ゆびさきミルクティー/宮野ともちか 6ビュルルッ
「ただいまー」
「あ、由紀、おかえり」
「どうしたの? これ。――凄いご馳走じゃん」
「時間あったから……ね。ワインも買ってきたから、飲もうよ」
「時間って、今日会社じゃなかったの?」
「休んじゃった……。ま――そんなのいいからさっさと着替えておいで、ご飯食べよっ」
「んー、美味っしい、あたしって料理の天才!? ほらー、由紀も食べて食べて――どぉ?
美味しいでしょ?」
「確かに……美味い、姉貴の料理ってこんなに美味かったっけ」
「あーしっつれいね――、あたしだって気合入れればこんくらい作れるわよ」
しゃべりながらも、すらりとした腕が、細い指に支えられた箸を動かし上下する。
「たくさん作ったから、じゃんじゃん食べてね」
キッチンに目をやると、テーブルの皿に載り切らなかった料理が、所狭しと並んでいた。
「って、多いよ、どんだけ作ってんだよ!」
(しかも、また寸胴使ってるし……)
「まーまーま――、あっ、ワインの栓も抜こうか」
そういって姉貴は――しなやかな動作でコルクを外し、ワインをテーブルの上のグラス
に注ぎ始めた。タプタプタプと勢いよく飛び出した液体は、ガラスの深いカーブを跳ね上
がっては垂れ下がり、グラスを琥珀色に染め上げる。表面の波紋が揺れるたびに、芳醇な
香りが部屋中に広がる。
「このワイン、すげーいい匂いがする」
そういいながらワインを口に含もうとするが、姉貴がすかさず止めに入った。
「ちょ、ちょっと待ってよ、乾杯してからでしょ、先に飲まないでよ」
「ごめん、香りに釣られた。で、何に乾杯するの?」
「あんたの女たらしに……」
「……」
無視して先に飲んでやろうかと思い、グラスを引き寄せてみせる。
「ちょ、ちょっと待って、冗談よ」
「そんなの言ってると先に飲んじまうぞ」
「それじゃ、あらためて――、――あたしの美貌にっカンパ――イ」
そう言って姉貴はあっさりとグラスを接触させて、キーンとした音を小さく響かして引
っ込めた。俺は呆気にとられたまま、ガラス越しに見える姉貴の薄く開いた唇の奥へ赤色
の液体が流れ込む様を眺めている。
「うわー、おっいしい。――ん? 由紀もぼーっとしてないで、飲んでみなよ」
そう言われて、赤い輝きを放つワインを口元に近寄せる。鼻腔に届く濃厚な芳香だけで
も、十分高級感を漂わせていたのに――、口に含んだワインの味は、ワインを飲みなれな
い俺の舌の味覚でも、このワインが相当に上質なワインであることを認識させた。
「あの店員嘘は言ってなかったなー、うーん、おいしいー」
俺は、料理とワインを交互に口に運びながらその味に無闇に感動している姉貴に尋ねた。
「なぁ、姉貴。――このワイン、高かったんじゃないか?」
「そんなことないわよ、千円ワインよ」
「嘘つけって、いくら俺だって、このワインが千円や二千円で買えるとは思わないぞ」
「じゃあ、三千円。――別にいくらでもいいでしょ。ほら――せっかく豪華な晩餐なんだ
から、ちゃんと味わって食べなさいよ――」
明るく穏やかな口調だが、反論を寄せつけようとはしていなかった。いつもの夕食とは
どこか、なにかが決定的に違う姉のふいんきに、なぜか変換できない気がして、今はこれ
以上踏み込めず、おとなしく目の前にあるご馳走を味わうことに専念した。
永遠に尽きることが無く思えた豪勢な料理の数々も、時間の経過と共に、随分と片付い
ていった。同様に、褐色のボトルに封印され続けたワインもまた、それを解いた主人の体
内へと居場所を移していた。弾けとんだカシスの芳香は、甘いバニラの残り香へと変化し
て室内を漂い、艶やかな紅色の面影は、二人の主人の頬へと受け継がれていた。
「料理、余っちゃったね……」
「そりゃ、そうだろ。これでも随分と減ったほうだよ」
俺は、酔いが回っているのを自覚しつつも、かるく食後の片づけをはじめた。姉貴はた
おやかな手振りでグラスを揺らし、残りわずかなワインに起こる波紋様に見入っている。
「キッチンの分は、明日あんたがひだりちゃんに持っていってあげてよ」
「うん、わかった。けど、それなら今日のメシにも呼べばよかったよな」
「それはだめ――」
「え?」
「今日は由紀と、あんたとふたりだけが良かったの――」
後ろに座る姉貴を振り返ると、姉貴はちょうど最後の滴を飲み干そうとしているところ
だった。そして、ボトルの半分以上を飲みきったとは思えないような優雅な動作でグラス
をテーブルに置くと、ぽつりとつぶやいた。
「このグラス……ブランデーグラスじゃん――」
そんな姉貴を尻目に、大方の片付けを終わらせた俺は、冷蔵庫からビールをふたつ取り
出し、テーブルに座りなおす。姉貴の手の横にそのひとつを置き、もう片方のプルタブを
引き上げる。――カシュッ、という炭酸の吹き出る音に姉貴の耳がピクリと動く。
「あんたねぇ、あのワインの後に、ビール飲むの? もったいなー」
「どういうことだよ、さっきのは三千円ワインだろ?」
「嘘よ、そんなわけ無いじゃない。シャトーマルゴーのヴィンテージよ。零が一つ足りな
いわ」
「さ、三万!?」
「そ、私達が生まれる前に作られたワイン。失楽園ってドラマで一時期流行ったのよ」
「なんでそんなの買ったんだよ?」
「……」
姉貴は俯いて瞳を伏せた。ストレートの髪が垂れ下がり、上半分の表情を覆い隠していた。
「なぁ、姉貴、なんかあったんだろ」
姉貴は俯いたままだが――華奢な肩が、いつにもまして弱く儚げにみえる肩が、小刻み
に震えていた。
「俺じゃ相談にならないかもしれないけど、聞いてやることくらいできるから――」
「……ょうぶ、――ありがとう、だいじょうぶだから」
徐々に顔を上げた姉貴の目はしっとりと潤んでいた。
「――だいじょうぶって、姉貴――、前に俺に言ったじゃん。俺のこと大事に思ってるか
ら、悩んでるときは相談しろ、って。俺だって同じだよ。姉貴のこと大事に思ってるから
――もし悩んでるのなら、俺に打ち明けてくれよ」
「ねぇ、由紀、じゃあ一つお願い聞いてくれるかな」
「俺に出来ることなら、何でもやるよ」
当然のように答えた俺に、姉貴は照れくさそうに微笑みながら言った。
「――この前みたいに、私の服――着てくれるかな」
枕元の電気スタンドの白熱灯の灯りだけで照らされた姉貴の部屋は薄暗く、部屋に染み
付いた麝香の香水の匂いが、先程のワインの移り香と絡み合って、鼻腔を甘く、誘惑する
かのように刺激する。
姉貴は床に散らかった小物を押しのけ、押入れから引っ張り出してきた洋服――白いコ
ットンのプルオーバーブラウスとスカート――を俺に手渡すと、
「おしっこいってくるから、その間に着替えちゃって――」
といって、少しふらつきながら、部屋から出て行った。
姉貴がビールを持って戻ってきたときには、既に着替えは完了していた。姉貴は俺にビ
ールを受け取らせると、そのままベッドの枕近くに座り、机に寄りかかるようにした俺を、
じっと見つめている。こちらから見える姉貴の瞳は、白熱灯の輝きを吸い込んで、煌びや
かに濡れ輝いている。ビールを一度口に含んだあと、姉貴が喋り始めた。
「昨日――彼氏と別れたんだ――。あいつ、高校生の女の子と浮気してたの。それがわか
って――それから喧嘩して、お互いの嫌なところ見せ合って、罵り合って、恋愛の嫌な部
分ばっかり見せ付けられて、あいつのこと好きなのか嫌いなのかもわからなくなって――
もう疲れちゃった」
「その服はさ――私が今の由紀の年に、はじめて雑誌に載ったときにきてた服なの――そ
の頃の私は、純粋だったな――って、騙したり騙されたりする恋があるなんて思いもしな
かった頃……昔の可愛かったあたしの面影よ」
「この服、姉貴もまだ着れるんじゃ?」
「ううん、あたしはもうダメ。同じ服を着ても、もう――同じじゃないの。今のあんたみ
たいに着こなせないもん、それがわかってるから、あんたに着てもらったの」
「そんな――そんなこと、いうなよ! それに俺だって――前に姉貴が言ったように、自
分でも嫌になるくらい、雄臭くなってきて――そんな俺がこの服を着ても……」
「由紀はまだ大丈夫。だってまだ青臭いんだもん」
姉貴は、そう言って、涙を浮かべた瞳をそのままに、少しだけ微笑んだ。
「なんだよ、それ」
「あんたはまだ知らないのかな。――ねぇ、由紀、あんた下着トランクスのままでしょ。
変に透けててやだから、脱いで!」
「いや、脱いでって言われても」
「あんた、この前お風呂であんな状態の見せつけておいて、いまさら照れることもないで
しょ」
「あれは、見せつけたんじゃねーよ。姉貴が勝手に入ってきたんだろ」
「まーまー、別に今そういう状態じゃないんでしょ? さっさと脱いで――」
「――そう、それでいいの」
「なんかさ、スカートだからスース―して落ち着かないよ」
「じゃあさ――」
そう言ったかと思うと、姉貴はスタンドの電気を消し、暗闇の室内に立ち上がった。そ
して、何度かの衣擦れの音のあと、俺の手に丸まった生暖かい布を置いた。その体温を残
したレースの手触りのものは、恐らく姉が今の今まで穿いていたショーツのそれであった。
「――これ穿いてみて」
「姉貴、――これ?」
「あんたいつも私のブラジャーも勝手につけてるでしょ」
「けど、これ」
「黙って穿く! 聞かれるとあたしもちょっと恥ずかしいんだから」
「けど、これ……今……イテッ」
「さっさと穿く!!」
俺は、先程からずっと姉貴が身に付けていたショーツを、言われた通り穿いた。
「!」
「……ちゃんと……穿いた?」
「穿いたけど――姉貴、これ………」
「このショーツ………………………湿ってる……」
「――そうよ、でも……おしっこじゃ……ないから、ね」
「――――――――――!」
姉貴は灯りを付け直したが、先程よりも更に光量を落として調節し、仄暗い室内を演出
した。姉貴の顔の位置はわかるが、表情を読み取るには暗すぎる。
「なんで……濡れ……」
「ん――、昔のあたしの服着てるあんたに――欲情しちゃった」
「! わかってて、俺に穿かせたの?」
「そうよ、あたりまえじゃない。女の子は素知らぬ顔のまま欲情することもできるってこ
と、由紀に教えてあげようと思って」
「だからって、いきなり、こんな風に……」
「あら、あんたほんとは私のショーツ穿いたことあるんでしょ? トランクスじゃ透けて
困るはずだし」
「…………」
「なら、気にしない、気にしない、女の子が濡れる感じも知っときなさい」
仄暗さに慣れてきた目でみる姉貴は、笑みを含んだような声のトーンとは違い、暗く沈
んで見えた。
「姉貴、大丈夫か……?」
質問の答えは、落ちていくようなトーンに一変した声の調子が示してくれた。
「昨日から寝てない上に、フルボトル空けちゃったからね」
「姉貴、今日はもう寝たほうがいいよ」
「うん……ねぇ、由紀。最後にもう一つだけお願い聞いてくれる?」
「ああ」
「あのね、由紀の元気を――ちょっとだけ、わけて」
「ん? どうやってわけるんだ?」
「前、あたしがしたみたいでいいから、ちょこんってキスして」
姉貴は、俺に潤んだ煌きを宿す瞳を向けた後、そっと瞼を下ろした。
「姉貴……」
つぶやきながら、目を閉じて微かに震えている姉貴に顔を近づける。だけど、姉貴に自
分からキスしたことなどなかったから、なんとなく照れてしまい、残り少しの距離が埋め
られない。閉じた瞼の先端に重なる整った睫毛に視線が泳いだままでいると、瞼が瞬時に
持ち上がり、中からは俺の瞳を映す黒い小さな鏡が現れた。そして、開きかけた姉貴の唇
が、言葉を発するかわりに、俺の唇に触覚をもたらす。更に、驚いて開きかけた俺の唇の
隙間をついて、暖かいぬめりを帯びた粘膜が口蓋に向かって進入してきた。
「ん! んん、!!」
自分のではない味覚器官が口内を蠢く度に、体から力が抜けていく。こちらの力が抜け
るごとに、侵入者はゆるやかなまとわりつき方に変化していき、ふたつの味覚器官同士が
お互いの味覚を同調させようと絡みついたとき、思わず声が洩れた。
「っひゃん」
自分の出した乙女声に驚いて目を開けたとき、そのとき初めて、いつのまにか自分が瞼
を下ろし、侵入してきた姉貴の舌の感触に神経を集中していたことに気付く。
とろんとなった目を、再度姉貴の瞳に戻したところで、姉貴の唇は離れ、
「あんた――なんて声だすのよ……かわいぃ」
視線を合わせたままそう囁いて、またキスしてきた。
姉貴の唇は、俺の上唇と下唇と触れ合っては離れ、吸いついては離れ、ちくりと噛んで
は離し、また少しずつずれては、接触を求め続けた。今度は姉貴の舌は侵入してこない。
そのかわりに一連の動作の中にも時折唇の力が抜ける瞬間があり、その何度目かの瞬間に、
俺は自分から舌を差し入れてみた。
「んぁ、んぅ」
姉貴の口から、甘い、香るような吐息がこぼれる。俺は、先程姉貴にされた動きを真似
て、姉貴の口蓋を舌で這いずり回ってみる。上唇と歯の間や歯の裏側を踊るように、けれ
どぬめらかに、刺激する。時折鼻腔に漂う上質なワインのブーケが、ふたりの官能を盛り
上げているのか、姉貴の身体は俺が支えていないと倒れてしまうのじゃないかと思うほど
に、力が抜けきっている。
不意に姉貴の瞳の奥に力が蘇る。それに呼応するように姉貴の腕にも力が込められた。
「!!」
姉貴のしなやかな指に指摘されるように刺激されてはじめて、自分の下半身の状態がわ
かった。一瞬にして、恥ずかしさが体中を支配し、貪るように吸われていた唇を引き離す。
嘆願するような気持ちで姉貴を見つめると、姉貴は掴んでいたモノを手のひらから開放し、
耳元で囁いた。
「――ふふ、お・ま・せ・さん」
そして細い人差し指で、俺の一番雄臭い部分を、つん、つん、と突ついた。
姉貴は、クスッと微笑んだあと深呼吸してから言った。
「ありがと、由紀のおかげで、いっぱい元気が出たよ」
そのときの微笑を含んだ姉貴の表情は、上気を残してはいたが、晴れ渡り、純粋な少女
のように可憐で、そしてとても――美しかった。