富沢ひとしスレッド

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690673 長文スマソ
>>685
つまりフーコーの言説に代表されるように学校は近代以降には労働者の
供給機関として存在していたと。そこでは生徒は社会の要求に相応しい
人材になるため色々条件付けをされるわけで(例えば一時間ずっと席について
教師の話を聞くとか他にも色々)。これはある意味、子供が本来もっていた性質を
矯正する過程なわけで、それが許される唯一の根拠は「社会に出た後、必ず子供の
ためになる」という矯正する側の確信=通念にあると。

んで、その確信が「ドリル族と共生するのが一番しあわせ」というような社会
においては教師は嬉々として子供に過酷で欺瞞に満ちた茶番劇を用意して社会
に相応しい人柱に調整していき、子供の方にはそれに対してほとんど選択の余地
がないと(そういえば対策係は受験免除というシステムは象徴的だよな)。

つまり、学校は社会的に正当性を付与されたなら子供に対してどんな酷い
ことでも(教育的指導!)やってしまうわけでそれがエイリアンという
フィルターを通すことで現実社会に住む我々の目に赤裸々に晒されると
いう。その辺が「学校の持つグロテスクな部分を提示してみせた」という
感想につながってゆくのですな。