クセナキスについて

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143Hazumoerer
ずいぶん遅れたが、このあたりで追悼文を残したい。
まず問題点の整理。彼はセリエルを初等数学の果てしない演算のように捉えていたこと。だから自分は違う数学の理論をつかうのさ、という程度で捉えていたのでこの際理論的に矛盾があるなしはあまり意味のあることではない。その矛盾すらかいけつさせようとFrancesco Guerreroは複数の専門家と共同で研究を行ったらしいが、彼すら1997年に亡くなった。
クセナキスを聞くときにいつも思う事は、彼の音楽からは人間同士の関り合いがまったく聞こえてこずに、とてつもない音響結果がでてくるという印象ははじめて彼の音楽に接した9年前からほとんど変わることがない。たとえば室内楽作品でそのギャップは大きいようにみえる。室内楽という極めて人同士の暖かい温もりに満ちた空間ですら、パリンプセストではピアニストとその他のメンバーとの殺し合いに聞こえる。彼の内戦の記憶から生まれた音楽だからと主張することもできようが、果たしてこのような態度は音楽という場でやっていいことなのか?
晩年はオーケストラの作品が増えるが、ほとんど妥協の場所になっているこのジャンルで多数の作品を残すのは、彼自身にとって金銭的な事情もかかわっていたのではないのか?皮肉にもこの態度は武満と接点を持つように感じる。
その武満が幸福な最期というならば、クセナキスの最期は惨めだった。年を取るにつれて音の密度はあきれるほど減り続け、プレクトのように衰弱としか言えない作品まで生まれたのは、あのデビューにふさわしくはなかった。むしろ、年を取ってから反対勢力も増えた。Paul Mefanoは「クセナキスの音楽はおもしろいねぃ。たかが効果音だけどさぁ。」というコメントを残したが、亡くなってしまった今、このコメントの意味は深い。たとえMefanoがクセナキスに劣る作曲家としても。
時間外の音響を提唱しながら、録音メディアの発達にもっとも相応しい音楽になってしまったことを、彼は本当に喜んだのだろうか?
普及が進んだとはいえ、彼の作品を満足に聞けることはほとんどない日本の現状で、決してクセナキスの批判を行ってはならない。楽器を知らずに作曲するなという悪口ですら。