759 :
鳥瞰:
確証がない、つまり正しいかどう判断するための根拠が客観的に明確でない知見を正しいと主張するのを偏見という。
偏見に基づいた(つまり合理的でない)差別(区別)はいわゆる(不合理な)差別といって社会的な問題となる。
社会問題というのは被害者可哀想という心情的な問題だけではない。
社会問題というのはその社会の統治が上手く行っていないということの表れなのだ。
偏見かどうかはその根拠を問うてみればわかる。
客観的な根拠が提出できなければそれはどんなに真実らしく感じられても未だ偏見の域にあるといえる。
その知見を証明する根拠が新たに発見されたとき、初めて偏見は偏見でなくなる。
ちなみに規模が大きくても小さくても人が複数人集まれば社会がそこにできる。
そしてどちらも人が集まるところにはつきもののトラブルや要求の解決が必要で
それらを円滑に処理しつづけるのが統治ということだ。
統治の目的はトラブルや要求の根絶ではなく解決し続けることだ。
生きている人間が構成する変化し続ける社会があれば問題は次々起こってむしろ当然なのである。
760 :
鳥瞰:04/08/11 13:43 ID:1Ro1CDOg
例えば社会学的にはしばしば家族が最小の社会と呼ばれたりもする。
家族はそれぞれの統治の仕組みを持っている(家族会議だったり家父長だったり…。)
日本国という社会は民主主義という精度でメンバーがトップに権限を委譲して統治されているし、
イベントという社会は主催者を頂点にトップダウンで統治されていると看做せる。
もちろん規模の大小でメンバー相互のコミュニケーション・コストが変わるから、
その性質は若干異なるけれども社会という構造に共通の問題も多い。
権利や自由といった社会統治システム上の基本概念はイベントにおける問題を解析する際にも
利用可能だと考えられる。
「地方自治は民主主義の学校」だという格言がある。
これは把握しやすい小規模な社会の身近で具体的な問題を
うまく解決(あるいは解決に失敗する)するという経験が
結果として民主主義という現在主流となっている統治システムを理解するのに有用だからだ。
私見だが、イベントや趣味世界(ここならコスプレ界)自治というのもやはり
民主主義の学校なんだと思える。
(というかこの程度の規模の世界で理に適った自治が成り立たなくて
国政レベルでまともな民主主義が運営できるはずがないというかw。)
取り敢えずトラブルの原因をちゃんと分析しないで
トラブルを起こした成員と同類型の人間をただ排除するような雑な統治は
あまり理に適っているとはいえない。
理に適っていない統治がまかり通るような状態はしばしば別のトラブル源であるし、
そういう決定をした人間が他者に敬意を払われることはない。
(特に排除対象からは良くは思われないだろうね。)
761 :
鳥瞰:04/08/11 15:52 ID:1Ro1CDOg
たとえば、きちんとした分析・判断に基づかないで
思いつきや単なる好みで女装禁止を決めるような主催者が
他の事では合理的に分析・判断ができているとは多くの場合考えにくい。
(こういう分析・判断の技能は特定ジャンルから独立した技能だから。)
となれば他の事の決定もしばしば思いつきや好みで決めることになり
スタッフや参加者は思いつきに振り回され、
個人的な好みに基づく運営指示は、その不整合から不信感を抱かれることになるかもしれない。
人間の思いつきや好みは意図的に整合性をとらない限りしばしば矛盾をはらむ。
思いついたり嗜好を口にする当の本人はその種の不整合であまり困らなくても
それに基づいた指示を受ける周りの人間(スタッフや参加者)が対応に困ることはある。
例えば「美人は可」なんて指示を主催者が自分の好みに基づいて下した場合、
スタッフの間で共通の基準を築くことは難しいだろうし、
まして事前に協議も出来ない参加者がそれに納得できるということは殆どあり得ない。
あるいは自分で判断せずに既存イベントに付和雷同して
規則や運営指針を決めるような主催者のイベントは
お手本となるイベントがコケたり衰退すると同じ理由でコケたり衰退するかもしれない。
これは参加者(と多分スタッフも)にとってはコミュニティの不安定という不利益をもたらす。
判断力は一朝一夕には身につかないので普段から極力自分(達)で分析・判断する
訓練をつんでいなければならないだろう。
イベントという社会は主催サイドと参加者が両方いて初めて成り立つ。
主催だけいても閑古鳥なわけで安直に参加者を排除する姿勢はある意味で自滅的ともいえる。
762 :
鳥瞰:04/08/11 16:16 ID:1Ro1CDOg
もちろん会場の規模、スタッフの人数、熟練度、興味関心などのリソースで
ある程度イベントの規模とスタイルが決まるのは当然だが、それにはある程度計画的な分析・判断が必要だし、
そのような分析・判断の結果を主催者、スタッフや参加者が共有し
何らかの改善をしていくするには「わかりやすさ」というものが必要だろう。
その分りやすさを達成する際に客観性・合理性は役立つということなのだ。
非常に小さな社会、遊び仲間や家族といった社会では特に組織立てて考えなくても
メンバー相互の意思疎通のコストは安い。
n人の社会で自分以外のn-1人全員と満遍なくコミュニケーションを取るという場合
そこに必要なあるヒトからある人へのリンクの数で考えると(n-1)×nとなる。
これは3人なら6本、4人なら12本、5人なら20本、・・・、100人なら9900本、・・・
というように社会の成員の数であるnが増えるとほぼnの二乗のオーダーで増える。
つまり数百人規模のイベントという社会はすでに仲間内の暗黙のとは
通信量的にかなり性質が異なる社会なのであり運営、つまり統治には
ある程度の規模の社会の統治に共通する配慮と工夫が必要だということなのだ。
例えば大きな社会ではさまざまな方法でコミュにーケーションの取り方を整理して組織立てることで
コミュニケーションのコストを抑えながら情報を伝達する工夫が必要になる。
ビラやWWWでの情報公開はブロード・キャスト(放送型)で一方向ではあるが大量の情報比較的安く伝達できる。
サービスを行なうスタッフに階層構造が導入されればツリー状の通信網ができ通信負荷を分散できる。
そして合理的・客観的に記述された情報は伝達する情報の量そのものを圧縮することを可能にする。
自由や権利といった社会システムの構成部品も情報の流れを整理し優先順位をつけて扱いやすくするのに役立つ。
763 :
鳥瞰:04/08/11 16:35 ID:1Ro1CDOg
ところでなんで性転換&コスプレなスレでこんな話になってるの?
764 :
鳥瞰:04/08/11 17:04 ID:1Ro1CDOg
女装コスに限らず、偏見についてそれに対する諦念と批判というのはいつもあるんだけれど
それをどう捉えたらよいかについての話。
偏見はおそらく、人間が自身の体験からインフォーマルに
統計的判断・学習ができる仕組み(帰納的推論の機構)を脳に持っている
ということに基づいているのでしょう。
インフォーマルな統計的判断は局所的なサンプルの偏りの可能性とかは気にしませんから
その人が置かれた局所的な環境では正しいが、大局的には正しくない結論をもたらし、
それが学習されてしまうことがあります。これが偏見の源といってよいでしょう。
これは取り敢えず生物としての頑健性からは正しいのですが、
文明を発達させ活動範囲を広げてしまった人類にとってはいささか不都合な性質です。
例えば身近に数人悪い女装が居ることから「女装は悪い」と学習することは
大局的には客観的・合理的な根拠がなく誤りで偏見ですが、
その人の局所的な環境においては真であり有効な知識であるわけです。
詳しく言えば大局的に正しい知識を発見するのは局所的に正しい知識を学習するより
大変(時間や手間などコストがかかる)ので、取り敢えず手早く局所的にでも正しい知識を
見つけ学習することは、その場の環境に取り敢えず適応して生き延びるために
昔の人間にとっては1個の生物個体として必要だったことでしょう。
こういう意味では偏見を抱くという行為はある意味人間にとって「自然」な行為といえます。
765 :
鳥瞰:04/08/11 17:10 ID:1Ro1CDOg
しかし一方で、長い歴史を経て言語・文字によるコミュニケーションと記録の蓄積によって
大局的な知識を共同で発見・蓄積できるようになった今では
局所的な知識に拘らず大局的な知識を学ぶことは昔ほど困難ではありません。
また社会が交通や通信技術の発展によって昔とは比べ物にならないスケールに拡大し、
幾つもの社会から多層的に構成されるようになった今では大局的な知識に対する必要性も増しているわけです。
つまり偏見を克服する知的活動のためのノウハウはすでに蓄積され、
それに対する需要も増しているということなのです。
例えば、人は重力にひかれて大空を飛ぶことができないという「自然」に対し、
その自然を研究して自然から流体力学の諸法則などを見出すことによって
ついにその制約を克服して大空を飛ぶ航空機という技術を手にしました。
同様に偏見という人間の脳における「自然」現象も
人間のもつ知的な能力に関する様々な研究から
合理性・客観性という脳というメカニズムの新たな利用技術が開発されてきたことで
克服できる兆しが見えてきていると私は思うのです。
人が偏見を抱くことは「自然」かもしれないがそれは今や技術的に
克服すべき/克服可能な目標であると思うわけです。
766 :
鳥瞰:04/08/11 17:27 ID:1Ro1CDOg
・・・とりあえず根拠を挙げずにあるいは、他人と共有できない個人的かつ検証しようのない観察に基づいて
「明らか」といったりするのは合理的でも客観的でもない。しばしばそれは偏見の兆候。
また罵倒の言葉で心理的な補強をしようなどと試みるのは
本人にも偏見だという自覚が芽生えつつあることによる怯えからくる攻撃性だろうかね。
まぁ、近いレス番号では例えば
>>758。
767 :
鳥瞰:04/08/11 17:33 ID:1Ro1CDOg
ちなみに知識というものは
・Aである。
・Aでない。
・どっちかわからない
のいずれかであるということは知っておいたほうがよかろうと思われる。
世の中、「Aである。」という主張をする人が、それを偏見だと言われて
「じゃぁ『Aでない。』ってのかよ?」と詰め寄るのはよくある光景だが、
世の中わからないことも多いのだということをそういう人は忘れている。
「どっちかわからない」ことについては「Aである。」も「Aでない。」も等しく根拠がない。
つまり偏見なのである。
わからないことはわからないと認め、わかっているかのような結論は
下さないというのが近代以降は合理的な姿勢とされているのであったりする。
ちなみにこのような「知識」の性質を社会システムに応用した一例が「自由」と「権利」。
根拠となる知見が「どっちかわからない。」である時は他者に強制も禁止もしないで
寛容の精神でもって他者の行為を放置するというのが「自由」の基本的なアイディア。
そしていつかどっちかが明らかになった際に
他者に対する強制や禁止を求められるようにするというのが「権利」の基本的なアイディア。
初期状態は「無知=自由」で客観的かつ合理的な知識の蓄積に応じて
段階的にその自由を修正・制限することを許すのが「知識=権利」という関係にある。
・・・と忙しくて2ヶ月ぶりの2chで言いたい放題に
書き散らして私は去っていくのであった。
(とはいえ、せっかく書いたから取っておいていずれ自分のところの同人誌のネタに使おうw)
では縁があったらコミケでお会いしませう。