1 :
ドレミファ名無シド:2011/10/07(金) 19:34:18.16 ID:FW3w0OkD
近代西洋音楽以外の作曲理論を語りましょう
「近代」がつきますので、西洋でも教会旋法を使った音楽理論は含めることにします
(つまり、一般の和声進行中心による作曲以外の作曲アプローチは全て含まれます)
理論といっても抽象的なものから具体的なものまで広く扱います
2 :
ドレミファ名無シド:2011/10/08(土) 05:12:03.08 ID:mRVsTaWj
保守
3 :
ドレミファ名無シド:2011/10/08(土) 19:19:40.19 ID:L5uhC56N
作曲理論だけなのか。
じゃあ西アジアとインドに限定だね。
日本や中国には分析理論とチューニング理論しかないもんね。
4 :
ドレミファ名無シド:2011/10/08(土) 19:23:27.86 ID:n3sJRGpF
拍子や音階の概念もない民族音楽はどうする
5 :
ドレミファ名無シド:2011/10/08(土) 19:26:22.29 ID:L5uhC56N
>>4 どうもしないんじゃないの?
取っ掛かりがなければ語れないだけで。
6 :
ドレミファ名無シド:2011/10/11(火) 14:03:38.62 ID:KGptI99f
7 :
ドレミファ名無シド:2011/10/11(火) 21:03:21.54 ID:5jSAa8Gq
我々だともはや何語るにも西洋理論を介しちゃうけど、西洋理論の非西洋的解釈がどんなになるのか見てみたい
8 :
ドレミファ名無シド:2011/10/12(水) 02:06:34.25 ID:ou6mS/+3
最近アフリカの音楽に興味あるけど
まず何から聞いたらいいのか分かんない
9 :
ドレミファ名無シド:2011/10/20(木) 19:17:36.53 ID:zSRPgLYz
10 :
ドレミファ名無シド:2011/10/20(木) 19:23:55.89 ID:Ez8R04CG
アフリカに音楽なんてあるの?
フェラ・クティが有名だしいいんじゃね
急浮上
13 :
ドレミファ名無シド:2011/12/08(木) 15:40:50.06 ID:5YLPCUqC
音階などの規定はあっても、普遍的な方法論=作曲理論がないというのが日本音楽の欠点じゃないかな
というより、和声作曲理論のようなものを確立してしまった西洋が異端なのだろうけど
異端者は魔女狩りじゃー!
拷問じゃ、火あぶりじゃー!というドSの歴史がある西洋w
15 :
ドレミファ名無シド:2011/12/09(金) 14:26:11.47 ID:pd2zuXTV
はあ
怪獣ってまだ死なないの?
検校、勾当とかいう役職も中国のパクリだけど、
つまり音楽ってめくらとかかなり特殊な人がやる職業だったんだよね
奥義秘伝っていうの?それで伝わるだけだね
風姿花伝みたいなのも理論と言うよりゲイ道論だし、数学の塵劫記ですら理論書じゃないからな。
ただ理論自体は日本人大好き
日本人ほど理論好きな民族はいないね
だけど自分で組み立てるのは苦手
その理論というのも姿勢や哲学的な理論がおおくない?
西洋和声理論のような、音楽芸術を合理的に分析・体系化しようとした試みはいまだにないと思う
そこが凄く不思議なんだよね
日本音楽には作曲理論と呼べるものがない
邦楽の人たちってどうやって作曲してんの?
俺もそれが疑問でしょうがない
演奏家が作曲する伝統があるよね
感覚主義過ぎるのもどうかと思ってしまう
旋法音楽の性質を考えてみると、日本の音楽は「終止音」によって、
調性――ここでは、旋法が音楽の雰囲気を決定すると仮定して、民謡音階とか律音階とかの区別を指す――が決定される
ということは、ある音に終止するまでの間は、その旋律は相対的なものでしかなく、
たとえば民謡音階を移調すれば律音階となるように、一体この旋律が何という調性なのかが「謎」のまま放置される
ここに日本音楽のとらえどころの無さがあるのだろう
西洋音楽は良くも悪くも説明的で、その説明のしかたの作法が決められている
たとえばもっとも基本的な機能和性理論では、トニックから始まるのが原則だが、
このルールをわれわれは無意識に音楽の理解に利用しているため、最初の和音が鳴らされたその瞬間に、
「ああ、これはハ長調だな」と認知することができるのである
こうした体系が出来上がっている点が、西洋音楽が広く受け入れられ、また研究が容易(といっては失礼かもしれないが、
日本音楽のような、作曲の際どこから手をつければいいか分からないようなカオス状態にはない)な理由だろう
23 :
KJNKDM:2011/12/30(金) 22:12:39.75 ID:vohtN2+I
もちろん、日本音楽にもこの、「調性を聴き手に手早く伝えるための手法」が全くないわけではない
私がまずすぐに思い当たるのは、近世にいたって律音階が都節化したという事実だ。
何故律音階の中間音が半音下がったかの理由には、近世の劇場音楽や民間の音楽が広まる上で、
民謡音階と混同されうる律音階が邪魔くさくなったからではないだろうか。
都節音階が日本の近世において特別愛されたのは、その調性としての独立性にあったのではないかと推測している。
つまり、旋律に半音が含まれていれば、それだけで聴き手はこの曲の調性を前提に入れた上で聞くことができるのだ
24 :
KJNKDM:2011/12/30(金) 22:15:48.88 ID:vohtN2+I
もうひとつ私が思い至ったのが、三味線という楽器である。
この近世邦楽を代表する楽器の最大の利点は、さわりによって調性を手早く伝えることができる点ではないか
三味線の三つの弦の調弦は一オクターブの中に四度・五度の枠を作るように設定することが基本である
つまり、二つの核音が奏でられたときにさわりがつくというルールが、そのとき自動的に設定されているのだ。
この情報もまた、調性を手早く伝えるのに役立っていると考えられるのだ。
25 :
KJNKDM:2011/12/30(金) 22:23:10.16 ID:vohtN2+I
ここまで、近世邦楽がある意味で「トニック構造化」を目指したように言ったが、
この構造化はまだまだ理論体系としてまとまっていない。
旋法における核音と中間音の関係は、和声におけるトニック・ドミナントのような意味を持つのだから、
「いかに核音・中間音の緊張関係を音楽的効果として利用しているか」
そして、「西洋音楽における和声進行のルールに相当する作法」という二つの面で、研究あるいは体系化が待たれる
もっとも、私は必ずしも「トニック構造化」の方向性を賛美するものではない。
日本語の、ひとつの単語を複数の字数で発音する構造を考えても、
終止音のときに調性の持つ雰囲気を最大に発現する旋法という方法論は、
とても理にかなっていると思うからだ。
私が言いたいのは、その旋法という、漠然とした統計的認識しかされていない合理性を、
逆のルートで、つまり作曲システムとして利用する方向に体系付けられないかということなのだ
この研究ではまずは声楽曲を、旋律と詞との関係性を見ながら分析して、
その知識を純粋な器楽曲に当てはめてみるなどして、さらに強固な理論とする、
という筋道が、日本音楽の派生の歴史を見ても望ましいだろう。
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