54 :
観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :
死刑制度に関するよくある勘違い
その1「死刑には抑止力がある」
刑罰の抑止効果は「比較的正常な判断が可能な犯罪」において認められるが、正常な判断ができない精神異常・錯乱・深い思い込み・洗脳状態で為される殺人等の重罪について同じ有効性を当て嵌めるのは、拡大解釈による錯誤である
「死刑が有る方が思い止まる確率が高まる」という見解は、以下に示すとおり「遵法精神に溢れ死を恐れる一般人の自己投影」「犯罪心理学に疎い無知で善良な市民が抱く希望的観測」「気が触れる程の強烈な殺意体験のない幸福者による楽観主義的錯覚」に過ぎない
怨恨による発作的衝動的な殺害の瞬間は、猛烈な快感に我を忘れ死刑はおろか逮捕すら頭にない。恐怖を回避する場合も、目の前にある恐怖に比べたら死刑など脳裏を掠めもしない
突発的なケースでは概して発想が偏狭で近視眼的になるので、己の死刑の可能性を考え始めるのは専ら殺害後、事件発覚を知った後、若しくは逮捕後である
本当に死刑に怯え始めるのは早くても殺害直後。まだ事を起こしてもいないうちから真剣に「死刑が怖い」と戦く者はいない
「犯行前に本気で死刑を恐れない」ということは、抑止にならないということである。尤も、事前に心底から恐怖するだけの豊かな感性と想像力があれば、元より殺人を余儀なくされるほどの視野狭窄に陥ることもなかろう
計画的なケースでも「バレないor逃げ遂せるor証拠ないから不起訴・無罪or有罪でも酌量され死刑はないor死刑上等」と思い込んでいる場合は、「死刑の」抑止力は働かない
「死刑だけは避けたい」という思惑が、同じ自己保身の「発覚だけは」「逮捕だけは」より優先されるとも考えにくい
何故なら「少なくともバレなければ絶対死刑にならない」ので、考慮するのは発覚防止のみでよいからである(実際、犯罪者はこうした「楽で都合のいい解釈」が大好きである)
「バレない」「逮捕されない」と思い込めば「死刑になるかも」まで考えが至らず(仮に至っても中途半端)、逆に途中で「バレるかも」「逃げ切れる自信がない」等と思い止まったなら、抑止しているのは死刑ではなく「警察権力」である
従来の未成年や廃止後に見られるであろう「死刑が(になら)ないから殺害した」という主張は、「真の動機を誤魔化す為の口実、奇を衒った虚勢、歪んだ自己顕示欲の現れ」のいずれかである
殺人の動機・目的には怨恨や物欲・性欲、恐怖・不安回避など様々な背景・要因があり、それらを差し置いて「死刑制度の不存在」が殺害動機になることはない(逆に「死刑制度の存在」を動機にした拡大自殺は実在する)
「死刑がなければいつ人を殺すか分からない」「死刑がなかったら殺すのに」「こんな奴殺して自分が死刑になるなんて馬鹿らしい」等は、己の遵法精神の高さや憎しみの強さを強調・形容・アピール・認識するための虚勢・欺瞞の域を出ない
本当に恐怖しているのは「相手の抵抗、逮捕、殺人行為そのもの」等なのだが、自尊心がそれを隠すのである
殴り殺す最中ふと我に返り「これ以上やったら死刑になるかもと思い止まった」としても、その抑止の原因は「己を客観視できる程度にまで冷静さを取り戻したこと」「相手の死を畏怖したこと」であって、「死刑制度があること」ではない
本当に「逮捕・懲役は覚悟しているが死刑だけは避けたい」「相手の死ではなく己の死刑が怖い」なら、犯行後自ら救急車と警察を呼び自首して捜査に全面協力し裁判所では終始頭を垂れていれば死刑になる可能性はまずない
そうしないという事は、実際には死刑以外の事柄(逮捕、世間体、殺人行為そのもの等)を恐怖しているか、さもなくば「さほど切迫した殺意ではない」ということである
つまり「死刑」とは分かりやすい象徴・大義名分に過ぎず、殺害を止める真の理由は「必ず」別に存在する(「金が欲しくて強盗」の弁明が、真に欲しいのは金そのものではなく「金で買える食料・高級ブランド、借金苦からの解放等」なのと同じ)
続く
55 :
観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/01/30(土) 17:05:18 ID:Awno4ojE0
勿論上述は、殺人を図る者が少なくとも「必ずしも死刑になるとは限らない」という現状を認知している、という前提の上に成り立つ
もし「殺人したら必ず捕まり必ず死刑になる」と教え込まれそれを微塵も疑っていない世間知らずで純粋な余り賢くない者が実在し(要証明)、彼が「死刑になりたくない」という理由だけで殺人を止めた(要証明)なら、彼に対して抑止力が働いたと言えるだろう
ところが彼ほどの単純馬鹿なら、代わりに「殺人したら必ず一生刑務所暮らしになる」(その他本人が嫌がる条件。嘘でも可)と教え込んだとしても、何ら変わらない抑止効果が認められるのである(尤も、殺人するよう洗脳されやすいのもこのタイプだが)
実際に殺人を思い止まるのは「死刑になるかも」のような不確かな基準ではなく、次のような理由からである
@良心が痛む、人としてやってはいけない、周囲に迷惑を掛ける、世間体が、マスコミで取り沙汰されるのは恥、殺害せずとも問題解決の手はある筈、時間と共に冷静になった、まだ我慢できる、人生まだやり直せる、逮捕されたくない、殺人は不快、反吐が出る、e.t.c.
これらは裏を返せば
A良心?ナニソレ、一度でいいから人を殺したい、周囲に迷惑を掛けているのは寧ろ相手、世間体?糞食らえ、ワイドショーで騒がれたい、最早殺す以外に手はない、時間と共に憎悪が募る、もう我慢できない、どうにでもなれ、逮捕されたい、殺人は快楽、興奮する、e.t.c.
死刑の抑止力を証明するには、本心からAを肯定し@を否定している殺人計画者が「やっぱり死刑はイヤ」という理由だけで思い留まった実例や、「死刑の不存在が凶悪犯罪起因の十分条件になる論拠」を一つ提示すればよい
現実には、その科学的根拠がないことに気付き始めた国や地域が、次々と廃止しているのである
アメリカでは存置州より廃止州の方が殺人発生率が低い。廃止州データにワシントンD.C.の異常値を含めない場合、存廃州の数値差は更に広がる
http://www.deathpenaltyinfo.org/deterrence-states-without-death-penalty-have-had-consistently-lower-murder-rates その2「日本は死刑制度があるお陰で平和で安全」「社会秩序を保つ為に死刑は必要」
「日本は九条があるお陰で平和」と同類の空論。日本の平和は日本人の持つ寛容さや謙虚さがその原因である
死刑にはそれを回避するための逃亡や完全犯罪の策略、目撃者の口封じや拡大自殺を誘発する効果があり、秩序どころか犯罪の陰湿化隠蔽化(捜査の長期化)と凶悪化を招く
犯罪件数は社会的状況その他種々の情勢・要因に拠って増減する。例えば刑務所内の生活をホームレスよりも優遇すれば、刑務所入りたさに犯罪する者が増えるのは自明。統計を読むときはその裏にある因果やデータ要素の定義等を正しく見極めることが肝要である
その3「廃止すれば、三食屋根付き医療費無料の刑務所に入る為に殺人をする者が現れる」
越冬や堕胎を目的とした常習犯は実在するが、刑務所に入るには窃盗等軽犯罪で十分である。医療費無料も生活保護を受ければ実現可能であり、入所の為だけにわざわざ危険を冒して殺人する者はいない
本人の意思に反して無理矢理出所させる制度でない限り、「何度も窃盗する手間を省く為の殺人」もあり得ない
その4「死刑を廃止すれば憎悪を募らせた遺族による復讐・私刑執行者が増える」
その執行者を捕らえるまでである。「思い通りに加害者が死刑にならないのなら自ら手を下す」という発想は殺人犯と何ら変わらない事に気付くべきである
また既に殺人犯の殆どが死刑にならない現状にあっては、殆ど杞憂。遺族側の被害感情に十分配慮した裁判を行うことで対応可能である
その5「死刑にしなければいつ再犯するか分からない」「死刑にすれば100%再犯することはない」
分からないなら安易に釈放しないように制度を改めればよい。死刑が再犯防止の唯一策ではない。また、死刑にすれば「悔い改め更生すること」「生きて償うこと」も100%できなくなる。この手の主張は未然防止策に対する怠慢の表れに過ぎない
その6「犯人が死刑されてやっと前向きに生きられる人もいる」「遺族が犯人を死刑にしたがるのは自然な感情」
憎い相手の死を願うのは殺人犯の異常心理にも通じており、同情こそすれ肯定はできない。憎しみは自然であっても必然ではなく、死刑にしたがらない/生きて償って欲しいと願う遺族もいる
対話を重ねることで囚人が更生し遺族共々心のケアを図れたケースもあり、死刑はその可能性を奪うことにもなる
続く
56 :
観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/01/30(土) 17:05:59 ID:Awno4ojE0
その7「死ぬまで凶悪犯の面倒を見るのは税金の無駄」「死刑に処するのが国家の責任」
寧ろ更生するか死ぬまで凶悪犯の面倒を見るのが、国家の責任である。死刑は、凶悪事件を未然防止できなかった国家による「臭いモノに蓋」式の責任逃れに他ならない
凶悪犯はある意味、殺人を犯さなければならないほどの不幸を背負い込み精神を病んだ哀れな被害者である。犯行に至るほどの状況に陥る前にこの一次被害者を救えていれば、二次被害者は生じない
いじめと同じで、一次被害者を救わず二次被害者のみを救おうとするのは偽善的自己満足に過ぎない
その8「更生の余地がない以上生かしても無駄」
更生の余地の有無は他人はおろか本人でさえ判断できるものではなく、いつ何時何をきっかけに改心し始めるかは誰にも分からない(分かるというのは傲慢)
可能性が0でない限りあらゆる手段を講じて更生を促しその結果を後世に伝えるべきであり、もし現代医学では手の施しようのない先天的な脳障害等があれば、尚更その治療法対処法を確立する為の研究に活用すべきである
その9「命には命を以て償うべき」「社会正義は命より優先されるべき」
「死が償いになる」という価値観は死を美徳化した自己満足的発想であり、3000年前の「目には目を」同様、安直で時代錯誤な思想。「死んでお詫びを」は、責任追及され非難糾弾される屈辱・生き恥を晒す苦痛・憎い相手を殺せないジレンマ等からの現実逃避に他ならない
何より正義(相対的主観)を人命(絶対的客観)より優先するということは、テロリズムを肯定するということである。そのような発想をする者が多い社会では、当然の帰着としてその反映としてテロ即ち犯罪が止まない
その10「死刑には生命の尊厳に対する教育的効果がある」
死刑制度を持つ国家は「理由があれば殺人も正当化される」という排他主義思想を容認し、自らそれを実践していると言える。「理由があれば殺人OK」は殺人犯やテロリストとも共通する考えであり、人命を尊んでいるとは到底言い難い
「都合の悪い存在を抹殺したがる国家/国民」はその反映として「都合の悪い存在を抹殺したがる犯罪者」を生む。国家が率先して自国民に対し「如何なる理由があろうと人命を奪う権利はない」と規範を示してこそ、教育的効果が図れる
その11「冤罪は死刑でなくても起こる。取り返しがつかないのは命だけではなく時間も同じ」
間違いではないが、「冤罪をなくそう」という議論にはなっても死刑制度を存置する理由にはならない
そもそも「時間はあればまだやり直しが利くが、命は無くなれば二度とやり直しが利かない」のは子供でも分かる理屈。「命あってこその時間」であり、時間と命を同列に扱うのは無理がある
その12「万一私が貴方を殺してもあなた方は私を殺すな、という廃止論の理屈は理不尽」
既に業務上過失致死等で法制化されている通り、誰もが等しくその条件下にあれば何ら理不尽ではない。この主張はまた、殺人犯の極一握りしか死刑に処せられない現実にもそぐわない
その13「廃止論者は、家族が殺されたら簡単に存置論に寝返る」
それは似非廃止論者。喩え愛する家族を八つ裂きにされても、そんな蛮行に及ばざるを得なかった加害者の生い立ちや境遇を思いやるのが、真の廃止論者である(これは目の前の蛮行を止めないということではない。罪を犯させないようすることが加害者の為)
その14「廃止論者は、自身が死刑になりたくないから廃止を主張している犯罪予備軍」
それも似非。実際にはこのような「楽で都合のいい解釈」を好む者の中にこそ、犯罪予備軍は多くいる(人は鏡)
その15「廃止論は偽善」「廃止論は宗教」「廃止論者はキチガイ」
真の廃止論は合目的的合理主義であってそもそも善悪で判断しないので、「偽善」はあり得ない。寧ろ被害者のみの立場に立って殺人犯を非難する行為こそ、「こんなにも加害者に憤怒して被害者を庇う私っていい人」アピールであり、偽善である
殺人犯に対し「なんて思いやりのない奴だ」と批判する者は、その批判を「殺人犯を思いやれてない己」に向けるべきである(人は鏡)
既述のとおり、存置派の主張は感情論に終始し得てして矛盾が多い。論理的整合性が無いにも関わらず「それでも抑止力はある」「存置すべき」と思い込むのは現実逃避であり、最早一種の宗教である(存置論ではなく存置教)
そしてそんな存置教信者ほど、「廃止論は宗教」と言いたがる(これまた人は鏡)
その16「国による合法殺人を禁止すべきなら、国による合法拉致・合法監禁も禁止すべきである」
典型的な拡大解釈である。死刑廃止論は刑罰廃止論ではない。犯罪に対して警察権力や罰則が抑止力として働く事は常識であり、無くす理由がない
続く
57 :
観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/01/30(土) 17:06:40 ID:Awno4ojE0
その17「死刑廃止国が武器を輸出するのは、一方では殺人するなといい他方では殺人を奨励しているので矛盾する」
名目上「殺害する為の武器」ではなく「自分たちの命や治安を守る為の自衛用武器」としてその需要に応じて供給していれば、何ら矛盾しない。もしその目的に適っていないとすれば、それは「武器を使う側」の問題である
その18「ドラえもんが助けてくれると思ったなどという荒唐無稽な言い逃れを述べる弁護士は、頭がおかしい」
弁護士の仕事は被告人の弁護をすることである。如何に荒唐無稽であろうとも、被告人が「そのように弁護したい」と言えばその意思を尊重するのが弁護士の仕事
「そのような主張は通用しない。裁判官の印象を悪くするだけだ」などと助言をしても尚被告人が食い下がれば、その意向を最大限に汲み取るのが弁護士の職務である
決して弁護団が勝手に創作したり被告人の言い訳を鵜呑みにしたりする訳でもなければ、頭がおかしい訳でもない
更に言えば「ドラえもん云々が虚偽か真実か」は被告人本人しか知り得ない。「今まで言わなかったのはとても信じて貰えないだろうと思い弁護士にすら黙っていたからだ」とすれば筋も通るしその可能性は本人以外誰も否定出来ない
裁判官でも被害者遺族でもない第三者が、殊更犯罪者の異常性を煽り立て関心を引きたがる週刊誌等のゴシップ記事を鵜呑みにして「偽証だ詐称だ」と断定するのは傲慢である
その19「3人も殺しているのに無罪になるのはおかしい」
「被疑者、被告人、有罪確定者、受刑者」が真犯人とは限らない。犯人が誰かは、目撃者や犯人以外誰にも分からない
無罪になったのは少なくとも合理的に疑う余地があるからであって、証拠資料等を万遍なく精査した裁判官ですら判明出来ないことを第三者が分かるというのは傲慢である
その20「死刑廃止論者や、愛する者を奪われても犯人を恨まない人は、人の心がない」
「人の心」とは、「如何に理解不能な相手であってもその存在を許すことの出来る寛容な心」である。「許し難い相手は(私刑なり死刑なりして)殺してしまえば良いという不寛容な心」は「人の心」ではない。これは殺人犯も死刑推進派も同じである
相手に「人の心」がないからと言って、己も同じように「人の心」を忘れて良い理由にはならない。己に「人の心」が欠けているからこそ、相反する相手に「人の心」がないように見えるのである(人は鏡)
殺人犯が現在「人の心」を持っていなくても、人間である以上「人の心」を取り戻す可能性は0ではない。それは「人の心」を見失っている死刑推進派もまた同じである
今の時代いつ何時何が起こるかは誰にも分からない。生き死には天命と覚悟の上で毎日を生きるべきである。愛する者や己の生への執着は、エゴの発現に過ぎない
犯人を憎まない人は「罪を憎んで人を憎まず」「人を呪わば穴二つ」「物事は全て必然。意味のないことは起こらない」の意味を理解し「己のエゴに執着せず、いつどのように命を絶たれても悔いのない生き方」を実践しているだけである
その21「これを見ても死刑に反対する者は、脳内がお花畑だ(殺人現場の動画URL)」
そもそも殺人とはそういうものである。この程度の真実すら知らずに、知った時のショックから感情的になって死刑を推進する者の方が、よほど平和ボケした脳内お花畑である(人は鏡)
存置派は、人間の綺麗な面ばかり見て表向きの平和に甘んじることなく、より多くの真実に直面する勇気を養って「人間とは何か」の造詣を深めるべきであろう
その8の補足1「三つ子の魂百まで。人は変わらない。凶悪犯罪者に更生は不可能」
三歳児は意図的に殺人できない。人の心は変わる。人の心を変える術を知らない者が諦めているだけであり、「自分を変えることすら困難な者」による自己投影に過ぎない。
続く
58 :
観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/01/30(土) 17:07:22 ID:Awno4ojE0
その13の補足1「元日弁連副会長の岡村勲氏は、妻を殺され廃止論者から存置論者に鞍替えした」
希望的憶測と「人権派弁護士=廃止論者」というステレオタイプが生んだ思い込みである。まず日弁連は「廃止論者でなければ副会長にさせない」ほど閉鎖的で人権意識の低い団体ではない(人権意識の低い人間ほどこの手の勘違いをする。人は鏡)
岡村氏は「自称・元人権派」であって元廃止論者ではない。仮に家族の犠牲を理由に転向したのが事実であっても、その13に記した通り似非である
しかも弁護士でありながら己が当事者になって初めて「被害者や遺族の悲惨さを知った」と述べており(全国犯罪被害者の会HP)、その想像力の乏しさは似非廃止論者どころか似非人権派と言わざるを得ない
つまり「最初から存置論者となるに相応しい人間が、家族を殺されて漸く一端の人権派弁護士になれた」というだけの事である(とはいえ彼の活動を支持しないものではない)
その1の補足1「死刑がなかったら私は誰々を殺す(殺した)。これは死刑に抑止力があることの証明である」
「私は法律を守る正しい人間だ」アピールに過ぎない。死刑を回避する手段は幾つもあり、仮に殺しても99%死刑にならないのが実態である。つまりこの手の発言者が本当に怖れるのは(即ち抑止になっているのは)死刑ではなく警察権力or世間体or面倒な事態である
その1の補足2「凶悪事件の被告人の殆どは死刑を回避したがる。これは死刑に抑止力があることの証明である」
警察官・刑務官・弁護士・宗教家等と接触するなどして冷静さを取り戻せば、死を恐れるようになるのは自然なことである。そもそも幾ら抑止が働いたところでそれが犯行「後」では抑止の意味がない。よって「被告人が回避したがる」は抑止力の根拠にならない
その1の補足3「拳銃を突き付けられたら殆どの犯罪者は死を恐れ犯行を止める。これは死刑に抑止力があることの証明である」
犯罪時に常に目の前に絞首台がある訳でもないので、拳銃のように死や痛みへの恐怖を直接的に連想させる力は死刑にはない。また拳銃を突き付けられるのは専ら犯罪を犯した後であり、これも抑止力の意味がない
その1の補足4「愛知女性拉致殺害事件の一人は死刑になりたくなかったから自首した。これは死刑に抑止力があることの証明である」
正確には「死刑になりたくなかったから自首した」のではなく「自首後その理由を聞かれたから、死刑になりたくなかったと答えた」のである。この事件に限らず理由を聞かれた時に最も通りやすい/それ以上警察等から追及されない言い訳が「死刑になりたくないから」である
彼はその後メディアの取材で自首した理由を「正直言って気の迷い。なんとなくの方が正しい。死刑になりたくなかったからではない」と否定しており、判決文でも自首した理由は「仲間と意見が合わず面倒になった」等とされている
実際「どうにでもなれ」「警察権力が怖い」「逃げ回るのに疲れた」「殺人行為を積み重ねるのが怖くなった」「自分を止めて欲しい」という心理が自首行動に向かわせることが知られているが、「死刑になりたくないから」が公式に認められた例はない
その1の補足5「18歳未満は死刑にならないからと犯行に及んだ者がいる。これは死刑に抑止力があることの証明である」
「18歳未満だから死刑にならない」という発言は、「自分が死刑になると知ってたら殺したか」「死刑が怖くないのか」「お前が大人なら死刑になるところだぞ」などと咎めてくる知人・警察・弁護士・裁判官・被害者遺族等に対する奇を衒った知識自慢又は虚勢に過ぎない
その本心は「愚問を発するなバ〜カ」「少年法くらい知ってますが何か」「よく考えてから物を言え」であり、言われた大人が目を丸くするのを見て一層自己顕示欲を満足させ悦に入るのが目的である
その1の補足6「仮に全ての刑罰を死刑にすれば犯罪は確実に減る。これは死刑に抑止力があることの証拠である」
前半は正しい。軽犯罪において厳罰化に抑止効果があることは自明である。しかし「軽犯罪に当て嵌まるから重犯罪にも当て嵌まる」という拡大解釈は「軽犯罪者も重犯罪者も同じ心理状態下」という非現実的な極論を前提にしているために起こる錯誤である
軽犯罪に死刑が効くのは「罰則のデメリットに対して行為のメリットが釣り合わない」「軽犯罪を企図する者が比較的正常な判断力を有する」からであって、正常な判断力を失った者は刑の軽重に関わらずバレないだろうと思い込みor死刑覚悟の上で軽犯罪する
続く
59 :
観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/01/30(土) 17:08:03 ID:Awno4ojE0
その1の補足7「公開処刑にすれば抑止力になる」
免役のない一般市民には一時的に効果があるが慣れると次第に効果がなくなり、却って「どうしようもない存在は殺してしまえ」という排他的な価値観が広まり人々の心が荒廃し凶暴性が増す
また公開処刑を見た犯罪予備軍が「あんな風に処刑したい」或いは「あんな風に処刑されたい」と連想し、新たな犯罪の引き金にもなり兼ねない
その2の補足「死刑が存置されていれば、凶悪事件は減る」「廃止されれば凶悪事件が増える」
実際には大衆の一部に以下のような心理メカニズムが働くため、彼らの態度がより排他的で横柄かつ一時の感情に流されがちになり、結果として差別的言動が横行して揉め事や争いが増え、凶悪事件が増える
a.「存置されているのだからちょっとした刺激ではさすがのキチガイも一線を越えたりしないだろう」
b.「万が一自分が殺されても国家が復讐してくれる」
c.「国家ですら死刑を認めているのだから、社会不適合者に生きる資格はないということだ」
d.「危険人物は最終的に死刑にすればよいのだから、ある程度挑発してでも炙り出すべき」
e.「大事件を起こして死刑になったら、自分の名前が歴史に残る。伝説になれる」
逆に廃止されている場合は以下のような心理メカニズムが働くため、人々の言動がより軟化し慎重になり揉め事や争いが減って、結果として凶悪事件が減る
a.「廃止されているのだからちょっとした刺激でキチガイが一線を越える可能性がある」
b.「万が一自分が殺されても国家が復讐してくれないので死に損」
c.「国家ですら死刑を認めていないのだから、社会不適合者にも生きる資格はあるということだ」
d.「どんな危険人物も死刑にならないのだから、なるべく挑発しないようにしよう」
e.「大事件を起こしても一時的に世間を騒がすだけで一生独房。ミジメ」
その7の補足「加害者は、被害者の基本的人権の大根幹である人命を侵害したのだから、同じく加害者の人命を国家が侵害して然るべきだ。それをしないことは被害者の人命を蔑ろにしているに等しい]
加害者が人命侵害という愚を犯したからと言って、同じ愚を国家(有権者)が犯して良いことにはならない
そもそも罪を犯した以上どう転んでも「加害者の命は被害者の命よりも価値がない」のだから、今更加害者の人命を奪ったところで償いにならない
「加害者の人命を侵害すれば被害者の人命がチャラになる」「加害者を殺せば一件落着」という発想こそ、被害者の人命を冒涜している
その8の補足2「廃止した為に起こる凶悪事件に関わる裁判費用と終身刑囚の養育費と被害者救済等のコスト一切を死刑廃止論者が負担するなら、廃止しても良い」
既述の通り「廃止したことが原因で起こる犯罪」は起こり得ないので負担額は永久に0円である。因みに現時点での凶悪事件に掛かるコストは「存置すべし」と主張する者(即ち全有権者の総意)が既に負担しているので何も言うことはない。自業自得
その23「加害者には被害者が受けた苦しみと同じ苦しみを味わわせるべき」
加害者は既に相当の悩み苦しみを味わっているからこそ、その苦悩から解放される為に殺人したのである
苦しみに耐えきれずついに殺人に至ってしまった者に更に苦痛を与えることは、その苦悩と事の因果を理解出来ない「思いやりと想像力に欠けた者」による報復感情の満足・ストレス発散に他ならない(まさに殺人犯と同じ)
その8でも述べたが加害者は一次被害者。社会が一次被害者の苦しみに無関心だったからこそ、一次被害者がその苦悩を解決出来ず、二次被害が発生したのである
一次被害者を無視して二次被害者のみを救おうとする行為は「二次被害者には感情移入出来るが一次被害者には感情移入出来ない」という愛と想像力の欠如した者による自己満足的偽善に他ならない(いじめ問題と同じ)
その24「社会不適合者は社会から抹殺すべき」
この思想は、同じ排他的発想で殺人をした加害者の思想と瓜二つ。このような浅はかな感情論を肯定する者が多い社会では、その反映として殺人者が多くなる
その25「死刑になりたくなければ殺さなければいい。殺したのだから死刑になってもしょうがない」
殺人に至った不幸者の境遇や背景に思いが至らない幸福者の、一種の現実逃避である
その26「死刑執行をやらざるを得ない刑務官がかわいそうだから死刑廃止すべき」
それが彼らの職責であり嫌なら辞めれば良い。職業選択の自由。そもそも就職前に仕事内容を把握して然るべきである
続く
60 :
観念は具現化する ◆3PwDX5T6IA :2010/01/30(土) 17:08:47 ID:Awno4ojE0
その27「EUを始め世界各国が死刑廃止しているのだから日本も死刑廃止すべき」
重要なのは「何故廃止しているのか」であって、単純に「他国が廃止しているから」という理由で廃止すべきではない
その28「人を裁けるのは神だけである。人は人を裁いてはならないから死刑廃止すべき」
裁いてならないのなら裁判所そのものを無くさなければならず、少なくとも現時点においては現実的でない。そもそも科学的根拠のない宗教観を基に廃止すべきではない
その1の補足8「”死刑を執行したり死刑執行を早めれば殺人が減る”という研究結果がある。これは死刑に抑止力があることの証明である」
研究結果が正しいとすると、この場合、抑止力があるのは「死刑執行」ではなく「死刑執行報道」である(何人執行してもそれが全く周知されなければ効果がない)
外部との接触を一切断絶して死刑執行を適当な時期に「報道するだけ」でも同じ抑止効果が期待できるので、死刑「執行」は必須ではない(当然一般国民は真実を知らされないことが前提。この制度の実現可能性は0ではない)
なお、都合のいいデータを拾い集めて辻褄を合わせれば幾らでも「偽科学論文」を仕上げることは可能なので、「研究結果がある」というだけでは「抑止力の証明」にはならない
その1の補足9「名古屋アベック殺人事件では19歳のAが17歳のBに”死刑にならないからやれ”と言って殺人した。これは死刑に抑止力があることの証明である」
これも希望的憶測が生んだガセネタである。Aは実行犯で逮捕直後に「未成年だからすぐ帰れる」と思っていた節があり、公判中に「(自分は)少年だから死刑にならない」と述べている(つまりAは少年法をよく知らなかったのである。実際、一審では死刑判決を受けた)
仮にAがBに「お前は死刑にならないからお前が殺せ」と教唆し殺害させたとしても(共同正犯でAが死刑になる可能性が有るがそれはさておき)故意犯には違いなく、実行犯が変わるだけで殺害が起こっている以上「抑止力がある」とは言えない