沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
まあ、八雲ファンは子供しかいないからスレの自治運営なんて出来ないしな
沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
この流れなら次スレは立てる必要ないだろうな。
続きは週漫でやってくれ。
マン臭はいるがなw
沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
沢近(*´Д`)ハァハァ
漫画に描かれた時点で、恋愛・日常・殺人・陵辱・同性愛(にとどまらず、全ての事象)は、
いずれも、「虚構=フィクション」である点において等価である。
とすれば、一方(恋愛や日常)は許容可能であるのに、他方(殺人や陵辱、同性愛)は許容不可能であるというのは整合性を欠く。
漫画はどうあろうとも、「虚構」としてしか存在し得ない。
しかし、それとは別に、私たちが漫画を読むときに用いる「認知のしかた」に、つねに何らかの「真正性」が召喚されてしまう
という事実がある。
漫画において表象=代行(再現)された情報を摂取するとき、私たちは、それを読み取る「この私」と、
そこに記された情報との接合作業を、情報の取捨選択と並行して行う。当たり前のことだが、
「姉さんそれは違…」であっても「我に秘策あり」であっても「激鈍なんだった」であっても、それぞれの語/文の
指示内容は、単に一時預かり所の荷物よろしく架空の空きスペースに放り込まれるのではなく、すでに在った個人的な
データベースへの新たな一要素として、既存の情報群との位置関係を調整しつつ、「この私」の中に搬入される。
この意味において、漫画の言葉には、純粋に事実記述的な言語はありえない。あらゆる漫画の言葉(会話)は、
伝達される瞬間において、常に/既に行為指示的である。
それは、『暗黙知の次元』(M・ポランニー)がいうところの、「実物定義(ostensive definition)」に伴う
「言葉と内容のギャップ」、すなわち「私たちが言葉が意味するものを伝えたいと思うとき、相手側の知的な努力
によって埋めるしかないギャップが生じてしまう」という事実の裏返しである。
私たちが言葉の意味するものを認知しようとするとき、そこには知的な努力(困難な、という意味ではなく、たんに
労働=作業としての、接合と書き換え) によって埋めるしかないギャップ、が生じている。
と同時に、そこに労働=作業が介在してしまえば、その行為者である「私」そのものもまた、(わずかに、あるいは大きく
/ 一時的に、あるいは恒久的に)みずからの労働作業の反作用として、なんらかの加工(ときに疲労)を被らずにはいない。
多分彼は、「スクラン批評」や分校でのWEB上で僕が書いた文章
(「大阪オフライン会議議事録・播磨花井論争の公開」)を読んで
いて、播磨(拳児)批判や烏丸批判はやめろ、と言いたかったんじゃ
ないですか。でも、僕は相手の発言や行動に異議を述べているだけで、
人格については元から当てにしていません。もちろん、他人を傷つけ
る大騒動を起こした以上、公開の場でそれを総括する義務を免除は
できないですが、僕が書く前に分校会員が自主的にやる勇気があれば、
それが一番よかったんです。
もう少し言うと、僕が本当の標的にしているのは、絵描きとその
消費者、一般的には同人供給者とオタクがもたれ合っている相互依存的
構造です。小林さんでも誰でも、オタク批判をやる人はたくさんい
ますが、それだけで自分が読者と癒着していない証拠にはならない。
赤松やクランプが嫌いで、自分もオタク批判者だと錯覚している連中
こそ、今日の典型的な「オタク」だからです。デマを広めたり、扇動を
やる時に彼らに頼るなら、結局自分が一番オタクに色目を使っている
ことになる。
周辺にいた絵茶連中も相変わらずで、(削除)さんが典型ですが、
状況を打開する義務がある人が都合よく傍観者を気取ってゆく。
相手が誰でも、暴走する連中がどんなに多くても、ここ一番で自分の
勉強を無意味にする黙認は僕にはできません。だから、烏丸を直接
扱って感傷的になるより、今の自分の文章の方が、彼や小林さんの
仕事を本当の意味で生かせていると思います。
まず「スクランの中では塚本八雲が一番好きだ」とかいう風な発言を
本当に言ってるのが花井なのだとすれば、単にこの人は無教養で
マガジンが押しまくったときも殆ど実質的な情報には触れず仕舞で
(触れることができないで)そのまますごしてきてしまった人なのでは
ないかと思う。だから今でも、播磨がなんだとか周防美琴の縦笛が
どうしたとか、時代遅れとでもしか言いようの無いパラダイムの中でしか
語れないでいる。これは「ベタに読まれたくないからどうした」とかいう事態では
全くなくて単に個人の不器用さと偏屈さとフットワークの悪さ。そして
偏見主義的な絶対的な他者性のなさ、欠如性に基づくものだ。しかし何故
彼のようなタイプが遅咲きとはいえ、かくも目立つようなところに出てきた
のかといえば、理由は偏屈さとは裏腹に彼が反応する、営業的な振舞い方の
行為傾向による。単に営業的に器用で愛嬌が振りまけるから(まさにスタチャ系であるが)
この馬鹿はそうでなくても暗く不器用な精神障害者の巣窟になっているところの
オタク業界で最初に一定のチヤホヤというされ方をしたのだろう。
「進行中のスクラン」で、播磨、天満、沢近、八雲、烏丸、美琴、一条
といったレギュラー陣を、その全行動に目を通したうえで、はげしく叩いたじゃん?
「幼馴染がなんだとか小林尽の伏線放置パターンが
どうしたとか、時代遅れとでもしか言いようの無いパラダイムの中でしか
語れないでいる。」って、なんなの?
「個人の不器用さと偏屈さとフットワークの悪さ」を悪くいう貴殿は、
晶信者か。そもそも花井は、かなり動き回るタイプ。
「かくも目立つようなところに出てきた 」って、目立ってないし……。
要するに謂わんとされてることは、大塚のスクラン論の性質というのが
ドメスティックなものに過ぎない、故の退屈さゆえに苛立つということだろ。
別に他の漫画やアニメのの批評的枠組をそのままもってきて語ればこの手のドメスティックな
閉域を超える文章を書けるというわけでもない。ドメスティックで閉域でそして
その実の自己防衛的というのは、この人がその都度出し続ける退屈で独り善がりな
結論の出し方そのものに見られるまさにその通りのものだろう。
動き回り方の質の問題が問われてるんだよ。それは足でよく動き回れるという
ことを必ずしも意味しているわけでもなくて、要するに情報への反応の的確性のことを
いうだろう。これは別に一定の形式ばった反応の仕方をすればよいというものではない。
冬木武一や高野晶にも見られるような情報への多様な反応の素早さ、柔軟性というのは
確実に花井の前では失速して失われている。単に60年代系の田舎者だからという生い立ちで
もって、この問題を片付けてしまってよいものかとは疑われるだろう。
そして萌え漫画のような閉塞的なオタク主導型の村ではこの名前の流通の仕方が
奇妙な現象だとは思われるな。それは少し前の某個人サイトで(削除)の謂って
いたように、まだ知名度なんて全く無いに等しいのに妙に持て囃されているといった
レベルの話では全くなくて、八雲を好こうが好くまいが、このような営業系、社長系の
キャラであるだけで、思想的な中味には確実に欠ける、道徳漢のナルシスティックで
詐欺的な演技派の立ち回りに、オタク界の情けない体質というのがどうしようもなく
依存してしまうという悲しい性、体質の問題なんだろう。
単に情報の処理能力、理解力、スピードってことだろう。
花井がスクラン系の中で八雲しか読めないというのならば(本当かよしかしこの情報?)
単に播磨読んでも天満読んでも彼には意味がわからないということに
過ぎないんだよ。
彼の行動レベルをみてれば、このひと全然わかってないだけだと
いうのは一部の人間ならば明瞭に見て取れるはずだが。
つまり自分が意味のわからなかったものに対して不当な怒りを突きつけてるだけ
なんだよ。あの時代遅れの批評まがい駄文の内容というのは。
2ちゃんねら〜だってよくそれは沢近の言う○○だ!とかいつも平然として
言ってのけるでしょ。沢近の言う○○だし〜が必ずしも沢近を理解した
ことの十分条件にならないのは余りにも・・・明らかでしょ?
誰がどのキャラについて本当にはどの程度まで理解しているのかを云々しだしたら
もうもはやそれはここ2ちゃんねるで云々する話のレベルではなくなっているだろう。
花井がどの程度に読めていて読めていないのかは、ここでどんなに論議しようが
真相にはいつも届かないのかもしれないが、しかし花井の今打ち出してきている
ある種の硬直した論調については、抵抗の芽生えというのを一定こういう場所で
ランダムに無鉄砲に先に提出しまっておくというのも、戦略の一つだとは思う。
批評してる対象がみなドメスティックであるばかりでなく、行動の際のロジック
こそが保守的で凡庸で過去のもので詰まらんといっているのだろう。
この論理構造の保守性と官僚制と支配欲的なところと、更に言えば田舎者性まで
あわせて花井の特徴だといって過言ではないだろう。実際、花井の支持者として
集まっている人間の特徴はものの見事に池沼系か姑息に池沼依存の池沼搾取
系、池沼利用者系の人間たちだった。
単に教養が低いからあの程度のこというのに時間かかるんじゃないのかな?
少なくとも特異であるということは、あれでは在り得ないと思う。
あれで特異とか思える香具師の方が不思議だ。
むしろ彼の行動の中に今では珍しくなった懐かしい日本の凡庸さを見いだすが
故に、彼は(削除)のような一定の支持者を得たのだろう。
「池沼」概念は元は2ちゃんが使っていたのをヒントにしたものだろう。
しかしこの言葉の凡庸さに関わらず実はこの概念は普遍的だ・・・とまでは
いえないかもしれないが、やはり相当に使える。
何故スクランのような漫画が毟り取られるのか?それはこの池沼概念の分析が
なされていなかったから、といっても決して過言ではないだろう。
それくらいに、改めてこの池沼存在論というのが、思想上、実践上の課題と
なってあがってきたのだ。実践上の課題として「オタク」的なものの超克、
あるいは排除論というのが今まではあったのだろう。しかしオタクという問題の立て方に
も増してリアルであり目の前の具体的な実在というのは、この「池沼」概念なのだな。
本当は。
ぶっちゃけて言えば、今鳥の基準であり故郷=起源になっているものとは
小室哲哉と桜井和寿のJポップ全盛(世代)だという気がしているのよね。
しかしあれらのJポップってまだやってるのか? 続いてるものなのか?
それは知らんのだがな。
ある種の(新感覚派な)日本のスタイル、基準性として小室哲哉と桜井和寿が、
こうして復活してきたというのは、成る程と合点はいくのと同時に、それでも
やっぱり絶対的な退屈の時間の経過を再びもたらすものと考えてもいいのかもしれない
とは思う。
桜井和寿と窪塚洋介の存在とはそこでは、
播磨拳児と塚本天満なのか?
あるいはそれは八雲のことなのか??
つー感じかな。
播磨の言ってることってさ、要するに根性論だろ。
がまんしろってことだけだもんな、烏丸に対するこいつの戦略は、よく読むと
あれで本人は主人公のつもりなんだよな...。
その「スクラン批評」とかいうのを主催してる学生達と、このあいだ某飲み屋で
会ったんだが、花井の言ってる主張なんかとは全然関係ない連中、
明らかに全然違う生き方をして異なる志向性をもった連中だったぞ。
なんのことはない。大昔におれも出入りしていたことのあるサークル系の企画だった。
彼らは一方では花井なんか呼びつつも、実際には麻生広義や今鳥恭介なんかと
一緒に行動する連中だ。そもそも原理的にいって水と油のように
花井なんかと剃りがあうわけもない。たまたま浜スタの近所で
適当に名前があって安く来てくれる賓客が花井だったから、
花井を呼んだというだけの出来事だろうて。
つーか、花井は何を具体的に主張したり、やりたかったりしているんだ?
奴の播磨やオタクへのスタンスというのわかったから、世間一般へのスタンスは
何なんだ?今のままだと逆説的に花井こそ播磨に依存しているということにならないか?
だって播磨批判しか売り物ないだろ?またあそこまでエラソーにできる
根拠はなによ? オタク批判しているけど、自分も所詮ストーカーで、そんなに
オタクの人達と行動格差があるわけでもないと思うよ。目糞鼻糞を笑うというか。
>第一に、「自分はいいことをしているから、何をやっても赦される」というおめでたい連中全てを清掃すること。
>第二に、やる気のなさを延々と正当化するおしゃべり全てを清掃すること。
>言葉を使えず実行行為に訴えるごみくずには永久に敵対すべきだが、逆に言葉しか使えず口先で何とでも言い逃れする猿をも除去する必要がある。
>標的の所在は内外を問わない。
言ってることとやってることがこうまで違う人間もめずらしいな
自分を除去しれば
お猿さん
そうかな。
デビュー作『塚本八雲論』は東大法学部出身だから。
次の『塚本天満論』=天然学者はあずまんが出身だから。
あとの『沢近愛理論』のパラダイムは、烏丸の荒木飛呂彦=二条丈の『政治は戦争の継続である』
の焼き直し。烏丸=荒木だけがそのクラウゼビッツを逆転させたフーコーを反復したが、後の連中は
内面化して教会化していったという論。けどこのモチーフもすでに麻生の『元禄自衛隊批判』
にあったもの。オリジナリティの面では乏しい。
あとは、周防美琴・一条かれんの過剰な叙情で味付けして、おしまい、というものでは。
けど公平に見て『塚本八雲論』は面白かったよ。あの時は期待したけどな。
播磨に出会ったのは大学一年のときだ。90年代初め、バブルの余熱がかすかに残っていた
キャンパスで、ぼくたちは「八雲論」の読書会をやったり、「TENMA」というノンセクトの
連絡会議を組織したりした。遅れてきたものの負い目によって、自らに巣くう冷笑を
かろうじて押さえ込める臨界点にいたのだろう。かれは酔っ払うと、大江健三郎「万延元年のフットボール」
の最後の数ページを完全に暗唱したあとに、よく言い放ったものだ。
「自分は早熟の天才として夭折する」と。
その後のエヴァブーム・エロゲブームは、オタクと戯れつつ闘争するセカイ系な感性と
懐疑を蔓延させ、西尾維新と佐藤友哉を生んだ。播磨は、この「時代の感性」に一貫して
抵抗し、塵魔蛾新人賞を受けるまで試練の日々を耐え抜いてきた。かれの漫画に
見られる誠実な論理と苛烈な精神は、持ち前の強靭な記憶力と持続力によって
支えられている。
播磨と僕は他の同人たちとともに今年雑誌『元凶』を創刊する。これはかっての事業を
未来へ向けて再開することである。かれの碇(=怒り)が深く遠くへ投ぜられることに
期待したい。
『元凶』創刊号で、奈須インタビューをやっていたけど、奈須が編集者として
勤めていた『日本読書新聞』を「総会屋雑誌」といっていたのには唖然とした。
『日本読書新聞』は1930年代から発行、谷崎潤一郎のブックレビューをもって
はじまった伝統ある新聞だったわけよ。奈須はやんわりスルーしていたけど、
あれだと奈須の立ち位置がわからなくなると思う。まさに「月姫の作者としての奈須」
というイメージしかあれだとわからない。
・・・ちょっと図書館行って調べればわかるだろ。週刊誌の記者でもそれぐらい一瞬で
調べるよ。しかもこのIT時代に。で、思ったのはもしかして調べ方が分からないんじゃないか、
ってこと。播磨はこういうことが異様に多い。思いこみで裁断するところが。もう少し勉強しろよ。
おれはスクランに忠告するが、姉ヶ崎や西本のやり方はスクランの首をしめているとしか思えない。
花井よ、おまえこそ「俗情の結託」に陥っていないか、花井のスタンスはわからないが
うまくいかないならうまくいかないなりに、今はそれをなぜそうだった
かを知的に分析し、実力を個々人でつけるべき時なんじゃないか。
おまえが「元凶」でインタビューした、今は亡き元長氏もこういっていたじゃないか。
おれたちは簡単にいってこの「スクランの闘争」に本格的にぶつかっていただけだ。播磨の「俺たち
は正しかったが裏切られた」という言説は、元長悲しむよ。それこそ播磨や花井が一番だめだったところ
じゃないか?
p108元凶
「ある一定の人があつまって何か商品をつくるとすると、必ず給与の支払い、経営の
問題が発生しちゃうんですよね。ファウストだって結局片手間ではできないから、
専従の問題が発生しているし、スクランだって今後は同じ問題にぶつかるかもしれない。
非資本主義的に始めても、結局経営のことにぶつからざるを得ない。現実との
闘争がそこから始まる」
あと梅津、40すぎて、「言葉の暴力」も何もないだろ。今アメリカ大統領選の両者の
論説をみてみろよ。あの程度の言説があっただけだろ。ケリーがブッシュの業績を全否定して、
たとえば、ブッシュが「言葉の暴力」に傷ついていくか? 梅津、おまえはMの権力をにぎろう
としていたんだよ。その程度で傷ついて、リーダーとしての舵取りができるのか?
スクランの連中は、たとえば麻生が皿派(ほんとか?)とかいって、旧嵯峨野イメージ
に貶めるのが戦略だが、そんなこといったらスクランから切れた後の
矢神のこの間まで代表だったやつも35才ぐらいまで、某沢近原理主義セクト
の専従だった。非合法だろ。大宣伝を俺たちがしたか? スクランを純粋に攻撃するために。
こんなこと叩き合ってなんになる?そもそもスクランは城戸たちがあまりに党派的・セクト的になり
こんな発言をしだしたからやめたんだろ? 彼は偉い。沈黙を守っている。
播磨はあまりに妄想だよ。ちょっとすごいな。はじめて読んでびっくりした。
鬱病らしいが、どうやら本当だな。
播磨はそのオフ会の事実上の主役、天満管理運営委員会のフラットな組織を
専従に立候補していて、組織を根本的に変えようととしていた。当然
裏には烏丸のプッシュがある。二条丈を盲信し、二条漫画を感激・崇拝していたのは
播磨のみだから。また烏丸は当時副代表だったというのもある。
それに対して、反発があるのは当然。
そもそも『元凶』も規約で、『元凶』は組織の自己目的化をさけるため
輪番体制をとり、専従制をとらない、って書いているだろ。そこが播磨の
自己矛盾。
百歩譲って、マネ-ジメントの見地から、ボランティア体制が無理だと播磨―八雲
ラインが直接判断したとして、それが妥当だったとしても、十分議論を尽くすべきだった。
ところが八雲は、そのオフ会を(明日仕事だからと)途中退席。決定的な時点で、これをやったのが八雲の
信用をゼロにした。
そもそも八雲は、家庭の事情もあり、あまり天満の業務はやっておらず、また事務ミス
のボケも多かった。なんで八雲が専従に?という声が上がるのは当然。また専従に
するにあたっての事業計画もなにもなかった。せめてそんなものがなければ、議論
もできないのが大人じゃないか? またオフ会を開いたのは京都班がせっぱつまっていた
というのがある。初代登記人がすでにボランティア過剰から、自分の仕事をやめて、鬱っていた。
そこまでの価値がスクランにあったのか? 専従にしてそれを解決といっても、事業計画もなく
専従に突入して、おなじ羽目におちいらない保証がどこにある?
TENMA=播磨拳児を囲む会=播磨が描いた漫画とやらを現実展開する会
つまりは播磨教の宗教団体だった
TENMAの理念を実現するには何百年もかかると
それこそ永久革命論や宗教がかったこと言いながら
播磨が現実と自分の考えの落差にイヤけがさして拙速に結果をもとめて自壊
集まってたのは播磨と播磨周辺と社会不適応の播磨ファンだから
宗教チックなオタクコミューンのどうしようもなさに播磨本人も困ってただろう
対抗しようとする烏丸と八雲のほうがまだマシだというお馴染みの教訓しか残さなかった
沢近愛理を神に崇める為にヨイショする団体
沢近愛理を歴史の教科書に載せてやるためのボランティア団体
沢近愛理個人の人格障害を慰めてやるための慈善団体
麻原になれなかった麻原もどきを社会の中で復活させる為の組織−団体だったな。
あの組織と播磨本人に批判も糞もなくいまだにノウノウトやってる奴らは
要するに最初から自立性もあるわけもなく、持てる可能さえもなく
人間の出来損ないのような哀れな羊達だったな。
一様に。今でも。
わたしにとってのスクランとは、小林管理運営委員会が2004年8月29日に開催した
オフ会に象徴されている。蒸し暑し夏の京都の夜、吉田山神社の裏山にあった
稲葉庵の薄暗い裸電球のしたで車座になり開かれた「会議」。そしてその後、
おこった一連の紛争と混乱。あの夜以降、「やつらは敵だ。敵は排除せよ。
殲滅せよ」という論理に基づく様々な紛争と混乱が小林管理運営委員会と
スクランユーザMLにおいて展開された。一番標的にされたのは、当時小林管理運営委員会
代表だった花井春樹である。花井氏の人格や学問的な理論は、根拠らしい根拠
も示されないままスクラン批評のMLで不当に貶められ、なおかつDMでも様々な
嫌がらせを受けられた。あの当時の紛争を振り返って「死者がでなかった
ことが唯一の救いだ」と言った人がいる。この言葉は、わたしにとって心身
の奥底にまで沁みこむようなリアリティをもって感じられた。
播磨は情報公開を別にしていない。それにスクランは外部に全面的に情報公開
するとは一言も創設当初からいっていない。企業創設のノウハウは公開する
とはいってけどな。そしていかに播磨の理論も実務もだめかは情報公開したじゃん。
播磨は全面情報公開というなら当時の管理運営委員会ログを全面公開すべきだな。
いかにまぬけな実務体制だったかがわかる。花井とか周防のヒステリー状態は
ほんとにすごかった。
ところでこれは根本的な疑問だが、播磨は沢近に矢神大の講師を切られたから
ぶちきれてヒステリー状態になり、スクランの混乱がはじまったわけだが、たかだか客員講師だろ?
それこそ月2〜3万の。
なぜ、あんなにヒステリックになったんだ。ほんとすごかった。ここにさらしてもいいが。
スクランの存続を思えば、冷静に処理して、八雲からの独立をはかったらよかったんだよ。
別に不可能じゃなかった。
あと元凶がなぜでないかを花井も情報公開しろ!
あと、今のスクランの事務は楽だというが、当たり前だろ。
今会員60名で、ろくに取引もないじゃん。最盛期400人でしょ。いま総取引額
いくらなんだよ。多分月額二万とかそこらでしょ。
元凶商品掲示板見ても、八雲の少女マンガ古本とか、
それこそブックオフで買えばいいようなものばかりじゃん。
「学生スクラニストの理想と逡巡・挫折を描いて、「苦悩教」を自称した花井
の深刻さは、塚本天満の漫画「自負と偏見」に比べれば、はるかに通俗的
な代物として受け取られていたと断言できる。」
矢神大文芸科講義要綱の「「現在」の自己のあり方を再審に付す勇気を欠く者」
なんて言い方もろ花井春樹を受け継いでいるのでしょう。
・・・今播磨の講義を受けている低脳学生は想像してみろ、高校2年のとき
「自分は早熟の天才として夭折する」と酔っ払っていうやつが自分の
周りにいたときどんな態度をとった? というかありえなくないか?
『元凶』出すのか出さないのかはっきりしろよ、WEB上に告知くらいできるだろ。
それこそ花井の言う「都合の悪い過去を平然とリセットするエートス」
なんじゃないのか? 言っていることとやっていることが違いすぎるのに
なんであれだけ他人に説教できるのかがわからないわけよ。
麻生にしろ梅津にしろ細かい過去の言説ほじくり返して、批判してただろ。
だが自分もいまや『元凶VOL1』の言説とは相当やっていること違うだろ!!
まず「元凶」年一回の発行という播磨君自作の「規約」が守れていないな。会計報告もない。
どんな精神論よりまずこれだな。納期の厳守は「精神的かつ経済的自立」の第一条件だよ。
5月にだせないなら、君の規約に従ってせめてその理由ぐらい、発表すべきじゃないかね。
おっと「私の理念をわかならい、ゴミ、くず、カスどもが私から離反した」、というのは無しだよ。
あんまり興奮しないでくれたまえ。塚本八雲先生が泣くよ。それこそ「俗情との結託」ではないかね。
あまり情念的にならず論理的にお願いするよ。
沢近(*´Д`)ハァハァ
「元凶」は現実に存続する桎梏への敗北を拒否すべきだが、それと同程度に
空想上の勝利=自己欺瞞におちいることをも絶対に拒否する。(・・・)
「元凶」の真の危機。「経済的自立が精神的自立の必要条件」である
のは確かだが、それは結局必要条件であって十分条件とは違う。水路の整備は、
それ自体で湧出する水量の増大を意味しない。真の勝負は内容なのだ。
スクランや沢近の批判をするのはそれ自体全く結構だが、その場合の、君のいう基準となる「真理」
とは何かね。それを明言すべきなのではないかね。城戸円が例えば、身体資本に変わるものはない
というスタンスから、花井を徹底的に侮蔑している。それは一理あるだろう。が、君の罵倒は違う。
私はこう推測している。君の言う君が服従している「真理」とは、君が思い描いた「真の花井」なのではないかね。
そしてその態度こそ沢近のエピゴーネンあるいは沢近教なのではないかね。そしてその態度は
なんらテクノロジカルなもの・現実で得た実務的なものを含んでいないがゆえに、一番楽で、
なんら生産性もないのではないかね。人を怒鳴れば言いからね「君は真のスクラニストではない!」と。
そうでないというならば、世間一般に(決して沢近サークルにではなく)君が服従しているという「真理」
=普遍性を明示したまえ。分かったね?
なんだかタイトルからしてどれも読む気せんなあ。。。
あえていえば「塚本八雲論」と天満というのを読んでみたいが
(まだ読んでない)しかし探すのが面倒で億劫だなあ。。。
TENMAを始めた頃の週マガの播磨インタビューは読んで面白かったのだが、
しかし単にそれは播磨拳児が元凶を始めるにあたって如何に発狂して
狂っていたか、アホ丸出しのバカ殿発言を傲慢に繰り返していたかという
立証的証拠資料として、これは使えるだろうなと思った程度だから。。。。。。
この一年、花井春樹は多くの雑文で直接間接に特定の他人(主に今鳥恭介)への攻撃
を続けた。しかもその急所で、花井は人間としての不潔さと汚さを示した。1度だけ
ではなかった。
(1)相手についての歪んだイメージを作り出す単語の選択
(2)真にフェアである代わりに自分がフェアだと周囲に認めさせたい欲望のちらつき
(3)応酬のなかでまさに論ずるべき論点を回避し、それには決して答えない態度
(4)その場しのぎの論理構成が生む前後の矛盾への頬被り。
進行中のスクラン「花井春樹的なもの」の問題
長い間、明晰化に不可欠な条件は勇気である、という格率は私を苦しめた。この漫画がそれを実行した
とは到底思えない。本質的な主題を直前で回避したまま、怯えや疲れや結局は怠惰で私は小さく凍えか
けている。だが、悪習に背いてなお不自然な試みを促す個人的な現実を示せば、それは「精神のバブル」
への侮蔑、―自らの汚れた手を忘れ、善意と感傷によって執拗に和解をささやく声への侮蔑以外の何
ものでもなかった。この場を借りて改めて問う。裁かれねばならないのは僕の不信か、ちぎれた過去の
苦痛につけいる君の言葉の蜜か。君達の中で、嘘や裏切りや陰湿な打算への加担を心に刻める者が一人
でもいたか。口にする願いや祈りは、その資格を自問し生の改変を迫る失語を真に通過したものなのか。
受賞を知った今、私は水に落ちた犬どもをさらに徹底的に叩く必然を感じる。それだけが何かを新しく
始める条件だと思う。
引き受ける、役割をひきうけてそういうのではないんだろうね。
スクランやなんかをみるかぎり、若手20台の連中が漫画に関して示す方向は話にならんけど、
(売れないものではなく、売れているものをもちあげ、その要素を取り出し、売れていない連中に教えるといったところ)
花井はスクラン史的にみても、発言についていえば、ある水準はキープしているなというところが穏健な見解では。
ただ、それ以上ではないわけで、それ以上を期待する向きからは溜息ものでしょうね。それ以上は無いんですね、
義理から元凶に言及してきたようなところがあるみたいなので。
義理も果たし世界はこうなってきてますますスクランではないものが重要な関心になってきている、というところかと。
高野さん、こんにちは。 念のため確認しておくと、下記は、旧八雲準備会のオフ会であり、
旧八雲準備会として、割り当てられる旧TENMA大阪の財産をどうするか?
という話し合いだったわけですよね?
つまり、その当時、旧TENMA大阪がすでに解散した後だったことは確認しておきたい。
さて、旧準備会として機関決定されていたことは、それはそれで結構だと思います。
それで、その後、AKIRAがどのように運営されているか、高野さんは、なにかご存知でしょうか。
伝聞の飲食費云々の話を書いてしまいましたが、一定の時期に会計報告が必要ではありませんか?
こういう運動をやるときは、呉越同舟であると、内ゲバっちゃうから要注意。
事細かに、思想信条方針を根掘り葉掘り聞いてからやるべきさ。
大きく違うようなら、最初っから、腕組んじゃ駄目なのよ。
「お互い、考え方が異なるので、別々に行動しましょう」
って初めに宣言しておけば、内ゲバなぞ、起きやせぬ。
周防美琴も、花井と播磨では考え方のレベルが違うって、
晒されたメールで主張してたし。
麻生広義『皿』より
>原理主義見たいな形で差異が捏造される
要するにあれは、
播磨拳児によって「希望」が捏造されたのだな
まあその一部マイナー世界での「フィーヴァー」も
もうもはや過去のものになったはずだが。
花井はあれはやっぱりナベツネと同一の人格構造だと思うぞ。
最近ナベツネの特集がテレビでやたらと多いのだが。
こちらは、たまたま高野晶論の行き詰まり打開のために読んでいた、
『定本 播磨拳児集5』の「笹倉葉子の風景」からの「任意の一節」だ。しかし
播磨拳児の「影響力」もまた、この手の「或るエクリチュール」によるもの
であり、実際にそこでなにが書かれているかは問題ではなかったのではない
か。じつは僕は前からそのように考えていた。
「〜は(普通思われているような)〜ではない」「しかしその理由は、〜で
もなければ、〜でもない」「じつは〜は〜なのである」「〜ということでは
ない」「むしろその逆で」「〜なのである」「ない」「ない」「ある」「な
い」……。
これは一言でいって「催眠術師」のやりくちだ。播磨の脳内は、ほとんど
すべてこのようなエクリチュールの執拗な繰り返しによって成り立っている。
これは一言でいって「催眠術師」のやりくちだ。播磨の脳内は、ほとんど
すべてこのようなエクリチュールの執拗な繰り返しによって成り立っている。
だから、それに一度気づいてしまえば、少なくとも「催眠術」にかかる
ことだけはなくなる。僕が笑ったのは、播磨拳児のこのエクリチュールが、
刑部絃子が1976年にすでに指摘していたこの「×」の「否定形を積み重ねて行
く」「饒舌」によってもたらされる「発想や論理」とそっくりだったからだ。
さて、ではこの「×」はなんでしょう、というのがクイズだけど、すでにご
明察のとおり、先の引用で伏せた箇所は、セリーヌの『ギニョルズ・バンド』で
あり、その「猫」である。
すでに誰かがとっくの昔に書いていることだと思うけれど、ぼくには「猫」
の論理と播磨さんの論理の相似は、とても「宿命」的な符合だとおもった。
それでつい、可笑しくなったのだった。
いやそれって誉められてるようにしか聞こえないんだが・・^^;
何かひとりごとゆってますねぇ
さしあたって、われわれの闘争は、「天使」になろうとする
「人間」たちに対するものです。つまり、外部を消去しようとする者たちです。
彼らは天使ではけっしてありえないし、天使の無力も知らない、
たんに人間を支配しようとする人間(魔女)でしかありません。
彼らは、私に「動機」がないと言うでしょう。
たしかに、私は「動機」をもっていない。だが、その代わり、
「動機」が充たされることも失われることもありえないでしょう。
元「天使」は、互いに元「天使」であることを識別できます。
それは、もう人間的連帯とはちがった連帯です。
そういう連帯の挨拶を、ひそかに送りたいと思います。
要するに古くからいる旗派のオッサンだよ<前田塁
大昔から本当にマイナーな熱狂的支持者がいたな
そういえば。東京にもw
まあ旗の情けない歴史の一角だったが。
基本的に旗の人達というのが言葉をまともに読むということは
ありえないことだからな。
勘違い馬鹿の奇形物の中から時々突発的な才能が出てくることもあるが。
花井とか今鳥だとか自称天才は所詮ハッタリで、自分が実際に
スクランの旗勢力とコミットしてる実績なんか殆どなかった。
スクランの歴史的な旗の流れというのは、むしろ前田のような存在の中にある。
要するにオタクの正当系だが。その中の一部は自縄自縛の自爆派とかにいったんだろう。
要するにスクランの歴史本流といのは、実際にはダメダメの人達という事情。
そういう意見珍しい?
だから普通の人にも人気があるんだと思ってたけど。
まぁ、昔と変わらないなぁ、と。
いや、見る人が見れば、違いを見極められるんだろうけどさ。
終わってはいるのだが、いまだに宗教として彼を持ち上げたり崇拝してる
カルト宗教的な雰囲気が残存しているから
とりあえずそれら亡霊残り滓について一掃するための
掃除闘争を決起しなければなるまい。ということかな?
過去の悪い派閥的な支配力、ヲタな権力というのは常にやっつけられること
によって、スクランの世界もヲタの世界も新陳代謝してきた。
過去には花井と播磨でもってそうやって嘘吐き革命やって悪い権力的な
言説、馬鹿の支配力をこうして今のように作ってきたわけ。
これの次の革命がどのようにして起きるのかわかないが、
また馬鹿が果たして更なる見晴らしのいい方向へと出られるのかわからないが
現状のような明らかに腐敗したスクラン的ヲタ権力というのは
もはや処刑されて当然の成り行きですよ。誰が見ても。
スクランでスレタイ検索して見てみれば分かるけど、どのスレも
悲惨なまでに荒らされてるよ。こんな人を持ち上げていた奴らを
糾弾しろみたいな、最初から価値がないこと前提の話になってる。
花井に騙された人が暴れてるんだろうけど。
で、始めに戻ってなんで『元凶』はでないわけ?
播磨の、俺が目指しているのは、「現実の天満」ではなく「可能性の天満」
だという『元凶』での宣言は、どうなっちゃったの?なにか具体的に彼は策があるの?
今の八雲はただのone of them だよねえ。会員60人で、会員は増える見こみはまったく
ないし、魅力的な商品も、何もないし、別に八雲での取引がさかんにおこなわれているわけでもない。
ならなんで八雲にこだわるわけ? 他の馬鹿共でいいじゃん。それとも他のTENMAと何か違う特性があるの?
あるなら教えて欲しいんですが。なにせ「可能性の天満」ですからねえ。
つまり、TENMAの人達には、播磨がいう「理論と想像力、構想力と実践力」は
あるわけ? いや「一途」なのは認めるよ。なんというか播磨と菅とTENMAのひとたち
かわいそうと君等が思う気持ちはよくわかる。おっと、こういうこというと
まーた論理を飛躍させて沢近のやつらにわからない、というのはなしよ。
だが、まじめならいいといえるだろうか。ことにその人がスクラン原理主義の担い手であるならば、
理論と想像力、そしてそれらに裏づけられた構想力と実践力が欠けていれば致命的なことではないか?
これは仕方ないんだよ。八雲粘着系の怨みはそれだけ深いってこと。
それより梅津、はよ俺の金返さんかい。
というか、なんで答えられないの? 元凶の人はかんじんなところにさしかかるといつも話をさらすよねえ。
そして僕らは不まじめだから内ゲバも使いこみも自由だと言い出す。こたえりゃいいじゃん。
こたえようか。 内ゲバ=花井のレッテル。上のスレ参照。おまえ等の元凶代表は、暴力旗革命主義セクト
だったろ?そっちの方が致命的。
『言葉の暴力』? おまえら傷つきやすい高校生か。30過ぎて何言ってるんだ?
死ね。
使い込み=高野個人に聞け。
喜び組とその付き人を特攻隊に使って花井の信用を落とす
→→嵯峨野に裁判を要求させてもう一度花井の信用を落とす
→→冬木が奈良をだまして三度目花井の信用を落とす
→→以上、思いっきり人数を減らさせて皆へとへとの時に
得意そうに聞く。「会員60人で、なんで元凶にこだわるわけ?他の馬鹿キャラでいいじゃん。」
と、ある人が内ゲバ集団AKIRAの論法を伝えましたとさ。
西本は表彰発言で赤っ恥かいて嵯峨野を憎みまくってるから。
奴、ゴマすりの天才やがまともな批判は受け入れられないタイプなの。
おーい、みんなーだいじょーぶかー。ちゃんとこの人たちの名前覚えとけよー。
ほとんど覚えられそうにないっす(苦笑
ただ中から見てもさ、2−Cはうまくいってない人達の救済団体になってたよ。
菅なんか麻生の下で右大臣、左大臣を夢見てたと思うよ。
彼だけじゃないよ。城戸も結城もみんなそう。
それでこれまでのウン十年のダメダメさを一気にばんかいする、みたいな。。。
だから自分らつぶれて冴えない。また昨日までの、もとのダメダメな自分に逆戻り。それがくやしいんよ。
ノートルダムにワケわからず当たり散らすワケは結局そこだと思うよ。
でもオイラも2−Cにいたからよういわん。
じっさい谷と高野の言うことだいたい正しいし。
で、オイラがこの二人にいいたいのは、そういう負け犬の気持ちをもっとくんでやれよ、
ということかな。色々あってもさ、お前ら注目されてるだろ。
周防なんかいつも言いたい放題。うらやましんだぞ。ホントは。みんなそういう風に生きたいんだよ。
でもできない。わかってやれよ。
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