初めてのギリシャ旅行の折、とあるアンティークショップを
ひやかしていたサティは、店の奥に置かれていた等身大の
人形に心を奪われ、目をそらすことが出来なくなった。
美しい金色の髪と濡れたような黒い瞳、子鹿のような四肢に
大理石を思わせる肌。
いままで出会ったどの女性よりも美しいと感じたサティは、
その人形を買い取って帰国の途についた。
パリの自宅に戻ったサティは、人形をベッドに横たえて
じっと見つめていたが、あまりの美しさに自分を抑えかね、
人形の額にそっとキスをした。
すると人形は、ふうっと安堵したようなため息をつくと、
にっこり微笑みながら口をきいた。
「 いのちを吹き込んでくださってありがとう。今日から
あなたを白馬の王子様だと思ってお慕いしますわ 」
こうしてサティと人形との奇妙な同棲生活が始まった。
人形は働き者だった。
朝、サティが目覚めるとカフェ・オ・レの香りが心地よく鼻孔を
くすぐり、着替えと洗面を終えて食卓につくと、焼きたての
クロワッサンかフレンチ・トーストが彼を待ちかまえていた。
夜は夜で、つつましいが心のこもった手料理と、安いが味の良い
ワインがサティを喜ばせた。
掃除洗濯も遺漏なく、手空きのときは歌をうたったりピアノを
弾いたりしてサティの仕事を手伝った。
声が窓ぎわのトットちゃんにそっくりなのが気にかかったが、
見目麗しく心映えの美しいこの人形に、サティは 「ペネローペ」
(ギリシャ神話の、オデュッセウスの妻。貞節な妻の代名詞)
と名前をつけ、普段は PE(ピィー) と呼んでかわいがった。
サティはピィーとの静かで満ち足りた生活を満喫していたが、
やがて彼女は何日も家を空けたまま帰らないことが多くなった。
戻ると何事もなかったかのように微笑みながら家事にいそしむ
ピィーに対して、サティは強いて問い詰めることはしなかった。
彼女の行き先を知ってしまうと、ふたりの穏やかな生活が
壊れてしまうかも知れないと恐れたからだった。
《つづく》
(
>>146 のつづき )
ある夜、サティは灰色の服を着た見知らぬ男の訪問を受けた。
インドの予言者サイジジと名乗るその男は言った。
「 レクイエムを作曲してほしい 」
突然の依頼に驚いたサティは尋ねた。
「 誰のためのレクイエムですか 」
サイジジは地獄の底から吹き上がるような声で答えた。
「 おまえの愛するピィーのためのレクイエムだ 」
「 そんなバカな! 」
サティが思わず叫ぶと予言者は呪文のように繰り返した。
「 ピィーは体育館の上で死ぬ
ピィーは体育館の上で死ぬ
ピィーは体育館の上で死ぬ」
サティが言葉を失って立ち竦んでいるとサイジジはさらに言った。
「 ほれ、これが前金代わりだ 」
手のひらからセイコーの腕時計を物質化させてサティに手渡すと、
灰色の服を着た予言者はつむじ風のように去って行った。
サティは俄かに胸騒ぎをおぼえた。
ピィーは今朝、彼がピアノに向かっている時に、
「 ちょっと出てきますわね 」 と気楽な口調で告げにきた。
サティはピアノを弾く手を休めずに顔だけ彼女の方に向けて
「 うん、気をつけてね 」 と声を掛けた。
ピィーは微笑みながら彼の髪をそっと撫でて出て行ったきり、
今になっても戻らなかった。
サティは眠れぬ夜を過ごしながら、毎日二人分の食事を用意して
ピィーの帰りを待っていたが、あの日の朝の何気ない会話が
今生の別れになろうとは知る由もなかった。
《つづく》
(
>>146-147 のつづき )
ピィーにはサティが知らないもうひとつの顔があった。
何を隠そう、彼女こそあの国際救助隊(サンダーバード)の
ぱつきんの秘密エージェント 「ペネロープ」 だったのだ。
お抱え運転手パーカーが操るショッキング・ピンクの六輪車
「ペネロープ・カー」 に乗って東奔西走、人命救助と災害防止の
ために身を粉にして働いているのだった。
雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、東に溺れたひとがあれば、行って
サンダーバード4号を呼んであげ、西に生き埋めになったひとが
あれば、行ってモグラーを呼んであげる。
彼女の活躍を知るひとびとは皆、賞賛の声を惜しまなかったが、
鉄血宰相ビスマルクは、彼女をドイツ帝国に敵対するカソリック
中央党のシンパだと思いこみ、愛人のヒミコ・ダテを使って
ひそかに抹殺を謀った。
雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、ペネロープを乗せてベルリンの
ウンター・デン・リンデン大通りを疾走していたショッキング・
ピンクのペネロープ・カーは、ヒミコ・ダテによって仕掛けられた
時限爆弾で木っ端微塵に吹き飛ばされた。
爆風で飛ばされたペネロープは、大きな放物線を描いて近くの
市立体育館の屋根に落下した。
スレート葺きの屋根に叩きつけられる直前、彼女の脳裏には
サティとの静かで幸福な生活の思い出や、彼の柔らかな髪の
感触が走馬灯のように去来したが、すぐに暗黒が訪れた。
間もなく駆けつけた救急隊員は、ペネロープのあまりの美しさに
我を忘れて思わず額にキスをしたが、まぶたを固く閉ざしたまま、
彼女はぴくりとも動かなかった-----------
《つづく》
(
>>146-148 のつづき )
のちにすべての経緯を知ったサティは、二度と還らぬピィーへの
愛惜と、再び戻らぬふたりの満ち足りた日々へのオマージュを、
五線紙に刻み込む思いでレクイエムを書き 「ジムノペディ」 と
名づけた。
「ジムノペディ( GYMNOPEDIE )」 とは、あのいまわしい
インドの予言者サイジジの言葉 「ピィーは体育館の上で死ぬ
( PE DIE ON GYM )」 のアナグラム(綴り換え)である。
「ジムノペディ」 は欧州楽旅の途中、ピィーの終焉の地である
ベルリンで作曲者自身によって初演された。
会場は由緒正しきヴェルリン・フィル・ザーモニー・ハール。
曲には、ピィーと初めて出会った思い出の地にちなんで、
ギリシャ旋法が使われていた -----------
同じころ、インドの予言者サイジジは悩んでいた。
「 PE DIE ON GYM 」 の DIE という動詞に三単現の S を
つけなかった自分は天才なのか厨房なのか----------
アガスティアの葉をめくりながら、自分探しの旅を続ける
サイジジであった -----------
《おわり》