湾岸ミッドナイト…悪魔のZで駆け抜けろ

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古新聞をひっくり返したらでてきた。
貼っていいものなのかどうかわからないが・・・長いので分割する。

11月11日付読売新聞 評者 東 浩紀

 このコミックは九年前に連載が始まった。二百キロを超える狂気の
スピードで、夜な夜な首都高を駆け抜ける走り屋たちの物語だ。
「悪魔のZ」と呼ばれる伝説の車を中心として、さまざまな人間
ドラマが繰り広げられる。第二十一巻の発売を機に紹介したい。
 評者は自動車マニアではない。むしろ車には疎い。マニュアルも
運転できないし、エンジンのことなどさっぱりだ。にもかかわらず、
本作を取り上げるのは、そこで描かれたドラマがもはや車の話を
越えているからである。
 連載当初、この作品は高校生を主人公にしていた。「速く走る」
ことが無条件に肯定される世界が描かれていた。
 しかしいまでは、実質的な主人公は中高年に移っている。彼らは
もう、走りを素直には肯定できない。速く走ることは無意味だし、
危険だし、違法ですらある。おまけに深夜のバトルにはゴールも
ないし勝者もいない。というのも、首都高環状線は、皇居を取り巻く
ように円を描いて建設されているからだ。だから彼らの行動は、全く
矛盾に満ちたものになる。目的も意味も名誉もないのに、なぜ走りが
捨てられないのか。
 かつて日本は「速く走る」ことに熱狂していた。金に飽かせた
チューンドカーで皇居のまわりをグルグルと回る、それは八〇年代の
消費社会(記号の戯れ)の戯画そのものだ。いまでは逆に、日本中が
当時の記憶を封殺し、「速く走る」ことを忘れようと必死になっている。
そして私たちはいま、その熱狂と忘却のあいだで方向を見失っている。
 速く走ることの快楽は忘れられず、しかしその無意味さも自覚して
しまったものたちが、ではどのように年齢を重ねるべきなのか。これは
もはや、走り屋のお伽噺ではなく、バブル以後の日本社会の問題
そのものだ。本作は、車マンガの意匠を通して、その問題に正面から
挑んだ力作である。


以上