資生堂の裏事情

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51名無しさん@お腹いっぱい。
資生堂の社員がこんなことに関与していた。

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ドキュメント解任理由あり!
松井館長解任のいきさつとその後

〈松井章圭氏を極真会館館長から解任した経過について〉

1994年3・4月
大山総裁が、聖路加病院に入院。肺ガンと診断される。
 3月に米津等氏、大西靖人氏により城西支部分支部長に
「大山総裁の余命も長くない。だれが後継者としてふさわしいか。」
という話がされた。
(1995年4月に判明)
 総裁が亡くなるまで、一部の支部長を除き病名等について、
全く知らされなかったにもかかわらず、3月中旬には、後継者選びが行われていた
ということである。
4月19日
 大山総裁の遺言書が作成される。
 その際の立会証人は
●梅田嘉明氏(横浜東邦病院院長 極真会館審議委員長、遺言書には、
(財)極真奨学会理事長 (株)グレートマウンテン社長にと記されている)
●米津等氏(資生堂 副社長秘書 城西支部長山田雅稔氏の弟子である)
●大西靖人氏(城西支部長山田雅稔氏の弟子であり、一時期自分の流派を作り、
大会まで行うが、1〜2年前から米津等氏と共に大山総裁を頻繁に訪れる)
●黒澤明氏(大山総裁の知人で、元山口組系組長と言われ、大西氏の後見人とも
言われている)
 以上4名及び遺言執行者兼立会証人として米津稜威雄弁護士が遺言書作成に関与
した。なお米津稜威雄弁護士は米津等氏のおじにあたる。
※本来、遺言書は本人の自筆、署名、押印等がなくてはならないが、この遺言書は
危急時遺言として作成され、立会人4名が証人となっている。危急時遺言は、本人
が死亡を直前に迎え、自分で遺言書を作成できない時に作られるものであり、後日
わかったところでは、4月19日の時点で、大山総裁がそのような状態であったとは
考えられない状況であった。
 危急時遺言は、それが本人の真意によりなされたものか、どうかを確認するため
に、遺言の日から2週間以内に申立をする裁判所の確認手続きが必要であるが、
東京家庭裁判所は遺言から、約1年経過した1995年3月31日付けで、
遺言書の確認を却下した。これにより、この危急時遺言が大山総裁の真意
でなかったことが明らかとなった。