「わかる」っていう表現にヲタをみる

このエントリーをはてなブックマークに追加
124名無しの笛の踊り
古来戦争や入試や仕事で知識というものは戦い勝つために重要でした。
知識があるものが勝ち、知識のないものはあきらめるかがんばるしか
なかったのです。兵法が「わかり」 パズルのような入試問題が「わかり」、
他社よりも良い製品やサービスを提供する方法がわかり、部下を掌握し
惹きつける方法が「わかる」ことは絶対的に正しく強かったのです。
勝つことが喜びである分野です。

恋愛や趣味においてはどうでしょうか。知識を当てはめ、分析的に
対象と取り組むことが すなわち恋愛や趣味における「喜び」とは
いえないでしょう。ただ感覚的に好悪を判断する人も多く、原因や
過程、結果すら他人と共有する必要はありません。

結局他人となにか評価を共有し、優劣や好き嫌いを語り合うときに
はじめて「わかる」「わからない」が問題となるわけです。
評論家が「・・・がわかる」「わかった」という時には、背後に
分析的知識の発見や積み重ねを披露し、それを根拠に
「好きになった、興味を持ったことを」共有してくれ
と言っているのです。
なぜ共有してほしがるか? それは本能です。シンパシーを誰一人
得られないまま生きていける人はまれです。人は理解者を求める
ものです。そうできない人は孤独です。概ね人は孤独が苦手です。

つまりは「わかる」といういう表現にはかなりの割合で「おまえも
興味を持ってくれ」「好きになろうじゃないか」という誘い、おせっかい
がはいっています。この勧誘を好きでない人もまた多いです。

その背後にある知識の披露、あるいは印象批評であっても、
全人格的に説得力があれば「共感」につながり、自分にとって
魅力無い切り口であれば「反感」につながるでしょう。

「〜だから好きだ」「〜という観点でみると自分は関心が持てた」
という言い方ならあまり問題は起こらない。
評価基準に多様さがある分野において「わかる」という言葉で
自分の好悪を表現すると、絶対的な基準のある分野における
「わかる=○」「わからない=×」という関係性を含ませるので
反感を買う。つまりこの言い方は使わないほうが良いということだ。
たとえ後者のニュアンスを含めるつもりがなかったとしても。
李下に冠を正さず、だ。