『両国予備校』の実態 part2

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666平成2年度の両国生
両国ですか?
懐かしく且つおぞましい思い出です。
自分は某御茶ノ水の今は潰れて園芸か何かの専門学校になっている予備校に、
一浪の時に通い、ここは、都立高校をリタイヤしたり、そこで勤めきれなかったような先生のいるような所で、夏期講習辺りの時期からそういう雰囲気に耐えれなくなり、
同じ御茶の水の某大学の図書館での自習の日々でした。
でも、所詮高校で毎年留年しそうなリストに上がっている自分が、
独学で大学受験にチャレンジしようにも中学生が大学を受験するようなもので、
結果は全滅でした。
で、その後に藁にもすがる気持ちで、あの地獄の門をくぐりました。
ここの書き込みの内容は大半が当たっています。
金蔵は確かに薬を飲みながら講演をやっていました。
(自分はテレビ画面上で見ました。)
えさ、、、この言葉もここの寮生の言葉で覚えました。
自分は通学生で母親の作ってくれる弁当だったので、
寮生がいつも羨ましそうな目で見ていました。
金蔵の愛車、、、自分の知っている限りは3台有りました。
一台目はロールスロイス、二台目はベンツ、三台目はキャデラックで、
中にはお抱え運転手(確か、青木さん?)に、
ロールスロイスを運転させてくれと直々に交渉するチャレンジャーも居ました。
副業、、、弁当屋、サラ金、ホテル(〇―ルホテル)etc.
定期券が使えない、、、これは自分は一浪目の予備校の学生証を悪用し、
前年の3月31日付けの半年の通学定期を作って、浮いた金は親に渡しました。
また、家が千葉だったから定期券の運賃を調べて両国と同じお金で作れる秋葉原まで作って、これで都内へ進出していました。
それとここで出て来なかった重要な話が有ります。
うちらの時の噂だったんですが、〇原ってババァが金蔵の愛人って噂。
聞いた事ある人居ますか?
後、〇野死んだんですか?奴が自衛隊上がりの噂は有りました。
自分が受けた進路指導は〇野の「分を弁えろ!」これだけでした。
でも、そのお陰で某地方の大学に入学出来たのはそれなりに感謝しています。
この一言が無ければ自分には何も無かったのですからね。
未だに自分はブランド物のKENZOや山形県の高畠温泉の名前を聞くと寒気がするほどの、
金蔵嫌いです。(つづく)