Fate/stay night 萌え統一スレッド104

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153マロン名無しさん
>>152
 しかしともかく、論壇政治上、東は浅田グループから離脱し、「後継者宣言」も取り消された。
 東は浅田グループが「80年代に活躍できなかった嫉妬だけがある」とあからさまに軽蔑する宮台・宮崎コンビや大塚英志に接近してゆく。
 そして浅田たちへのあてこすりのように今まで以上にサブカルチャーに拘泥し(まあその影では今更のセゾン系文化への追悼文とか書いてるけど)、
有名な(?)「批評の棲み分け」の問題を指摘し始めた。
 曰く、今の言論は大別して二つ、「書かない浅田彰と書きすぎる福田和也」「届かないアカデミズムの浅田彰と、届きすぎるジャーナリズムの福田和也」でしかない、と・・・!

 つまりこういうことだ。
 浅田彰やそのグループの仕事は、「ニューアカの生き残り組みのフランス現代思想マニア」というごくごく限定された層の中では「高度」であり、
「アカデミズム」と言っても構わないくらい論理性の高い仕事である。しかしその一方、彼らはその閉鎖性(二言目には「外部」と口走っていたクセに、
という訳だ。つまり加藤・竹田<共同体派>コンビへの批判がそのまま彼らに当てはまる、と)故に「実際問題」行なうことは「NAM」(空想的共産主義
活動・・・みたいな感じだったかな。くじ引きで指導者を決めたり、地域通貨を発達させればよりよい共生への扉が開くのだそうだ・・・やれやれ)のような
社会的保護を受けたものの道楽としか思えないような所業になってしまう。
 事実、彼らはいくら「権威」がありローカルな「影響力」があったとしても、所詮数千部(以下)の市場、影響力はギャルゲー以下である。

 それに対し福田和也に代表される(たまたまいわゆる「ちゃんとした評論家」の中では福田がソレっぽいものも書いているというだけで、福田の仕事
自体はローカルなものも多く、ここで言う「福田和也」は「一時期の本多勝一」や「小林よしのり」と言い替えた方がいいかもしれない)「書きすぎる
評論家」は、どんどん新しい読者を取り込もうとしてその思想としての「回路」こそ開いているものの、そのアジテーション性によって大衆に「届いた」ときは
はっきり言って無内容になってしまう。