悲愴

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56マニフィックス
そう、現場で音楽が変わっていくのは知っている。ストラヴィンスキー
がN響を振った時のエピソードとして、演奏者の失敗に対しても「そう
いうのもいいかもしれない」とか「ここはこういう方が良かったな」と
いった感じでどんどん変えていったという。また、マーラーしかり。そ
してブルックナーでのシャルクの行なった事も認めるべきでしょう。ま
た、ショスタコーヴィチも現場で楽譜と違う面白いアイデアをどんどん
実行させていた(例えば交響曲第13番第2楽章のスネアのクレッシェ
ンドとか)。

>悲愴みたいに書いた本人がすぐ死んじゃったら 不都合な部分は後の
人間が加筆する――当然のこと。

 ただ、先にも示した通り、実際にファゴットで演奏している録音もある
わけで(実演でもあるかも)、最早「(演奏者に)不都合な部分」とは言
えないのではないでしょうか。

>そこまで演奏者に手を加える権利はあるのでしょうか。

 確かにコレはいいすぎです。しかしあのレスの趣旨は
何故バスクラに換えるのかの理由が知りたいということ。
マーラーやブルックナーの稿の問題のようにあまり注目
されない話題なので。ムラヴィンスキーのショスタコー
ヴィチの交響曲第5番終楽章の音の変更も同様に気になる
ところではありますが。
別に作曲者は神だから楽譜に書かれていることは100%
忠実に守れなどと言おうとしている訳ではないし私の様な
ヲタごときがギャーギャーいっても無意味な事。この様な
疑問を持つこと自体無意味だというなら、現在行なわれて
いる楽譜の稿の問題の論議や、細かい部分について行なわ
れている研究活動(例えば宇宙の起源やその大きさについ
て)の全ても意味のない事として排除されることになるの
でしょうか。

今後、あの部分をファゴットではなくバスクラで演奏すると
いうことがオフィシャルなものとなるとしても、それに対す
知識人達の意見を伺いたい。一番最初にバスクラに変更して
演奏させた指揮者(演奏者からの提案だったかもしれないが)
がどういう意図でそうするに至ったかも。でも、猫も杓子も
判で押したようにバスクラで演奏するってのも奇妙な話しだ
と思うのは、私が「勘違いヲタ」だからなんですけどね。