ダイの大冒険の子供染みた正義感にうんざり

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9マロン名無しさん
ダイの大冒険の謳う正義感と言えば、

「勝てない相手だからこそ、命をかける必要があるのです。
それに修行で得た力は他人のために使うものだと私は思います」 byアバン

まぁこのセリフに代表されるような、利己主義の否定と利他主義の肯定だと思う。

「自分にできることはいくつもない。一人一人がもてる最善の力を尽くす時、必ずや勝利の光明が見える」 byアバン
にもあるように、『個人(の力)』より『全体(の力)』を重視してて、また「最高・最強の力」じゃなく「最善の力」という表現も面白い。
どうやら「力」に対する捉え方が、対立するバーン様とは違うんだろうと思う。

「正義なき力が無力であるのと同時に、力なき正義もまた無力なのですよ」 byアバン
これを元ネタに遡ると、「『力がない正義』は力がないので人を従えられない、
『正義がない力』は正義がないので従うことが正しいとは見なされない、
だから不完全なこの二つを一つに結合しなさい」というようなことを説いたパスカルだと思うが、
俺は敢えて二つとも「無力だ」とした点にアバン流の考えが見て取れると思う。

「力だけが全てではない、知恵や心も強さの一つ」 byアバン
つまり力だけでそこに心(正義)が無ければ強さとして不完全であり、
それは無力で弱いってことなんだろう。
(つづく)
10マロン名無しさん:2008/11/30(日) 16:45:49 ID:/YxjbjQ+
(つづき)
一方でダイの大冒険の「悪」を代表するバーン様の理論、それが
「鍛え上げて身につけた強大な力で弱者を思うようにあしらう時、気持ち良くはないのか?優越感を感じないのか?  
"力"ほど純粋でシンプルで美しい法律はない。生物はすべからく弱肉強食、魔族も竜も皆そうだ。
人間だけが気取った理屈をつけてそこに目をそむけている。力こそがすべてを司る真理だ!」

という、先のアバン先生理論に真っ向から喧嘩売ってる、利己主義と"力"の崇拝。
これだけ読めば、単に自己の快楽をトコトン追求することが目的で、"力"はその必要要素に過ぎないとも読めるが、
そうじゃなく、むしろ逆だということが続くバーン様のセリフで判る。

マァムに「いくら力があっても他人の平和をふみにじる権利はない」と言われ、
「…おまえ達は知らぬのだ!その平和とやらも、より強大な力によって支えられていることを。
そう、神の力によってだ!(中略)…太陽…素晴らしい力だ。いかに我が魔力が強大でも太陽だけは作り出すことができん。
だが神々は人間に地上を与え、魔族と竜を魔界に押し込めた!人間が我らより脆弱であるというだけの理由でだ!!!
(中略)まもなく地上は消えて無くなる、そして我らが魔界に太陽が降りそそぐのだ!
…その時、余は、真に魔界の神となる。かつての神々が犯した愚行を余が償うのだッ!!」

この超長台詞に込められているのは、「人間は弱いから」を理由に神がその強大な力で魔族と竜を苦しめてきたという、
神の理論の矛盾に対する不信と恨み。弱いものを救うために、神より弱い自分達を惨めに虐げるのは理屈に合わないだろうと。
愛だ平和だ謳ってるくせに、その実こんなにも不平等に特定の種族が差別されてきた。

その矛盾にバーン様が出した答えが、「"力"の絶対信仰」ともいうべき考え方。
(つづく)
11マロン名無しさん:2008/11/30(日) 16:46:34 ID:/YxjbjQ+
(つづき)
つまり、神が理屈に合わないことを押し通すのも、神の力が誰よりも強大なんだからしょうがない。
だったら自分達が強くなり続け、神よりも強くなって、神の矛盾に満ちた現在の世界を壊してしまって、
"力"だけが絶対な世界、"力"の前には誰もが平等な世界を築きたい…

それがバーン様のイデオロギー。
「余は、いかなる種族であろうとも強い奴に差別はせん!
叛旗をひるがえした今でも、バランやハドラーに対する敬意は変わらんよ…」 byバーン

このセリフにもバーン様の考え方が端的に現れてるし、その前段階にある、
(神に愛され平和を謳歌する)人間こそ本当は差別的で醜く愚かな存在だ、というバーンの指摘は、
バランの悲劇という事実にも裏づけされていて非常に説得力がある。

…こんな感じでダイ大の中のバトルというのは見方を変えると
「ダイ(アバン)・イデオロギー」と「バーン・イデオロギー」の対立なわけだけど、
両者共『「強さ」="力"』が必要だ、そうじゃなければ自己の理想を達成できない、という点では一致してる。

異なっているのは、
「ダイ(アバン)・イデオロギー」が全体で協調した社会を目指して個人個人が(特に力を持つ者が率先して)
利他的に生きていくべきだ、と考えるのに対し、
「バーン・イデオロギー」は"力"のみを絶対的規範とした社会を目指して、
目的を同じくする者同士が一時的に歩調を合わせる、という考え方。
(つづく)
12マロン名無しさん:2008/11/30(日) 16:47:23 ID:/YxjbjQ+
(つづき)

「ダイ(アバン)・イデオロギー」は理想論的に過ぎ、作中の現実にも対応してるとは言えない。
人間社会はアバンが目指すような利他的で自己犠牲的なものにはなっていないし、
ダイですら「たしかに人間はたまにひどいことするよ 勝手なことをしたりいじめたり仲間はずれにしたり…」
と認めるように、大半の人間は自己中心的で差別的だったりする。

でも同時にアバンの使徒が訴える精神を支える思想的規範(利他精神に対応する「愛」、自己犠牲的精神に対応する「勇気」)は、
多くの人を感化して動かしうる潜在的影響力があることも示されてる。
終盤愛と勇気が生んだ奇跡によって、世界が一つになって困難(バーン)に立ち向かう姿は、象徴的なシーンだ。

「バーン・イデオロギー」が指摘するように、人間社会は建前に反した矛盾で満ちているし、
個人の権利は保持する"力"に比例する、という理論が徹底されればそういった矛盾は無くなるかもしれない。

でも"力"だけを規範にするような社会は多くの場合、真の協調を促さないので、
バーンの元からは有力者が次々離反していき(基本的に真の協調者はミストぐらいだろう)、
最終的にバーンは自分1人で戦わなければならない。

それでもバーンはトコトン強かったので1人で世界に対抗できたが、
その強さが相手に新たな強さを生み出し、結局は破れてしまう。

この力がそれに対抗する力を生み出すというのは、
実はバーン自身が「神の力」の象徴である竜の騎士を乗り越えた存在として描かれていて、
それをさらに上回るダイの存在が生まれたように、終わることのない相生相剋の関係を示唆している。

(つづく)
13マロン名無しさん:2008/11/30(日) 16:48:29 ID:/YxjbjQ+
(つづき)

アバン先生の理論とバーン様の理論は、少なくとも途中までは拮抗した思想対立として描かれ、
常にダイ陣営の上を行く存在として描かれる大魔王陣営の強さは、
むしろバーン様の理論の方が正しいのか?とすら思わせる。

でもそうじゃないだろう、というのが恐らくこの作品が言いたかった答え。
最終的にはバーン様を上回る力を手に入れたダイが、これでもかと言わんばかりにボコボコに殴りながらの言葉、

「"力が正義"…常にそう言っていたな、バーン!
これがッ!!これがッ!!これが正義かッ!?
より強い力でぶちのめされれば、おまえは満足なのかッ!
こんなものがッ…!こんなものが正義であってたまるかッ!!!」

これが全てだと思う。この時のダイの涙は、
ある意味で「正義の為の力」というアバン・イデオロギーも純粋に全肯定はできないということなんだろう。
正義の為に、バーンを暴力によって捻り伏せることに、ダイは悲しみを感じずには居られなかった。
最後「さようなら…大魔王バーン」という別れのシーンは、本当ならばバーンとも判りあうことを望んでいたことを窺わせる。

だがバーンは最期まで自己の信念を曲げようとはしなかった。
"力"による支配が不可能になっても、"力"への崇拝は揺るがなかったし、
ダイはそんな存在を力によって葬り去るしかなかった。

ダイはバーンを倒し、自分を犠牲にして世界を救い、仲間はダイを救うために新たな旅に出る。
「人は利他精神による協調の社会の実現を目指すべき」、やはりこれが『ダイの大冒険の正義』と言っていいんだろう。
俺は>>1と違って大人社会には当てはまらないとは思わないけど。

(終)