、我に類似した存在として他者を
>構成する―つまり意識AがA'、A''として他者を構成する
ですよね。ハーバーマスのいう壊れていないコミュニケーションで。
捻っていて素敵だと思いました。
ようするに見方の変化、つまり自分の認識のチェンジ等々が解決に繋がるということですが、
それを不可能にしているのがまさに「断裂のある他者」、あるいは無言の権力なんですよ。
皆がオイラを迫害している→独我論と同じレールに載った嗜好で、
他者との根本的断裂→じゃあこっちの認識をチェンジしようという。
認識のチェンジなんての一番初めの段階であって、
それは散々繰り返されてきた観念論に過ぎないんですよ。
だから何だってわけじゃなく、それを本当に信じられるならむしろ体に良いんでイイと思いますが。
84 :
73:04/06/12 00:26 ID:GdQCrKmV
>「独在論は自分マンセーに直結しない限り問題は生じない」と言うのは、倫理学的
>或いはメタ倫理学的観点を含んでのことですか?
自分マンセー→独我論というのは、笠井潔が言っている観念の発生の現場のことですね。
問題ってのは観念の悪というやつのことです。
本当に自分マンセーな人は独我論なんて言わないわけですよ。
言葉で名付ける必要もないし、概念にすがる必要もない。
独我論に導かれるのは自分マンセーじゃないからで。
そもそも、ここで独我論の罠に嵌まったと言っている人たちは良い人そうな人ばかりじゃないですか(w
このベクトルが折り返されて戻ってくる時、
止揚といってもいいんですが、その時に観念の悪というやつが発生します。
観念のイデオローグ主体になったと言ってもいいんですが。
倫理は超越論的なものだと思ってます。
ニーチェは「仏教は衛生学に過ぎない」と言っていますが、
それをモジって「倫理学は衛生学に過ぎない」というのが俺の見解です。
衛生学であるからこそ価値があるんですけどね。
エピクロスが言う、「倫理や正義は内臓に良いからお奨めだよ」ということですね。
大体、他者の善や悪なんてのは過去を想像的に遡行する事だけで消失します。
>つか、主体Sを喪ったわけでしょう?
喪ったというよりも、
普通思い描くような主体Sなんて初めからないということなんじゃないですか。
他者という鏡を見ることによって、Sらしきものを擬似的に再認するという理屈で。
85 :
濾過一:04/06/12 22:25 ID:fYdHHvPj
>>83=73
>絶対知は
>>73の前者へのなけなしの対応であって、後者の形式が無言の権力です。
>弁証法的発展なんてのは無言の権力に比べれば健全な思想ですよ。
あなたの言う「無言の権力」というのは思想に成り得ない、というか、匿名的な深淵、
意味の死、無、あるいは(陳腐な言い方だと)思想の「外部」であると受け取ったん
ですが・・・。それがまさに現実である、ということはわかります。
絶対知、、、「弁証法的発展」が無限、不条理に対してのなけなしの対応であるとして
まだ救いがあるのなら、「無言の権力」に対しては果たしてどんな対応が可能なのでしょうか?
>それを不可能にしているのがまさに「断裂のある他者」、あるいは無言の権力なんですよ。
というあたりを読むと、「それを本当に信じられるならむしろ体に良いんでイイと思いますが」
という台詞が増幅効果を与えて、矢吹駆的にかなり絶望的な気がするんですが・・・_| ̄|○
>自分マンセー→独我論というのは、笠井潔が言っている観念の発生の現場のことですね。
そうです。質問した意図が通じましたねw
>>44の
>すると夢の中でさえ俺は苦悩しながら生きていると気づいた
>どこにいても救われないと
>>53の
>完全に閉じられた世界というか、自己完結した世界に住んでたんですね
>そこには他人も物も存在しなくて、在るのは自分だけみたいな世界です
というカキコが示す通り、生活世界で疎外され、自己、世界の喪失感があるからこそ
独我論が魅惑的なものになるわけで。もしたとえ認識論的に透明な独在論を唱えられた
ところで何の価値もない。だから、これは倫理学的問題になると思います。
個々の人間は、一つの性格を完全なかたちで持ち得るものではありません。
それでは生きることができないでしょう。生存するためには、人は雑多な
性質を持たねばなりません。
87 :
濾過一:04/06/12 22:43 ID:fYdHHvPj
続き
まぁ確かに2ちゃんのダメ板のこんなスレでw、俺は独我論の罠にはまってしまった、
なんて自己対象化してる限り、観念の悪には囚われないでしょうかw →
で、観念の悪なんですが、
>止揚といってもいいんですが、その時に観念の悪というやつが発生します。
>観念のイデオローグ主体になったと言ってもいいんですが。
うーん、、、これは、、、ニーチェで言えば「ルサンチマンが完璧に完成しちゃった状態」?
だけど自分の中に潜む観念の悪を、ヴェイユで言えば「悪に対立するものとしての善は、
ある意味では、対立するすべてのものがそうであるように、悪と同質である」というように
内側から見据えていけば・・・笠井の話をあまりするのもどうかと思いますが、笠井は『サマー・
アポカリプス』でカケルvsヴェイユの「忍耐」の勝敗、ヴェイユを勝たせたような気も
してるんですよ・・・
88 :
濾過一:04/06/12 22:51 ID:fYdHHvPj
>倫理は超越論的なものだと思ってます。
それだけ?ちょっとその後書いてることとの繋がりがわかりにくんですが・・・。
俺は倫理を社会における人間生活を円滑に機能させるためのethicsと
個人の内面的問題としてのmoralに分けて考えていいんじゃないの?って
思いますけど・・・。
>それをモジって「倫理学は衛生学に過ぎない」というのが俺の見解です。
>衛生学であるからこそ価値があるんですけどね。
俺は、俺自身として、ファイヤアーベントが「哲学は処方箋だ」と言ったのを
受けて、「倫理学は病人が自分に与える薬のようなもの」だと思っています。
こういうのはスレ違いどころか板違いなのではないでしょうか?
哲学板があるからそこで議論を交わしてもよいはずですが、
そもそもダメ板で難しい論議を交わさなくてはならない
理由があるのでしょうか?
私のような智慧や知識ない第三者からスレを読んでも掴み所の
ない議論になっているように思えてなりません。
しかし、スレを止めろと言っているのではありませんので、
誤解のないよう、お願い申し上げます。
90 :
濾過一:04/06/12 23:12 ID:fYdHHvPj
>>89 >掴み所のない議論になっているように思えてなりません。
すまん。だめ人間だからこそ哲学・思想やるとも言えるんだけどねー。
91 :
73:04/06/13 01:36 ID:f2GpnPyR
こんにちは。レスありがとうございます。
今日はなんだか気分が悪くて文章書けないので、
濾過一さんへのレスは明日するつもりです。
どうなるかわかりませんが、
多分明日になれば書けるようになると思うので。
92 :
名無しさん@毎日が日曜日:04/06/13 01:59 ID:ilK0kWH2
このごろハマーンさん出てきませんけど、女の人なんですか?
俺の人生、親より長生きできればそれでいいよ
94 :
濾過一:04/06/13 14:37 ID:TkiTfpBv
補足。
俺の中で倫理学に対する二律背反が露呈してしまってる、ということは
わかってるつもりだす(-_-)y−~~
>>91 出来ればおながいします。俺にとっては非常に刺激的な議論なんで。
ただ、ジャーゴン(専門家の間で流通する暗号のようなもん)を濫用するのは
出来るだけ控えませう。
>>92 女かどうか知らんけど、ハマーンなんてハンドル名乗ってるんだから、何故ハマーンなのか?
その理由を書いて欲しいものだw
俺は、シャアはテロリストだと思うけどハマーンはただ狡猾なだけの権力俗物だと思う。
95 :
73:04/06/13 20:44 ID:DmeyLiav
>>85 >あなたの言う「無言の権力」というのは思想に成り得ない、というか、匿名的な深淵、
>意味の死、無、あるいは(陳腐な言い方だと)思想の「外部」であると受け取ったん
>ですが・・・。
そのつもりで書きました。
後ろの方で、もうちょっと詳しく定義してみます。
適当に思いついた、当てはめた言葉なので、誰かが別の意味で使っていたかもしれないですが。
>絶対知、、、「弁証法的発展」が無限、不条理に対してのなけなしの対応であるとして
>まだ救いがあるのなら、「無言の権力」に対しては果たしてどんな対応が可能なのでしょうか?
紛らわしくてすいませんです。ちょっと誤解があるみたいですね。
俺が使った無言の権力というのはその無限、不条理、意味の死とほとんど同じです。
なので、絶対知のような認識を求めることが、無言の権力への一つの対応としてあるということです。
>絶対知は
>>73の前者へのなけなしの対応であって、後者の形式が無言の権力です。
というのは、
前者は、自分が無言の権力という思想の外部、不条理に出会っている。
後者は、自分がその不条理、無言の権力になっているということです。
>>73に書いた>後者の典型はナチスと強制収容所の関係がよく表してますね。
というのは、自分が囚人なのではなく、ナチスの立場であることです。
>俺の認識では、人間間のコミュニケーションはこの二つを極として、
>その間をグルグル動いています。
というのはそういう意味です。
>>94 ここからはなるべくジャーゴンなしで出来るだけ平易に書いてみます。
まだるっこしいかもしれませんが、俺もそっちの方が良いと思います。
術語なんて所詮伝達の効用、文字数の短縮でしかないので。
96 :
73:04/06/13 20:45 ID:DmeyLiav
>>87 >観念のイデオローグ主体になったと言ってもいいんですが。
>うーん、、、これは、、、ニーチェで言えば「ルサンチマンが完璧に完成しちゃった状態」?
人は苦しい時、絶望している時、疎外を感じている時などに、
それを解決してくれる何らかの観念にすがるわけですが(主体→観念ですね)、
そのベクトルが逆になった状態(主体←観念)という事です。
彼、彼女は苦しさや絶望を解決するために観念
(世界には私しかいないだとか、
私が苦しいのはこの腐敗した世界のせいだ、
この腐敗を正すのは○○教だけだ あるいは○○主義だけだとか、
肉体が思考なんだ、極限まで体を鍛えようだとか、
社会は自分を必要としている、世界は自分を必要としているだとか
世界には意味なんてないだとか)
に向かったはずなのに、これが逆になってしまえば、
もう当初の苦しみや絶望の解消という目的は隠蔽されちゃうんですね。
そこではもう自分が苦しいとか楽しい、何を感じるかなんて二次的なことです。
そんな事を言っているうちはまだ徹底されてないんです。
どんなにその思想が苦しくて絶望的で、
観念にすがる以前よりもずっと苦しくてもその思想の掟に服従しなければならない。
あるいは、させられる。
これは初めに選択らしきものがあるだけ自覚的なプロセスとも言えますよね。
だから笠井潔は観念の発生の現場を持ち出して批判してるんですね。
自分を特権的だと考えている鼻持ちならない人間、
インテリゲンチャ、余計者が現実ではちっとも自分が特権的な人間じゃない事を
隠蔽しようとしたために観念の悪が発生するんだと。
(これを単純に観念の悪というのにも問題があるので、それやヴェイユについてはまた後で)
それは確かに有効で効き目のある批判なんですよ。
「おまえのはルサンチマンだ!」と言えばなんとなく相手にダメージを与えられるようなもので。
97 :
73:04/06/13 20:45 ID:DmeyLiav
で、この批判すら通じないのが俺の言いたかった「無言の権力」なんですね。
なにかを信じてみるということではなく、
それは既に信じられています。ピッタリと違和感なく身についています。
上のが人差し指だけでのぎこちないキーボード押しだとしたら、
これはブラインドタッチみたいなものです。
ちょっと書き加えると、「無言の権力」というのは、不条理と感じる他者そのもののことではなく、
ある人間のなんらかの対人関係における属性の名称として使っています。
一面的に無言の権力として捉えられる人間はいません。
神なんかはそういうわけでもありませんが。
そこを見損なうと、また新しい無言の権力が発現します。
無言の権力とか書くと、なんか自分には関係ないみたいですが、
俺達みんなの中にもそれはあり、特殊な例外というわけではありません。
>例えば両親を2として捉えること。あるいは、人間と鉛筆の差異が消失すること。
>というのはレベルの差はあれ至るところで起きています。
と書きましたが、全ての人間を同じ人間として捉えるなんて不可能ですよね。
隣人全て、世界人類を均等に愛するなんてのは無理な話で。
対人関係におけるバランスの差は絶対にあります。
人は人なんですが、違いを意識的、あるいは無意識に位置づけているということですね。
98 :
73:04/06/13 20:46 ID:DmeyLiav
いくら全ては相対的だ、差異なんてないと悟った風なことを言ってみても、
こういった人間相手の強靭なイデオロギー、バイアス、差別は場所の差、程度の差はあれ誰にでもあり、
そう簡単に抜けるもんじゃありません。というか抜け切ることなんてありえないでしょう。
それが押し進んで、「全ての悪の元凶は○○人だ」「××はみなクズだ」
という理念が絶対的に正しいこととして通じる社会、個人があるとしますよね。
良い行い、立派な行いと映る行為を○○人、××がしたとしても、それは
「あいつは善人ぶるのが上手い。自分の悪を曝け出さないから余計タチの悪い悪党だ。
いったい何を企んでやがるんだ?」となります。
それでもまだ良い方で、大体は無視されるだけでしょうね。それは視界に入りすらしない。
○○にどんな人種を代入しても良いし、
××には無職、中卒、メンヘラ、魔法使い、その他なんでも代入可能です。
被害者側から見ると、ここに無言の権力が発現します。
一人の人間が、ある一つの外面的な属性を持つというだけで、
この場合の権力側に有利な方向に、その属性として抽象されてるんですね。
当然、その残余である一人の人間そのものは捨象されます。
実質として○○がなんなんなのか、××がなんなのか、
それは本当に悪の元凶なのか、本当にみんなクズなのか、という事とは何の関係もありません。
絶対的な価値観、前提が染み込んでいるところで、
被害者がどんなに言葉を尽くしてもどんな行いをしてみせてもそれは通じないんだから。
通じる事もたまにありますが、それは稀です。
「たしかに良い人みたいなんだけど、でも○○だから(××だから)やっぱりクズなのよね」ということです。
「でも○○だから(××だから)やっぱりクズなのよね」というのに根拠があってもなくても同じなんですよ。
むしろ合理的な根拠なんてなく、
「前からそうだったから」「マニュアルにそう書いてあるから」「みのもんたがそう言っていたから」
のように不条理な理由の方が強いし、理由が意識されていなければもっと強い。
「ユダヤ人はユダヤ人であるから殺さなければならない」
「××は××であるからクズなんだ」というトートロジーが最強です。
99 :
73:04/06/13 20:46 ID:DmeyLiav
ナイフを持った見知らぬ人に「あなたがあなたであるから、殺します」と言われても、
言葉では反駁しようがないですよね。
「なぜ私を殺すんですか?」「それはあなたがあなただからです」
「いや、その理由はなんなんですか?」「あなたがあなただからです」
みたいな感じで堂々巡りしてるうちに刺されます。これが極限形ですね。
無言というのは、つまり通常のコミュニケーションが不可能だということです。
何の意味もなく暴行される殺される。
相手が不合理なこと不条理なことを言う、しかし自分はそれに従わなければならない。
無言で暴行される殺される、こっちが何を言っても相手には通じない。
こっちから見たらそれは意味の死であり、不条理であり、思想の外部です。
こういうのは悲惨でああ無情だと思いませんか? 俺はそう思います。
しかしですね、それを悲惨だと感じる自分もまた何らかの無言の権力の立場にいるんですよ。
ピッタリと違和感なく身についたバイアス、イデオロギーによって。
無意識と言っても良いですね。
何度も書いたようにそれは誰でもそうです。
そうなると、こういうことが起きますよね。
「悪党ぬっ殺してマンセー クズ煽ってマンセー」
「ちょっと可哀相だけど、××だからしょうがないわよね」
これらは観念の悪批判の射程外です。
断裂について以下に。
100 :
73:04/06/13 20:47 ID:DmeyLiav
100ゲトー
>しかしそれで他人とのコミュニケーションが「すべて」嘘に
>なってしまう訳でもないと、考えられはしないだろうか。
なにを「本当の」コミュニケーションとして捉えているのかはわかりませんが
(嘘というわけではないというなら嘘以外のもの、本当があるんでしょう)、
そもそも「本当の」コミュニケーションなんてないんじゃないですか。
断裂的な他者との交流が嘘であり(あるいは嘘という訳でもなく)、
儚い幻想のなんちゃらが尊いという訳でもないんじゃないですか。
断裂や通じなさというのは「本当の」コミュニケーションの失敗ではなくて、
コミュニケーション自体が孕んでいるものであり、
コミュニケーションは本質的に空虚なんじゃないですか。
それを「他人の痛み」を例に出して説明している所まではわかります。
でも、その空虚さ自体を皆で愛でる、distanceを抱きしめるということが、
「できるかもしれない」そうですが、
それは出来ないし、思弁で埋まるものでもないんじゃないですか。
よく意味がわからないので俺が取り違えているのかもしれませんが、
その空虚さをあなたが認識するという事は既にできている、
また読み手もそれが出来るということを想定しているみたいなので、
distanceを抱きしめるというのはその相互的な認識とは違うことなんですよね。
>他我とは分かり合えないが、その分かり合えない深い傷、遠い隔たり、
>絶対的な他者との差異、そのもの自体を分かり合う事が出来るかもしれない。
他我とは分かり合えないのに、何故ある一つの抽象概念、それとも感覚でしょうか、
「深い傷そのもの」だけは分かり合えるかもしれないんですか?
ここでの「分かり合う」は普通使う意味での「分かり合う」以上のモノですよね。
また、上に書いたようにそれは単なる相互間での空虚さの認識とは違うんですよね。
他者との絶対的な差異を認めるのならば、
「私が認識する、あるいは感じる絶対的な他者との差異そのもの自体」と
「あなたが認識する、あるいは感じる絶対的な他者との差異そのもの自体」は
同一のものではありえないんじゃないですか。
「深い傷そのもの」つまり、「絶対的な他者との差異」
という一つの概念が特権的な地位を持つ理由は何一つないように思います。
101 :
73:04/06/13 20:47 ID:DmeyLiav
>それはたとえ儚い幻想であっても、その儚さゆえに尊い幻想なのである。
濾過一さんが引用しているヴェイユの言葉をモジって、
本来的に空疎、真空であるコミュニケーションを満たすものとしての想像の産物、
尊い幻想や真のコミュニケーションが働き出すのを、自分の内部でいつも一時中断すること。
ということなんじゃないかと俺は思いますよ。
想像的なもので真空、空虚さ、断裂を埋めるのではなく、
真空は真空である、コミュニケーションは遍く空疎である、
「出来るかもしれない」じゃなくて絶対に通じ合えない。
だけれども、我々はコミュニケートを求めているし、
またしているということなんじゃないですか。
その空虚は埋めようとしても埋まらないと思いますよ。
ヒューマニズム的な方向に落とし込んでも。
>こうした思考実験を空虚な遊びと感じるかもしれない。
>だがこれは他我からの切実な叫びに他ならないのだ。
そしてこれも自我からの切実な叫びなんじゃないですか。
初めの半分くらいしかレス返せませんでしたが、
疲れたのでまた後日に書けたら書きます。
102 :
73:04/06/15 08:01 ID:mtvbNdYh
スレ止めちゃいましたね。申し訳ない。
皆さん、よかったら俺のカキコは無視してお話を続けてください。
103 :
名無しさん@毎日が日曜日:04/06/16 09:24 ID:UJ9eqyRy
| |__
| |∀・| チラッ
| |ノ ノ
| |フ´
104 :
濾過一:04/06/16 17:27 ID:rfQStF4B
>>73さん
おっしゃることはだいたいわかったんですが、
スレストの原因はそもそも俺だったと思うのでカキコ自粛します。
あげ
昔の人は何のために生きてたんだろう
106 :
◆XiEUNSIROU :04/06/18 02:52 ID:zrRFbyBu
>>77-81 >>100 >>101 >73
ジャーゴンはなるべく使いたくないけど…
>断裂や通じなさというのは
>「本当の」コミュニケーションの失敗ではなくて、
>コミュニケーション自体が孕んでいるものであり、
>コミュニケーションは本質的に空虚
その通りです、自分と裏表で、ほぼ同じ事を言っている
「コミュニケーションは成功した誤解」であり
「主体は反転した形で自らのメッセージを受け取る」訳です
107 :
◆XiEUNSIROU :04/06/18 02:52 ID:zrRFbyBu
>「私が認識する〜差異そのもの自体」と
>「あなたが認識する差異そのもの自体」は
>同一のものではありえない
幻想の公式において我々は
ある物に対して同じ関係にあるという
全体性の幻想を享受します
同一のものでありえないという主張への
反論の端的な例は「貨幣が流通する」
という事です、貨幣は対象aですから
108 :
◆XiEUNSIROU :04/06/18 02:53 ID:zrRFbyBu
>>101 幻想の公式においてエスバレはアーと
直面していて、その関係は全体的なものです
しかもポワンソンの個別性がある
これを例証するのは例えば貨幣が
暗闇の飛躍を抱えていても
実際には流通しているという事です
それはヒューマニズム的な方向では全くなく
逆に象徴中心的な思考です
「無意識は言語のように構造化されている」と
109 :
73:04/06/19 12:20 ID:c3kmx7wc
>>106 >自分と裏表で、ほぼ同じ事を言っている
ええ、そうですね。
>>107 おっしゃることは大体分かったんですが、ちょっといいですか。
錯綜としてきたので整理すると、まず
>>77さんの「痛み」がありますね。
1.「他者の」痛みはやはり「私の」痛みである。
2.他者との間には、実は想像も出来ない断崖絶壁が開けている。
その深い断絶を乗り越える事は最後まで出来ないかもしれない。
3.他我とは分かり合えないが、その分かり合えない深い傷、遠い隔たり、
絶対的な他者との差異、そのもの自体を分かり合う事が出来るかもしれない。
「いつの日か distance も 抱きしめられるようになれる」かもしれない。
で、俺の
>>100のレスのほとんどは3の「いつの日かできるかもしれない」にかかっています。
この「いつの日かできるかもしれない」というのが俺にはわからないんですね。
単に我々が「暗黙の飛躍」をして貨幣を使っている等の事だけを指しているのならわかるんですが、
それはできるかもしれない事ではなく、既に成立している事柄ですよね。
付け加えると、俺は3が「同一」、つまり
「私が、あなたの痛みをあなたの痛みとして感じること」の変形、
「私が、あなたが認識する差異そのもの自体を、
あなたが認識する差異そのもの自体として認識すること」だと捉えました。
それが通常使う意味での分かり合うを超えた「分かり合う」、
「分かり合えない他我」との溝を越えた「分かり合う」ことなんだと。
(以後の、括弧をつけた「分かり合う」はその意味で使います)
110 :
73:04/06/19 12:22 ID:c3kmx7wc
次はこれですね。
俺の100
>「私が認識する〜差異そのもの自体」と
>「あなたが認識する差異そのもの自体」は
>同一のものではありえない
107さん
>同一のものでありえないという主張への
>反論の端的な例は「貨幣が流通する」
>という事です、貨幣は対象aですから
反論はありがたいんですが、
これを認めると色々壊れちゃう気がするんですが。
上の文章によると、今のところ、
とりあえず『あなただけ』は「あなたが認識する差異そのもの自体」と、
例えば「俺が認識する差異そのもの自体」が「同一」、つまり全く同じだと分かっているんですよね。
そして
>>100の流れ上、
もちろんここでの「同一」は擬似的な「あなたが感じる俺の痛み」などと同じレベルではなく、
ストレートな意味での「あなたが認識する、俺が認識している差異そのもの自体」ですよね。
「俺の空腹」を擬似的な「あなたの空腹」として感じるのではなく、
そのものズバリ「俺の空腹」としてあなたが感じるという意味の。
というかそれ以前の問題で、それが「同一」、全く同じであると言うのであれば、
「俺が認識する差異そのもの自体」は「みんなが認識する差異そのもの自体」であり、
「みんなが認識する差異そのもの自体」は「俺が認識する差異そのもの自体」
だという事になりますよね。だって、みんなの間で貨幣は流通しているから。
よって、
>絶対的な他者との差異、そのもの自体を分かり合う事が出来るかもしれない。
これの条件は既に成立していますよね。
あなたは「あなたが認識する差異そのもの自体と俺が認識する差異そのもの自体は同一だとわかった」
俺は「俺が認識する差異そのもの自体とあなたが認識する差異そのもの自体が同一だとわかった」
勇者よ、それは探さなくていい、自分の中にある。
もうこれでdistanceを抱きしめ合ったんでしょうか?
111 :
73:04/06/19 12:22 ID:c3kmx7wc
しかしそれは「できるかもしれない」なんて言わなくても、
それは貨幣流通で既に出来ている、
またそれを言葉に抽象した伝達を指すのなら、
上に書いた通り表面的には普通にできる、また根本的には出来ないですよね。
この定義でいくと、「既にできている」「できない」しか帰結はないような気がするんですが。
我々は「暗黙の飛躍」をしている、我々は幻想の公式に従っている、
我々の無意識は言語のように編まれている、我々は対象aを抱えている、
あるいは現存在は世界-内-存在でみな「気配り」している、それはわかるんですが、
それらの元である断裂が全ての人間にとって完全に「同一」であるというのはどうかと思うんですが。
それらの言葉は確かに人間にとって同一ですよ。
人間は腹が減ったら何かを食べる、人間は不眠に耐えられない等と同じ意味で。
同一のものではありえないというのはその抽象を外した時の話で、
「暗黙の飛躍」、「食べる」という類としての人間への抽象を外して個々人に還元すれば、
それは語の意味どおりでの「同一」、全く同じにはなりえないんじゃないかと思うんですが。
また、ここが肝心なんですが、例えそれが「同一」、全く同じであったとしても、
「私」がそれを「同一」だと確認する手段はないような気がします。
つまり、あなたの対象aの欠如をあなたの対象aの欠如として
「私」が体験することは出来ないんじゃないかと。
その対応が反射して現実に見出され(貨幣流通など)たとしても、
「分かり合う」が現実との対応関係に見出されるということにかかっているのなら、
他の事でいくらでも可能ですよね。
112 :
73:04/06/19 12:23 ID:c3kmx7wc
俺はてっきり、distanceを抱きしめるというのは、
人類における言語発生のプロセス、あるいは交換発生のプロセスの
ようなものを想定しているのかと思ってました。
発生のプロセスと言ったら大雑把ですが、そんなようなものを。
そのプロセスは人類にとって一度通過されたものなので、
また言語以外の「なにか」でも起きる、
言語よりも深く、他我との溝を越えてdistanceを抱きしめることができるかもしれない、
ソシュールの「言語は記号ではない」と同じ意味での言語を超えた「なにか」で
それが起きるかもしれないと。
これはたしかに「できるかもしれない」ので。
一度言語を獲得した我々にとっては限りなく不可能に近そうですが。
>>108 >それはヒューマニズム的な方向では全くなく
俺が言いたかったのは、
暗黙に懐中電灯の光は届かないということですね。
結局は同じなのかもしれませんが。
これも趣味の問題なんですが、
俺は目的論的なこと、希望的なことが嫌いなんですね。
と書いてて思ったんですが、
要するに俺はdistanceを抱きしめるというのに過度な期待を抱いてたんですね。
>>106さんのように厳密で明晰な思考から、
>>80のような帰結がでてくるのに違和感を感じたので。
>>104 一応、倫理についての返答も書いたんですが、
そういうわけでやめときます。
113 :
53:04/06/19 23:38 ID:15JZrje2
かなり痛い53です(^_^)
なんか難しい話になってますね。
>>100>>73「私が認識する、あるいは感じる絶対的な他者との差異そのもの自体」と
「あなたが認識する、あるいは感じる絶対的な他者との差異そのもの自体」は
同一のものではありえないんじゃないですか
これは例えば、他者との断裂に関して、多くの人はそんなこと感じてないだろうけど
なかには、少し感じる人もいれば、かなり強く感じる人もいる。こんなことでしょうか?
ちなみに、漏れはかなり強いです…
多くの人は同じではなくても、類似した幻想とか物語を共有しているからこそ現実感を持てるんだと思うし
共有している人は幻想とか物語とは捉えずにそれを「現実」と捉えてる
ここで幻想や物語を共有している人達は
>>73>>97あたりの「無言の権力」そのものになっている人達ということになるのかな?
けど、この幻想とか物語が消えてしまう人がいる
そういう人は現実感を失うし、「現実(この中には「他者」も含みます)」はカントの物自体みたいなものになってしまう
この状態になった人間はどうすればいいの?
幻想や物語の共有は無意識にされるからできるので、意識化されると共有するのは難しく、ずっと俺はこんな状態なのか?そんなことを思います
>>77 他者の痛みについて思い出したことがあります。永井均の本で紹介されてたウィトゲンシュタインの話です。
彼は自分の胸を叩いて「この痛みがわかるか!」と言ったそうです。
肉体的な痛みは誰でも解りそうだけど、「彼その人の、その痛み」は誰にも解らない。
これを読んだとき、漏れは思わず泣いてしまった。
>濾過一
>スレストの原因はそもそも俺だったと思うのでカキコ自粛します
そんなことないと思うんで、気にせずカキコしちゃって下さい。
114 :
53:04/06/19 23:44 ID:15JZrje2
↑敬称忘れた…
「濾過一さん」ですよね、失礼しました
なにやってんだ、漏れ_| ̄|○
>>109 他者との差異を抹消する事は出来ないが
差異自体を共有する事は出来るのではないか
それを「distance」を抱きしめると表現しています
「いつの日か」というのは一種の極限なんですが
地平線に辿り着けなくてもそれを想定するのは有意義です
もっと硬く言えば時間的な変化が含む潜在的可能性です
重要なのは貨幣(言葉)が事実として流通するのと
価値(意味)の実在とはイコールではない事ですね
貨幣価値の実在というのは未だに成立していない
>>110 いや、貨幣と言葉の「同一」は、他我の知覚の同一とは違うんですよ
>だって、みんなの間で貨幣は流通しているから
剰余利益が発生するのは一方で同一の貨幣が流通し
一方で同一の価値(体系)がありえないからです
対象aの剰余享楽はこれと同じ構造をしています
>>111 現実界は物自体と同様に認識不可能であり
その意味では「同一」というのは確かに無く
従って性的関係なども無い事になります
しかしそもそも
>>73と重複しますが
小文字の他者である対象aが媒介して
原初的主体であるエスに触れられるようになります
73さんとの違いは抹消された主体の等価物である
欲望の原因=対象aを単なる幻想と見なすか
そこに現実界の剰余を見出すかという差でしょう
>>112 >言語発生のプロセス、
>あるいは交換発生のプロセス
>のようなものを想定しているのか
(構造主義的な)記号は
現実との対応を持たない恣意的な体系なんですが
それを超えるものの想定を示すなら
「文字の享楽」の様なものでしょう
>過度な期待
>違和感
例えば囚人のジレンマというのも
数学的に厳密に思考して帰結してきたものですが、
同様に自分は、合理性を追い求めながら
合理性を超える地点に到達するような道に行きたいのです
118 :
73:04/06/21 22:03 ID:h7LbNrVP
>>113 >そのものになっている人達ということになるのかな?
上にも書いたんですが、そのものということはないですね。
どうでもいいことですが。
53さんが書いてるリゾームみたいなもんで。
>この状態になった人間はどうすればいいの?
俺もそんな感じなのかもしれませんが、
53さんがどうしたらいいのかはわからないです。
すいません。
119 :
73:04/06/21 22:03 ID:h7LbNrVP
>>114 >地平線に辿り着けなくてもそれを想定するのは有意義です
そうですか。わかりました。
お騒がせしました。
>いや、貨幣と言葉の「同一」は、他我の知覚の同一とは違うんですよ
ええ、そうですね。
>「文字の享楽」の様なものでしょう
てっきりテレパシーかと思ってました(w
>同様に自分は、合理性を追い求めながら
>合理性を超える地点に到達するような道に行きたいのです
そうですか。ちょっと感動しました。
到達できるといいですね。
>73
73さんの不満は
どういう風にすれば解消されるのか不明ですね
「distanceを抱きしめる」と言っているのだから
distanceが消失してはそもそも抱きしめられない
他我の距離、疎外、コミュニケーションの
不可能性の条件を可能性の条件に読み替える
というのがポストモダニズムの視点です
ヒステリー者が超えられない溝を
性急に埋めようとするのに対して
倒錯者はそれを快楽に変えます
さて、少し今までの主張と違う路線に踏み込みますが
他我の知覚の同一というテーゼも不可能ではありません
問題は事実的な可能性ではなくて意味的な可能性ですが
「痛み」というのも神経の電気信号に過ぎないのだから
自他で区別する必要はないという考え方も自然です
自然科学(的世界観)には「自己」とか「他者」の出る幕は無い
(しかしそうだとすれば、自他の区別は科学を超えた領域だろうか)
ここで、「私は彼の痛みを感じることができない」という文には
「実際に感じた経験が無い」という事実と
「私と彼は異なるので論理的に不可能だ」という規則が混在しています
だから、主客二元論を放棄して転回すれば
自分の痛みは「つねに・すでに」他者の痛みなのだ
という事も言えるようになります
もちろん、自己の視線が既に他者の視線であるという
視線の一致は倒錯の定義ですから
先に述べた事ととも合流する訳です
123 :
73:04/06/22 22:56 ID:S/Qzom66
>>120 いや、もう不満なんてないですよ。
むしろ嬉しいくらいです。ありがとうございました。
テレパシーは冗談ですので。
124 :
名無しさん@毎日が日曜日:04/07/03 11:13 ID:5MTQckOr
最近カキコ無いね
無職なので暇だし教養をつけようと思ってます。
私のような馬鹿にも分かりやすい、お薦めの哲学書があれば是非教えて下さい。
126 :
名無しさん@毎日が日曜日:04/07/03 16:33 ID:5MTQckOr
>>125 竹田青嗣なんかはどうでしょう?
「現代思想の冒険」「自分を知るための哲学入門」など
哲学の流れみたいなのも掴めるし
教養という意味ではいいと思う
哲学者の書いたものならば
ニーチェの「道徳の系譜」
難しくないし、ニーチェの毒舌が炸裂してます(^_^)
最初読んだとき、あまりの毒舌に笑ってしまいました
127 :
125:04/07/03 22:24 ID:T0Pq9hzv
>>126 ありがとうございます。さっそく手にしてみたいと思います。
他にも哲学に限らず、思想などに関する本であれば社会学だろうと何だろうと構わないので
是非是非推薦してください。
おながいします
翻訳物とくに哲学系は訳者(訳の巧拙)によって印象が代わるから
勧めるなら、本と同時に訳者も書いておいた方がいいのでは?
>>127 個人の趣味でつが「神話と日本人の心」by河合隼雄がお奨め。
何も西洋哲学に固執することもないかと。。。