《のち》、運動かたがたこの茶園へと歩《ほ》を運ばした。茶の木の根を一本
一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大
きな猫が前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのも一向《いっこう》心付か
ざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな鼾《いびき》をして長々
と体を横《よこた》えて眠っている。他《ひと》の庭内に忍び入りたるものが
かくまで平気に睡《ねむ》られるものかと、吾輩は窃《ひそ》かにその大胆な
る度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒猫である。わずかに午《ご》を
過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛《な》げかけて、きらきら
する柔毛《にこげ》の間より眼に見えぬ炎でも燃《も》え出《い》ずるように
思われた。彼は猫中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。吾
輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に
佇立《ちょりつ》して余念もなく眺《なが》めていると、静かなる小春の風が、
杉垣の上から出たる梧桐《ごとう》の枝を軽《かろ》く誘ってばらばらと二三
枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王はかっとその真丸《まんまる》の眼を開い
た。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する琥珀《こはく》というもの
よりも遥《はる》かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。双眸《そうぼ
う》の奥から射るごとき光を吾輩の矮小《わいしょう》なる額《ひたい》の上
にあつめて、御めえ[#「御めえ」に傍点]は一体何だと云った。大王にして
は少々言葉が卑《いや》しいと思ったが何しろその声の底に犬をも挫《ひ》し
ぐべき力が籠《こも》っているので吾輩は少なからず恐れを抱《いだ》いた。
しかし挨拶《あいさつ》をしないと険呑《けんのん》だと思ったから「吾輩は
猫である。名前はまだない」となるべく平気を装《よそお》って冷然と答えた。
しかしこの時吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。彼は大
《おおい》に軽蔑《けいべつ》せる調子で「何、猫だ? 猫が聞いてあきれら
あ。全《ぜん》てえどこに住んでるんだ」随分|傍若無人《ぼうじゃくぶじん