【反日】雁屋哲に騙されました【美味しんぼ】9巻目

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466名無しんぼ@お腹いっぱい
くだんの日記がをテキストデータとして保存していたので、表記しておきます。

(無題) ※8:30頃確認時消失
2010年5月28日(金)@ 1:14 | 雁屋哲の美味しんぼ日記

tp://kariyatetsu.com/nikki/1244.php

いよいよ、5月30日は日本ダービーですね。
枠順も発表になりました。
読者諸姉諸兄におかれましては、もう、馬券は決まりましたか。
私は、今年の初めから、買う馬券は決まっています。
枠の連勝複式3-6
馬番連勝複式4-15
今年はこれで決まりです。
と言っても、実は、出走馬も枠順も分からないうちに、決めてしまっていたんです。
この、3-6と4-15には訳があるのです。
私は大学を出てから、電通という広告会社に勤めましたが、電通は不思議な会社で、当時は圧倒的に男性社員が多く、女性社員は人事、経理にはいたが、他の部局には余りいなかった。
その代わり、女性のアルバイト社員がかなりの数いた。
それも、大学を出たての女性です。
圧倒的に男が多い職場に、若い女性がアルバイトで来るとどう言うことが起こるか、ご想像の通りです。
電通の男性社員がアルバイトで来ている女性と結婚する例が非常に多かったんですよ。
職場結婚と言うやつですが、正規の女性社員と結婚するより、アルバイトの女性と結婚する方が遙かに多かったと思う。
467名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/05/28(金) 20:30:30 ID:cKBqy61O0
1970年のダービーは、関東と関西で人気が二つに割れていた。
関東には、アローエクスプレスという、大型で鹿毛(かげ)の美しい馬がいた。
このアローエクスプレスは初出走から6連勝を飾るという実に華々しい活躍で、関東で一番人気のある馬だった。
それに対するに、関西にタニノムーティエと言う馬がいた。
この馬がまた強く、1969年7月の初出走から、その年の内に9回も出走して、その内7勝を挙げ、1970年に入っても、立て続けに2連勝した。
アローエクスプレスは体が大きく、力強い感じだったが、タニノムーティエは栗毛で、ほっそりして、見た目にはアローエクスプレスより貧弱だった。
現在ではそんなことはないが、1970年当時は、関東の人間は関西の馬のことを知らない。関西の人間も関東の馬のことを知らない。
そして、やたらと関東と関西と張り合った。
当時、関東の人間はジャイアンツを応援するのが当然で、東京で阪神タイガーズファンというと、へそ曲がり、奇人変人、裏切り者扱いされた。
私は東京の田園調布で育った。家から、当時多摩川の河川敷にあったジャイアンツの練習場まで歩いて15分ほどだから、よく行った物だ。
当然、野球はジャイアンツ、と決まっていた。
長島以前の戦後の野球の大スター、ジャイアンツの一塁手で打撃王の川上哲治の名前と、私の名前の哲也とが字が一つ同じなので、余計に親近感を抱いたのだ。
その私が一時ジャイアンツファンを止めたことがあった。
それは、世界老害腐臭大賞に輝く読売のあの老人が、原監督を首にしたからだ。
で、しばらく同じ神奈川県なので横浜ベイスターズ(この名前より、ホエールズの方がずっと良かったのになあ)を応援していたが、原監督が戻って来たのでまたジャイアンツファンに戻った。
(え? お前は一体何の話をしたいのか、ですって。
まあ、お待ちなさいな、その内に、3-6と4-15の話にたどりつきますから。)
今でも、大阪でタイガースの悪口を言うと殺されるそうだ。
468名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/05/28(金) 20:35:24 ID:cKBqy61O0
長男が、野球の面白さに目覚めた頃、私は父親としてきちんとした教育をしなければならないと考えて、長男を呼んで言った。
「これ、息子よ、良く聞きなさい。今でこそ、セ・リーグ、パ・リーグ合わせて12球団有るが、昔は、巨人軍しかなかったのだ」
長男は驚いて言った。
「でも、お父さん、それじゃ、試合が出来ないじゃないか」
「うむ、息子よ、良いところに気がついたな。実は、そうなんだ。
チームが一つじゃ試合が出来ないと言うことに昔の人も気がついたんだな。
で、どうしたかというと、巨人軍が自分のチームの二軍を大阪の方に分けてやって、それが阪神タイガースとなった」
「ええっ!タイガースはジャイアンツの二軍だったの」
「そういうことだ。で、他の土地の人達も、野球のチームを欲しがったので、巨人軍は、幾つも二軍を作っては、あちこちの土地に配ってやったんだ。
それで、いまでは、12球団になったという訳だ」
「そうだったのか。知らなかったよ」
「そうだ、このことを知っている人は滅多にいないよ。
まあ、この辺の人でこのことを知っているのはお父さんくらいのものだろう」
「どうしてお父さんはそんなことを知っているの。」
「それは、お前がもっと大きくなったら分かるよ。」
「ふうん」
「まあ、そう言う訳だから、野球は巨人、わかったな」
「はーい」
この話を、先日、いつも取材に協力してくれる大阪出身の安井敏雄カメラマンに話したら、安井カメラマンは目をむいて、「そんなこと、大阪で言ったら殺されますよ」と言った。
だから、読者諸姉諸兄諸君、私の命に関わることなので、ここで読んだことを他言しないで頂きたい。特に関西出身者には知られないようにして頂きたい。
(話が、ますます、ずれてきましたね。まあ、お待ち下さい、徐々に軌道を修正しますから)
469名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/05/28(金) 20:42:29 ID:cKBqy61O0
まあ、その何だ、要するに当時の競馬界でも関東と関西の対抗意識が強かったのだ。
(最近は、関東にもタイガースファンが増え、競馬ファンは関東馬、関西馬の区別なく、強い馬をひいきにする。大変に、関東と関西の間が円満になって結構ですな。
とは言え、関西にジャイアンツファンが、関東にタイガースファンがいるほどには、いないと思うな)
1970年の競馬界は、関東馬のアローエクスプレスと関西馬のタニノムーティエの両馬が人気を二分した。
両馬が最初に対決したのは、1970年3月22日、中山競馬場での「スプリングステークス」だった。
このレース、アローエクスプレスが勝ったかと思ったが、あと一息のところでタニノムーティエにさされて負けた。
次の、皐月賞でも、タニノムーティエがアローエクスプレスを斥けた。
そして、三回めの対決、1970年5月10日、東京競馬場でのNHK杯で、アローエクスプレスがタニノムーティエを破った。
さあ、これで、関東と関西の競馬ファンが一気に燃え上がった。
いよいよ、両馬激突のダービーだ。
あの頃の熱気は凄かったな。
当時、まだ大抵の会社は土曜日も出社することになっていた。
広告会社として、スポンサー各社が土曜出社しているのに、広告を出して頂いている広告会社が土曜出社しない訳には行かないという理由で、土曜出社だったのだが、どうせ昼までだからろくな仕事が出来ない。
これが私には大変有り難かった。
電通の近くに銀座の場外馬券売り場がある。
土曜日に会社に行くのは、場外馬券を買うのに大変好都合だったのだ。
午前中は競馬新聞を研究し、昼食を取ってから馬券を買いに行く。
水を飲みながら飯を食うのはカエルだけだから、当然人間たる私は酒を飲む。
昼酒は良く効く。
で、図書室で寝ている内に、競馬のメインレースの出走時間になる。
そこで、図書室から地下のロビーに置かれたテレビの前に場所を移して、競馬の番組を見る。
470名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/05/28(金) 20:47:37 ID:cKBqy61O0
勘違いしないで貰いたい。広告会社社員だからね。
競馬中継のスポンサーの広告について詳しく研究する意図でもって競馬の番組を見ているのであって、馬券が当たるとか当たらないとかそのような下卑た意識はぜんぜん、まったく、は、は、は、実はそれだけだよね、打ち明けた話。
それくらい競馬の好きな私だったから、ダービーの直前となると、仲の良い先輩社員と職場で大っぴらに競馬新聞を広げ、「絶対にアローエクスプレス、アローエクスプレス」と息巻き、
長野県出身で京都大学を卒業し四国出身の女性と結婚した先輩社員はその経歴出自環境からして、関西の悪風に染まってしまっていて「いやあ、てっちゃん、ここは、タニノムーティエじゃないの」などと不届きなことを言う。
ふたりで、けんけんがくがく言い合っていたら、そこに、1人の女性がやってきて、「ダテテンリュウですよ」とささやく。
その女性の名前を仮に「れ」としておこう。
「れ」が私の部所にアルバイトとして来ていた事は知っていた。
しかし、とにかく当時の私は忙しかったのだ。
同期入社の仲間たちに大学の同級生も加えて、映画を作ろうとか、漫画の原作を作ろうとか、同人雑誌を出そうとか、組合員大会で勝つための作戦を練ろうとか、何か、かんか、理由をこしらえては、夜を連ね酒を連ねる日々だった。
とても、会社で仕事などしている閑はない。
出版社の人間と会わなければならないし、それ以外の時間には、夜に備えて英気も養っておかなければならない。
そこで、ほぼ毎日、午後は、図書室の奥で机に突っ伏して眠る、と言う生活を送っており、自分の席に殆どいなかったので、自分の部所にアルバイトに入って来た女性と顔を合わせる機会も、口をきく機会もなかった。
「れ」の言った、ダテテンリュウと言う馬は、競馬新聞では、白三角印がついていた。
アローエクスプレスとタニノムーティエで熱くなっていた私と先輩社員にとって、それは、穴馬だ、と言うだけの印象しか持てなかった。
471名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/05/28(金) 20:52:19 ID:cKBqy61O0
ダービー当日、私は東京競馬場で、敗北にうちひしがれた。
私が愛するアローエクスプレスは5着に沈み、優勝したのはタニノムーティエ。
そして、2着に入ったのが、「れ」の言ったところのダテテンリュウだったのだ。
翌日、私と先輩社員は、暗い顔を見合わせた。
お互いに、どちらが1着になるかで、言い争ったが、結果的に、アローエクスプレス、タニノムーティエが1、2着を占めるだろうということで、馬券は枠順連勝複式の4-6に絞っていたのだ。
タニノムーティエは馬番10、枠は4枠。アローエクスプレスは馬番14、枠は6枠だった。
しかし、3枠のダテテンリュウが2着に来たので、連勝複式のあたり馬券は、3-4となった。
試合が終わってみると、ダテテンリュウは意外に人気を集めていて、4番人気だった。配当も、1000円と思ったより安かった。
しかし、いずれにせよ、私と先輩社員の敗北感は深かった。
そこに「れ」がやってきた。
「ほらね、言ったとおりでしょ」と言った。
先輩社員は、悔しがって「本当にあきれた女だ」と言った。
「れ」の苗字は安藝(あき)というので、安藝に「れた」でちょうど「あきれた」になることから、それ以来、「れ」は「れた」と私たちの仲間から呼ばれるようになった。
その、通称「れた」が、私の連れ合いなんでございます。
472名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/05/28(金) 20:54:50 ID:cKBqy61O0
ダービーがきっかけで、口をきくようになり、親しくなった。
私は1972年の12月に電通を辞めて、無職になったが、その1973年の4月1日、エイプリル・フールの日に(日曜日で大安吉日)行く先になんの当てもない失業者の身で「れた」と結婚した。
会社を辞めてはいたが、これも、社内結婚みたいなもんだな。
と言うより「ダービーの取り持つ縁かいな」だ。
で、今年は、知り合ってから四十周年記念の年だ。
よし、2人が知り合うきっかけとなった、ダービーに、いっちょう賭けてやろうと思った。
でね、当時の競馬新聞など調べると、ダテテンリュウが、馬番5で枠が3枠、アローエクスプレスが馬番14で、枠が6枠。
さあ、これでお分かりになったでしょう。
その馬番にどんな馬が来るのか、その枠にどんな馬が入るのか分からない。
分からないけれど、連れ合いの押したダテテンリュウと私の愛したアローエクスプレスを馬番と枠番をそのまま、組み合せて、
枠順連勝複式3-6
馬番連勝複式5-14
を買うのだ。
連勝複式にしたのは、私の買ったアローエクスプレスの乗り移った馬と、妻の買ったダテテンリュウの乗り移った馬とが、どちらが1着になっても恨みっこなし、だからだ。
アローエクスプレスとダテテンリュウの「気」が40年後の東京競馬場に働くか。
たのしみです。
当たったら、全額、宮崎県の畜産農家に寄金として送る。
この、3-6は絶対当たりますよ。
当たった人、その分からいくらかでも、宮城県の畜産農家に寄金を送って下さいね。
競馬に関係なく、私は、宮崎県の畜産農家に貧者の一灯を送ります。