ゲッベルスは戦後日本の予言者だったのか
ドイツのゲッベルス宣伝相は、ドイツ国民に与える警告として次のような内容の文書を1934年に公布している。
それは、非常に強大な超国家的勢力が、文明の破壊にもつながる心理戦、神経戦を挑んできている。これに対
してドイツ国民は十分警戒せねばならない。この心理戦、神経戦の目的とするところは、人間の純度を落とすこ
とにより現存する国家を内部からむしばんでいこうとするものである。
ゲッベルス宣伝相が挙げたこの超国家的勢力の狙いとする心理戦、神経戦とは次の如き大要である。
「人間獣化計画」
愛国心の消滅、悪平等主義、拝金主義、自由の過度の追求、道徳軽視、3S政策事なかれ主義(Sports Sex Screen)、
無気力・無信念、義理人情抹殺、俗吏属僚横行、否定消極主義、自然主義、刹那主義、尖端主義、国粋否定、享楽主
義、恋愛至上主義、家族制度破壊、民族的歴史観否定
以上の19項目をつぶさに検討してみた場合、戦後の日本の病巣といわれるものにあてはまらないものがただの一つ
でもあるだろうか。否、何一つないのを発見されて驚かれるであろう。ゲッベルス宣伝相は、戦後の日本に対する予言
者だったのであろうか。
戦後生まれの人たちにはピントこないかも知れないが、これらは正常な人間の頭で判断すれば人類の文明の破壊に
つながるものであることは一目瞭然である。人間の純度を落とし、本能性に回帰させようというものである。
ゲッベルス宣伝相が警告を発した第二次大戦前の時点でどれだけの人がこれを真に人類の文明への挑戦として脅威
的に受けとったかは分らない。しかし第二次大戦が終わってみると、日本へはこれら一連の風潮が忍者の如く忍び寄っ
て完全ともいえるほどに定着してしまっていたのである。
モルデカイ・モーゼ著 日本人に謝らなければならないより
善悪二元論の持ち込み
今度の戦争は日本の支配階級、「天皇制軍国主義者」の起こしたものであり、被支配階級である大多数の日本国民に責任はない、
否、むしろ被害者である、一握りの天皇制軍国主義者にだまされていたのである、とする二極分化論である。この論法はかつて北京
を訪れた日本の各層の人々に故周恩来首相が常に口にしていた論法と同じであることからも、これがマルクス主義の階級闘争史観
であるということはご理解頂けると思う。
この勢力はマルクス主義を自己の目的のため手段、道具として利用する勢力である。日本の戦後支配の出発点において早速、自己
が創造したマルクス主義という虚構仮設を持ち込んだのであった。これは実に有効な手段、道具として役立ったのである。
その第一は、自己の戦争責任の免責である。(本格的な戦争責任論は稿をあらためる予定である)自己が火の粉をかぶる前に、その
責任を日本の「支配階級」、すなわち「天皇制軍国主義者」に転嫁することに成功している。しかも、以後自分達に追及の手がのびるこ
とのないよう、一般日本国民に対しては一見寛大とも錯覚させる被害者意識を植えつけることが可能なわけである。
モルデカイ・モーゼ著 日本人に謝らなければならないより
934 :
ニーチェ:2012/09/08(土) 14:15:24.20 ID:???
仏教の素晴らしいところ
さて、これまで私はキリスト教の問題点をあげ、それが最悪の宗教であることを説明して
まいりました。それでは他の宗教について私がどう考えているのか、これも大事なことなの
で、きちんとお話ししておきましょう。
ご存じのように、仏教という宗教があります。仏教もキリスト教に負けず劣らずたくさん
の信者がおります。仏教というと、キリスト教とはまったく違う宗教というイメージがある
ようですが、実は両方とも同じようなニヒリズムの宗教なのです。
しかし、仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。
仏教のよいところは、「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っていることです。
これは、仏教が何百年と続いた哲学運動の後に現れたものだからでしょう。インドで仏教が
誕生したときには、「神」という考えは、すでに教えの中から取り除かれていたのです。
そういう意味では仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教
と言っていいでしょう。
彼らは本当に現実的に世の中を見ています。仏教では「罪に対する闘い」などとキリスト
教のようなことを言いません。現実をきちんと見て、「苦しみに対する闘い」を主張するの
です。
仏教では、「道徳」という考えは自分をダマすことにすぎないと、すでにわかっているの
ですね。
ここが仏教とキリスト教の大きく違うところです。
これは私の言い方なのですが、仏教という宗教は「善悪の彼岸」に立っているのです。
つまり、善や悪というものから遠く離れた場所に存在している。
それは仏教の態度を見れば明らかです。
仏教が注意しているのは、次の二つです。一つは、感受性をあまりにも敏感にするとい
うこと。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、苦しみを受けやすくなってしまうからです。
そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的なものとして考えたり、難しい概念を使ったり、
論理的な考え方ばかりしている世界の中にずっといること。そうすると、人間は人格的にお
かしくなっていくのです。
935 :
ニーチェ:2012/09/08(土) 14:16:32.90 ID:???
読者の皆さんも「自分も思い当たるな」とか「ああ、あいつのことだな」とすぐにイメー
ジできるのではないでしょうか。
仏教を開いたブッダはそういったものを警戒して、フラフラと旅に出て野外で生活するこ
とを選びました。ブッダは食事にあまりお金をかけませんでした。お酒にも用心しました。
欲望も警戒しました。また、ブッダは自分にも他人にも決して気づかいしなかった。
要するにブッダは、いろいろな想念に注意していたわけです。
ブッダは心を平静にする、または晴れやかにする想念だけを求めました。
ブッダは、「善意」とは、人間の健康をよくするものだと考えたのです。そして神に祈る
ことや、欲望を抑え込むことを教えの中から取り除きました。
仏教では、強い命令や断定を下したり、教えを強制的に受け入れさせることはありませ
ん。なにしろ、一度出家して仏の道に入った人でも「還俗」といって再び一般の社会に戻る
ことができるくらいですから。
ブッダが心配していたことは、祈りや禁欲、強制や命令といったものが、人間の感覚ばか
りを敏感にするということでした。
仏教徒はたとえ考え方が違う人がいても攻撃しようとは思いません。ブッダは恨みつらみ
による復讐の感情を戒めたのです。
「敵対によって敵対は終わらず」とは、ブッダが残した感動的な言葉です。
ブッダの言うことはもっともなこと。キリスト教の土台となっている「恨み」や「復讐」
といった考えは、健康的なものではありません。
今の世の中では、「客観性」という言葉はよい意味で使われ「利己主義」という言葉は悪
い意味で使われています。
しかし、「客観性」があまりにも大きくなってしまい、「個人的なものの味方」が弱くなっ
てしまうのは問題です。また「利己主義」が否定され続けると、人間はそのうち精神的に
退屈になってくるものです。
こういった問題に対して、ブッダは「利己主義は人間の義務である」と説きました。要す
るに、問題を個人に引き寄せて考えよう、と言ったわけです。
あの有名なソクラテスも、実は同じような考え方をしています。ソクラテスは人間の持っ
ている利己主義を道徳へと高めようとした哲学者なのです。
ニーチェ著アンチキリストより
936 :
ニーチェ:2012/09/08(土) 15:02:28.29 ID:???
キリスト教が破壊したローマ帝国
人がウソをつくときって、どんなときでしょうか。やはり、そのウソによって何かを守る
ときか、あるいは破壊するときでしょう。これらは相反するものですね。
しかし、キリスト教は無政府主義者と同じなので、破壊のみを目指すのです。
歴史を振りかえれば明らかです。まさに歴史が証明しています。
先ほども言いましたが、宗教的な法の目的は、人生をよりよくするためのいろいろな条件
や、社会の偉大な組織を「永遠化」させることです。
偉大な組織では、人生が豊かになるからこそ、キリスト教はそれに対して攻撃を仕掛ける
のです。
『マヌ法典』では、長い年月をかけて手に入れた収穫は、より利益を高めるために上手に運
用し、より大きく豊かに、完全に持ち帰るべきものとされています。
反対に、キリスト教はローマ人の巨大な業績を一夜のうちにぶち壊しました。
キリスト教は世界を破壊しつくしてしまった。
キリスト教と無政府主義者は、両方デカダンスです。解体したり、害毒を与えたり、歪曲
したり、血を吸う以外には何の能力もありません。立っているもの、持続するもの、未来を
約束するもの、すべてに対する恨みと呪いの固まりなのです。
キリスト教徒はローマ帝国の血を吸いつくしました。
ローマの歴史は素晴らしいものでした。本当はローマ帝国はさらに大きくなるはずだっ
た。ローマ帝国という驚くべき大規模な芸術作品は、まだ一つの始まりであり、数千年もの
時間がたって真価を発揮するようなビッグプロジェクトだったのです。
これほどの大事業は、歴史上で、かつて一度も行われたことがありませんでした。
ローマ帝国は偉大でした。たとえ、ろくでもない人間が皇帝になったとしても、土台が揺
らぐことはありませんでした。誰が皇帝になろうと、そんなものは偶然にすぎず、ほとんど
関係ないのです。
実はこれがすべての偉大な建築物の条件なんですね。
937 :
ニーチェ:2012/09/08(土) 15:03:40.09 ID:???
しかし、そんな偉大なローマ帝国でさえ、腐り果てたキリスト教徒を防ぐことはできませ
んでした。
ウジ虫たちは、暗闇や霧にまぎれてコソコソと人々に忍び寄り、「真なるもの」に対する
真剣さ、現実の世界で生きていくための本能を、人々から吸い取っていきました。そして一
歩一歩、ローマ帝国という巨大な建築物から「魂」を奪っていったのです。
ローマ帝国の人々は、自分の国に対して、自分の意見を持ち、真剣さと誇りを持っていま
した。ところが、その男性的な高貴な本性が奪われてしまったのです。
偽善者たちの陰謀が、ローマを支配して主になってしまった。
「地獄」「罪なき者の犠牲」「血を飲むことでの神秘的合体」といった気持ちの悪いヨタ話
が、下層民の恨みつらみによって広まっていきました。
かつて、古代ギリシアの哲学者エピクロスは、「負い目」「罰」「不死」といった考え方に
よって魂が汚されることを批判しました。
それについて、ローマの哲学詩人であるルクレティウスが『物の本質について』という本
を書いているので、一読してみるのもいいでしょう。
エピクロスは、地下的な礼拝と、キリスト教的な発想すべてに対して闘いを挑んだので
す。彼が「不死」を否定したことは、それこそ本当の救済と言っていいでしょう。
エピクロスは勝利をおさめるかに思われましたし、ローマ帝国のあらゆる尊敬すべき人た
ちは、皆エピクロスのような考えを持っていました。
ところが、そこにパウロが現れたのです。
ローマに敵対し、「世界」に敵対する下層民、恨みつらみの天才、ユダヤ人の中のユダ
ヤ人、選りぬきの永遠のユダヤ人であるパウロが登場したのです。
パウロはこう考えました。
ユダヤ教から離れたキリスト者の小さな宗派運動を利用して、世界を焼き払ってしまおう
と。「十字架にかけられた神」というお話を使って、人々をダマしてやろうと。ローマ帝国
の中で、ねじ伏せられている下層民、反乱を起こしたがっている連中、陰謀を持っている無
政府主義者など、すべてのものの巨大な力を利用してやろうと。
938 :
ニーチェ:2012/09/08(土) 15:04:22.36 ID:???
「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ伝四の二二)とは、よく言ったものです。
パウロはあらゆる種類の地下的な礼拝を利用したのです。
頭がいいというか、ずる賢いというか。
パウロはそういった概念によって、真理を攻撃し、「救い主」をでっちあげて、自分に都
合のいいことを語らせたのです。
パウロは気づいてしまったのです。
「この世」を無価値にするためには、「不死の信仰」が必要であることを。
そして「地獄」という概念を使えば、ローマを支配することができることを。
「あの世」を使って人々をおどせば、この世界をつぶすことができることを。
ニーチェ著 アンチ・キリストより
939 :
聖徳太子:2012/09/08(土) 15:07:51.76 ID:???
「妙法蓮華経」という経典は、思うに、さとりに向かうあらゆる善をおさめとって、これをさ
とりを得るための一因となす実り豊かな田地であり、限りある寿命を永遠の生命に転ずる不死の
妙薬である。
釈迦如来がこの人間世界に出現された意義を述べるならば、まさしく、人びとにこの「妙法蓮
華経」を説いて、あらゆる善がさとりの一因に帰するという道理を身につけ、無二の大いなる仏
果を得させようと願われたからである。
しかしながら、人びとが過去世から積んできた善は微々たるものであり、かれらの心は無知で
あり、能力も愚かで劣り、五つのけがれがすぐれた教えを信ずる人となることを妨げ、六つの心
の覆いが智慧の眼を覆っているから、これらの人びとは、直接、一乗教の説くところの因果の大
理を聞く能力がないのである。それゆえに、釈迦如来は時宣にかなって、まず最初に、鹿野苑
(ミガダーヤ。現在のサールナート)において、声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えをそれぞれ説き、人
びとの求めに応じた教えによってかれらにさとりを得させたのである。それ以来、如来は無相の
理を説いて、すべての人びとがこれを修めるようにすすめるとともに、ときにはまた中道を説
いて、それぞれの人を指導したのであるが、それでもなお各自の能力を考えて、三乗の教えによ
って仏果を得ることを説いて、人びとを仏道に入れるべく養育してこられたのである。
その結果、人びとは年月を経過するにしたがって、仏の教えを受けて修行したから、しだいに
かれらの了解が深まって、如来が王舎城(ラージャグリハ。釈尊当時のマガダ国の首都)で説法した
もうたとき、一大乗の教えを聞くに適する心を起すにいたり、ここではじめて、如来がこの世
に出現したもうた大いなるみこころにかなうこととなった。そこで、如来はあらゆる徳性を具え
た身体を動かし、みずから口を開いて、あらゆる善がさとりの一果に帰するという理<万善同帰
の理>を説き明かし、もって無二の大いなる仏果<莫ニの大果>を人びとに体得させられたのであ
る。
940 :
聖徳太子:2012/09/08(土) 15:08:42.56 ID:???
「妙法」というのは、原語で薩達磨(サッダルマ)という。そのうち、「妙」というのは、粗雑を
絶ったという意味のことばであり、「法」というのは、この経に説くところの、あらゆる善が一
因となってさとりの一果を得る教えのことである。すなわち、この経に説く一因によって一果を
得るという一乗の教えは、かつてその昔に、さとりの因と果に関して粗雑なものを説いたところ
の、声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えに比べて、はるかに超えてすぐれているから、「妙」と呼ぶ
のである。
「蓮華」というのは、原語で分?利(プンダリーカ)という。この花の性質は、花と実が同時に
実ることである。そのように、この経も原因と結果が同時に成立することを明らかにしており、
それは蓮の花と同じ意味をもっているから、蓮華が譬えに用いられているのである。
「経」というのは聖教の一般的な名称であり、仏のことばをたたえる呼称である。しかしながら、
「経」というのは漢語であって、原語は修多羅(スートラ)という。「経」の意味は、「法」または
「常」という。聖人の教えというものは、時代や民俗がどんなに移り変わっても、また賢人がつ
ぎつぎと世に出ても、その教えの是非を改めることができないから、、「常」といい、人びとにと
って守るべき軌範となるものであるから「法」という。
ところで、経典の題目というものは、名づけられた理由が必ずしも同じではない。ある経典は
ただ単に教理を題名としたり、また単に譬えを題名としたりしている。ある経典は教理と譬えを
ならべて題名とするものもあり、ただ単に人名を題名とするものもあり、また人名と教理をなら
べて題名としているものもある。いま、この経は上に「妙法」といって「法」をとり挙げ、下に
「蓮華」といって、「譬え」をとり挙げている。そして、「法」と「譬え」を二つならべて題名と
するから「妙法蓮華」というのである。この題名の原語を完全に記すならば、薩達磨分?利修多
羅(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)というべきである。
聖徳太子著 法華義琉より
941 :
ニーチェ:2012/09/08(土) 16:00:19.54 ID:???
反=キリスト的教説を説く賢人ゾロアスターは、畏怖すべき「永遠回帰」の思想に
到達するが、ついにその大いなる畏怖と深遠さとを克服して自らをその「告知者」
(超人)へと鍛えていく。
ゾロアスターの語った人間が超人へと至る3つの変化
わたしはきみたちに精神の三つの変化を挙げてみせた。すなわち、精神がラクダになり、
そしてラクダがライオンになり、そして最後にライオンが子供になった次第を。
まずラクダとは、「真理」や「魂の飢え」やその他さまざまな重荷を抱え込んでその
「重みに耐える精神」を比喩する。
だが、第二の変化が起こり、この精神は「ライオン」となる。「ライオン」は、自分の
最後の主であった巨大な「竜」に闘いを挑む。この巨大な「竜」は「なんじ、なすべし」
と叫び、これに対して「ライオン」は「われ欲す」と咆哮する。
この「ライオン」は「人間的、あまりに人間的」で語られた「自由精神」にあたる。
それは自分が負っていたさまざまな「重荷」の本性を冷徹に認識し、自分を拘束して
いた一切のものに「否」を唱えるような存在である。だが「自由精神」はこれまでの価
値の「虚妄」を知ってはいるが、まだ新しい「価値」を創造するには至っていない。
この創造のためには、力に満ちた「ライオン」の精神がさらに無垢なる「子供」になら
なくてはならない。
子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、
一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの神聖な肯定である。
そうだ、創造の遊戯のためには、わたしの兄弟たちよ、一つの神聖な肯定が必要なのだ。
いまや精神は自分の意思を意欲する。世界を失った精神は自分の世界をかちえるのだ。
942 :
石原慎太郎:2012/09/08(土) 17:06:11.48 ID:???
「刷りこみ」こそ教育の原点
あてがい扶持の憲法の拝受から発して今日に至る国家としての自己喪失の回復に、
我々は今何を果断に試みなくてはならぬのでしょうか。
縷々述べてきた日本の衰運を暗示するさまざまな事象の克服のために、我々は抽象論
ではなしにあくまでも具体的な手立てを講じていかなくてはなりません。もうすでに慨
嘆に溺れて過ごす時期は過ぎました。この今から、わずかずつでも手をつけていかない
と、国全体が認知症患者みたいに、何をすべきだったかすぐに忘れてしまいます。その
ためのさまざまな案があろうが、その成就にこれからどれほどの時を要するにしても、
その長きに怖けずまず一歩を踏み出すことが肝要なのだ。その一歩こそが、行わんとし
ている者の意思の表示となる。その一歩の前にそれについての真摯な討論が起こること
すらも、強い表示と成り得る。
己の国の近い近い歴史について知るということが、民族の連帯の絆たり得る筈なのだ
から、東京に次いで他の多くの自治体が近代史現代史を教育の必須科目とすべきです。
それをはばむ論があるならそれを淘汰して進むのだ。
垂直に継承されるべき価値の基軸が損なわれようとしているのなら、それを幼い者た
ちに、幼いからこそ効果のある方法としての「刷りこみ」で伝えるべきに違いない。
かつては教育勅語なる価値、道徳を説く規範が天皇の権威において流布されていまし
た。
石原慎太郎著 新・堕落論より
943 :
石原慎太郎:2012/09/08(土) 17:06:41.09 ID:???
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克
ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ
教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉
己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公
益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天
壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾
祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ
倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ
拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」
(口語訳・私の思うのは、我が皇室の祖先たちが国を始めたのは遥か遠き昔のこと
で、そこで築いた徳は深く厚いものでした。我が国民は忠と孝の道をもって何億何
兆もの民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ
我が国体の精化であり、教育の淵源もまたそこにあります。
あなた方国民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は互いに協力しあい、友人は
互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を修め手に職を付
け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、常に憲法
を重んじ法律に従い、ひとたび非常事態となれば、公のため勇敢に闘い、このよう
にして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた
方が我が忠実で良き国民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺し
た良き伝統を反映していくものでもあります。
このような道は実に、我が皇室の祖先のお遺しになった教訓であり、子孫臣民の
共に守らねばならないもので、古今に通じる、国内だけでなく外国においても間違
いない道です。私はあなた方国民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆
一致してその徳の道を歩んでいくことをねがっています。)
石原慎太郎著 新・堕落論より
ユダヤイルミナティ代表ディビッド・ロスチャイルド氏の
世界政府設立宣言
ttp://www.youtube.com/watch?v=5XBxYBOHss0&feature=related 話をしている段階は過ぎ去ったからです。
我々は歴史的に知っているこれらの問題
に対する為の世界政府設立への方策は
試みるのがとても困難な事を、
これら全ての意思を持ってしても現実に
始動させるのは非常に難しい。まさに今、
我々はそれを目にしている。
コペンハーゲンで多くの分断が起こって
いる事を。多くの異なった課題が異なる方
向へ誘導している。私は思う、我々が本当
に目撃するであろう事は関与する人達は目
先の利益を得る為の現実的な行動を取り始
めるだろう事だと。
そして手近にある解決法に取り組む方向への
動きを始めるだろう。
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/Tenzin_Gyatzo_foto_1.jpg/200px-Tenzin_Gyatzo_foto_1.jpg 日本の読者の方へのメッセージ
私は、二〇一〇年十一月に日本で行った「般若心経」についての解説と、脳科学者・茂木
健一郎氏との対談を収めた新書が集英社から刊行されることを知り、大変嬉しく思っています。
当時私は、日本とチベットの仏教者が同じように「般若心経」に関して高い認識を持ってい
るものの、その接し方が異なっていることについて触れました。日本では、この経典は亡くな
った人のために葬儀の際よく朗唱されますが、チベット人にとっての「般若心経」は、すべて
の現象には実体がない、という空を理解するための生きた智慧なのです。そして、どうすれば
私たちの日々の生活の質を改善し、よりよく変えていくことができるのかを説いているこの教
えは、私たちに力と希望を与えてくれます。私のささやかな解説が、日本の読者の方の「般若
心経」への関心を高め、現実のありように対する仏教的な解釈をより明確に理解するための助
けとなることを心から願っています。
私は長年にわたり、脳科学者や神経科学者等の科学者たちと多くの対話をしてきました。し
かし、茂木健一郎氏と話す機会を得られたことをとりわけ嬉しく思いました。なぜなら、仏教
の文化を持つ国で育った科学者と、脳と意識の関係について話せる機会はとても少ないからで
す。今、この書によって、読者の方がご自身でそれを確かめていただけると思いますが、私は
茂木健一郎氏と、楽しく刺激的な議論ができたことを心より感謝しています。
二〇一一年九月一二日 ダライ・ラマ十四世
ダライ・ラマ十四世 茂木健一郎 著 空の智慧、科学のこころより
終わりに
「般若心経」は短い経典ですが、非常に幅広く深遠な意味が含まれていることがわかりま
したね。それを正しく理解するためには、たくさんの経典や注釈書を読んで勉強しなけれ
ばなりません。
今日は、日本の仏教との皆さんに、「般若心経」の解説をさせていただく機会を得て、
大変嬉しく思いました。日本は昔から仏教国であり、皆さんはご両親から仏教の伝統を
引き継いでこられたわけですから、仏教は皆さんのご先祖様から伝わってきた宝なのです。
私は、先祖代々から伝わる皆さんの宝について説明させていただいたわけであり、本当に
光栄だと思っています。
仏教とは、知性によって学び、智慧を育むことによって実践するべき教えなので、勉強
するということが何よりも重要です。そのためにも、まず最初に教えを聞かなければなら
ず、教えを聞かなければ、修行の方法を知ることはできません。仏教の修行は、教えを聞
き、それについて考え、瞑想する、という三つの段階を踏まええ進めていかなければなら
ないからです。
私は、すべての仏教徒の方たちに、二一世紀の仏教徒にならなければいけない、とい
うことをいつもお話ししています。現代における知識教養を得るためにも、勉強すること
が必要であり、勉強してはじめて、仏教が他の宗教と違うユニークなものであることが
わかります。
仏教では、特に智慧を重要視しているので、、機能科学者の茂木さんにお目にかかって対
談をしたように、私も過去約三〇年にわたってたくさんの科学者たちにお目にかかり、意
見を交換したり、議論をしたりしてきました。
もし、信心だけでよいのなら、科学者たちと会って話し合う必要などありません。仏教
は、知性と智慧を育むことによって実践しなければならない宗教なので、私たちは勉強す
ることによってさまざまなことを知る必要があるのです。私たち修行者は、信心だけで仏
教に従っていてはいけません。
チベット人の僧侶の中には、私たちは読経をする者であって、教えの意味を知る必要は
ない、と言う人たちがいますが、これは大きな間違いであり、勉強して知るということが
何よりも大切なのです。
日本は、仏教が広く普及している国なので、皆さんも勉強にもっと力を入れていただき
たいと思います。
ダライ・ラマ十四世 茂木健一郎 著 空の智慧、科学のこころより
東京都は忙しそうだ
中国の反日暴動も石原が間接的に焚きつけたようなもん
はっきりさせないでうやむやにしておく方が平和に済む事もあるんだ
岡田副総理も尖閣の件で石原批判してたがこれは岡田正しい
東京都は責任取らないのに事態かき回す資格無いってのは筋が通ってる
ごたごたを引き起こすだけで収束させる事を考えてないのは困りますね
岡田はジャスコの利益しか考えてない。
媚中派。売国奴、非国民ともいう。
ふーん
力づくで押し通そうというのは相手も同じなんだから決着がつくわけがない
混乱させただけ
モヤモヤしても暗黙の了解でなあなあにしておいてお互い触れず、で良いんだよ
拡大解釈される可能性が多いかもしれない条例
ださない
無駄
ああ路線継続…
ださない
うめ
埋め
うめ
ウメ
埋め
うめ
ウメ
うめ
埋め
うめ
埋め
うめ
ウメ
埋め
ウメ
うめ
うめ
埋め
ウメ
埋め
埋め