>>149 そこで登場したのが「東浩紀」だった。
東大在学中に「どうしていいかわからない」と柄谷行人に電話、難解な現代思想の論文を手渡してなんのかんのと認められて、若干二十歳で
「批評空間」にデビューした。要するに、浅田グループに「後継者」として認められたのだ。
その証拠に彼の主著、「存在論的、郵便的」というデリダ論の本に浅田が寄せた一文がすごかった。
「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった(中略) その驚きとともに私は『構造と力』が完全に過去のものとなったことを認めたのである」
まあ今更誰も読まなくなった浅田グループの後継者が誰になろうと事実上無意味なのだが(笑)それでもこういう動きを気にしていないと生きていけない
ギョーカイジン達に与えた影響は凄まじかった。
浅田グループの遺産は東が、江藤淳の遺産は福田和也がストレートに相続すると、誰もが思ったはずだ。
その後、「足場」を確保した(と本人は思ったに違いない)東は、そのままオタクとしての本性を全開(本人は他のサブカル評論家同様、
80年代オタク文化の洗礼を受けている。「うる星」ファンクラブの会員だったことは有名)当時大流行していた「エヴァ」論を、サブカル系オタが喜びそうな
現代思想ワードを散りばめて大展開。一躍「アニメ系サブカル文化人」の一員としても登録された。
そのオタク文化をいわゆる「ポストモダニズム」を語る「現代思想」用語で整理した視点は当然比較的」分かりづらいものになったが、「オタクの、
オタクによる、オタクのための自己肯定」に陥りがちなオタク系言論の中にこういうものが飛び込んできたこと自体は刺激的だったと思う。
事実、普段我々が別に気にすることもなかった、いや、気にしないことを選択していた、自分たちがオタク文化(東の言葉を借りれば「オタク系文化)を
「どう」消費していくのか、どの辺りが「面白く」どういう部分が「萌える」のかを整理してゆく作業は重要だったと思う。その成果は近著「動物化するポスト
モダン」にやや勇み足気味ながらもこれまでの東のオタク論の総決算としてよくまとまっている。
大塚英志の「物語消費論」の決定的な影響下に出発したこの「<物語>消費から<データベース>消費へ」という発想自体は、かなり的を得ている。