現代音楽ってどうして傑作ばかりなの?

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37名無しの笛の踊り
シュトックハウゼン:ただ個人的な経験から言うのですが、
「直観音楽」は --- できるだけ --- 心理学と無関係である
べきものです。つまりそれは潜在意識や無意識とは何の関係も
ありません。演奏者はむしろ、超意識の、つまり彼らの中に入り
込んでくる何ものかの影響下にあるべきなのです(演奏結果を聴け
ば、彼らが超意識の影響下にあったことが分かります)。それらの
テキストから生じた音楽にほんの少しでも似ているようなものは、
全音楽史のなかにも、私たちがこれまでにやってきたことのなかにも、
存在していないのですから。と、いうことは、その「何ものか」とは
私たちが超意識と呼ぶものであって、潜在意識や無意識ではないはず
です。
38名無しの笛の踊り:2001/08/21(火) 21:24
シュトックハウゼン:「直観音楽」を演奏するときにはどの演奏者に
最も自制心があるかがすぐに明らかになります。批評眼があるかどうか、
身体面と精神面でちゃんとバランスがとれているかどうかなど、演奏者
はすぐに本性をあらわします。ある演奏者はとても簡単に混乱しますが、
それは彼が聴いていないからです。人の音を聴かない、それがたいてい
ダメな演奏の原因です --- 他のすべての音を覆ってしまう音量を出し
続けながら、自分で気がつかないというダメ感覚。ある状況で全くの
全体主義者になる人もいて、アンサンブルの演奏を実に恐ろしい状況に
導きます。サウンドが極端に攻撃的で破壊的になり、コミュニケーション
はとても低い水準でしか機能せず、破壊的な素材が蔓延します(お分かり
のことと望みますが、私が「低い」水準というときにはただ単純に
「きたない」とか「美しい」というのではなく、肉体的に、身体的に
お互いを傷つけあっているという意味です)。さらに、演奏者全員が
一斉に演奏したりします。「絶え間なく演奏しないこと」、そして
「絶え間なく反応してばかりいないこと」これは最も重要な基準の一つ
で、繰り返し思い起こすようにしなければなりません。
 
39名無しの笛の踊り:2001/08/21(火) 21:25
ますますコーホー的な人(笑)
40シュトックハウゼン:2001/08/21(火) 21:25
演奏家というものは、作曲家が決めた通りにただ演奏せよと数百年に
渡って強制されてきて、今や「直観音楽」では絶え間なく演奏できる
ぞというわけで、彼らは弾いてばかりいるのです。こうして演奏はすぐ
にとても大音量になり、どうやってふたたび抑えればよいのか演奏者の
誰にもわからない。誰もが自分の演奏を聴かせたがるからです。大音量
になることは簡単なことです。しかし、どうやればふたたび弱音に戻れ
るのか?結局、人はこう考えます:「どうせ誰も聴いてないのだから、
私は演奏を止めたほうがよい」。
 これらがグループ行動の、グループ演奏の一般的な原則です。
41名無しの笛の踊り:2001/08/21(火) 21:26
いえよう(笑)
42シュトックハウゼン:2001/08/21(火) 21:27
「直観音楽」において、私は音楽的に様式として確立されているすべて
のものから遠ざかろうとしています。歴史が示しているように、即興の
音楽では、常になんらかの基本的な素材--- リズム的あるいは旋律的あ
るいは和声的素材 --- が存在し、それに即興は基づいているのです。
例えばグロボカールのグループで、演奏者が「何もないところから」
演奏するつもりであっても、そしてたしかに何も決められておらず、
見たところ事前の同意もないとしても、あきらかに打楽器奏者の
ドルーエは、よく知られたインド音楽からタブラのリズムを演奏して
しまっていることがあるのです。彼はインドのタブラ奏者から一度短い
期間タブラの演奏を学んだことがあり、その様式的な素材が自動的に
出てきてしまうわけです。全体としてグロボカールのこの音楽は、事前
に確立された様式をもつものではありませんが、しかし特定の様式的
素材が音楽に紛れ込んできます。私はまさにそれを回避しようと言うわ
けです、直観に完全に集中するためにね。クラリネット奏者のポータル
でも同様です。いつも彼はノってくると --- 演奏者達が「熱く」なって
いると --- フリー・ジャズ奏者として何年も演奏してきた典型的なメロ
ディーやフィギュールを吹いてしまいます。つまり彼が共演したグルー
プの慣用表現、そしてフリー・ジャズの伝統一般から由来する特定の
慣用表現です。そんな瞬間に、人はある特定の様式のなかにいる自分
自身を見い出します。たとえ演奏者にそのような様式を演奏するつもり
がないとしても、彼らはそれを消し去ってはいない...
43名無しの笛の踊り:2001/08/21(火) 21:28
だからロックンローラーに受けるんだ。
連中の「瞑想」に繋がるもの
44シュトックハウゼン:2001/08/21(火) 21:28
私のやることを「即興演奏」と呼ぶつもりなら、「ただし、即興演奏と
いう用語はいまやとても広義で、人によってその意味は異なる」と付け
加えなければなりません。でもそんな場合には、新しい用語をたてるほ
うがましです。だから提案するのですが、バロック音楽、インド音楽、
いくつかのアフリカ音楽 --- 例えばモザンビークの音楽 --- を即興
音楽と呼んでおこうではありませんか。そして即興演奏とはそんな音楽
のことにしておきましょう。
45シュトックハウゼン:2001/08/21(火) 21:30
基本的には直観音楽とは、直観と呼ばれてきたもののすべてと接触する
という意味なのです。伝統的な音楽では「作曲家はほんの短い直観的
瞬間を得る」と、私たちはよく口にしています(彼は市電に乗っていて、
あるいは散歩途中にインスピレーションを得ると、その後数週間にわた
って、このいわゆるアイデアだとか音のヴィジョンに取り組む、等々)。
人はそのようなインスピレーションを夜空に閃く稲妻のように想像して
います。ここではっきりさせておきたいのですが、私は作曲家・演奏家
としての私自身 --- そしてまた私の共演者 --- のために、直観の稲妻
のような瞬間を意識的に拡張する技法を見いだそうとしているのです。
手持ちぶさたで、直観の訪れを徒に待たなくてもすむように、私が仕事
をはじめたいときに直観を「作働させる」技法。というのも、よく間の
悪いとき、つまり時間がなかったり、ちょうど誰かが私と何か別のこと
を話そうとしていたときに直観はやってきたものでした。だから直観を
起動したり停止したりできる技法を見つけ、そしてこの直観的作業の
時間を望むかぎり長びかせなければなりません。そのためには、音楽を
作るための全く新しい技法を見いだす必要があります。よく削った鉛筆
と消しゴムを用意して一枚の紙の前にただ座って、それから直観が与え
てくれるものを書き留めるような訳にはいきません。直観には直観の
速度があって、それは書く速度とは決して適合しないからです。
 
46シュトックハウゼン:2001/08/21(火) 21:31
>>45つづき。
そしてここに核心があります。600、700、800年間にわたり、私たちは
直観的に経験される音楽を、視覚的に翻訳すること、それを我々の合意
に基づいた一つの体系のなかで記述することを学んできました。そのほ
とんどは機械的な作業です。既に述べましたが、私のすべての作品にお
いては、いつもほんの少しだけの直観的瞬間があって、それが --- 後
から判ることなのですが --- 数分間にわたる部分全体を決定していま
す。それから私は数日や数週間にわたって、まるで機械工のように働き
はじめます。細部を計算する等々です。でも、私にはいつも最初の瞬間
から、自分の求めるものが分かっていました。と、いうことはつまり、
ほとんどが全くの機械的作業にすぎないということです。創造的な仕事
に携わっている人なら誰でも知っているように、天才とは95%の努力と
5%の直観です。こういう考え方はできるだけ速く終わらせるべきだと
言いたい。それは、グーテンベルク以来、いや、音楽を書き留めるとい
うことを始めた最初の僧侶たちの時代以来、私たちが巻き込まれてしま
っている、信じられないほど込み入ったプロセスに根ざしています。
かつては作曲家と演奏家のあいだの媒介として、紙の上に音楽を書いて、
誰かに渡すことが不可欠でした。その誰かは、ちょうど音楽的郵便の集
配人のように、それを例えば別の街へ配達すると、他の音楽家がそこで
それを読み取り、再び音へと変換させることができたわけです。今日、
この経過はなんとなく終わろうとしています。「手紙」はもう要らない
のです。私は飛行機で自らそこへ移動できますし、またはテープを送る
ことができるのですから。
 
47シュトックハウゼン:2001/08/21(火) 21:32
 だから私たちは、直観に固有の時間を見つけ、そしてこの直観の時間
のなかで作業することによって、直観が持続するように、そして「ちょ
っと待って、まず書き留めなければ」と中断ばかりしなくてすむように、
全く新しいプロセスを発展させなければなりません。書き留めたりして
いるあいだに直観は再び逃げ去ってしまいますからね。この「ちょっと
待って」は、音楽分野のほとんどの芸術家にとって、フラストレーショ
ンの原因です。少なくとも作曲家にとってはそうです。つまり、音楽の
「書き」手という伝統的作曲家のイメージはもはや妥当しないのではな
いでしょうか。