☆永遠のカリスマ指揮者宇宿先生を語ろう!☆

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509名無しの笛の踊り
だから芸術とかうんぬんいう前にさ、音楽の現場の現実を考えましょうよ。

指揮者とオケとが対峙する練習の時間っていうのは
指揮者とオケマン、双方の音楽性がぶつかりあう緊張の時間です。
(よく指揮者の音楽性ばかりを問題にする人が多いが、そういう人はえてして現実に演奏しているのは奏者であること・
 その奏者も給料もらって演奏しているプロであり彼らもまた音楽性を持った一つの個性である事を見落としている事が多い!)
指揮者っていうのはそういう猛者たちの集合体であるオケに対し自分の音楽をぶつけていく。
そうした個性と個性のぶつかりあいからよりよい音楽が作られていく。
トスカニーニなどの独裁者型の指揮者の例が出ていたが、そういった人達だって
現場の猛者たち(世界有数のオケであるスカラ座・シカゴ・クリーヴランドの奏者たち!)に対し
それに負けずに(むしろ、それだけの奏者を自分の音楽になびかせるように)自分の個性を強烈に打ち出していき、
その熾烈なしのぎあいの中からあれだけ質の高い音楽を生み出していったわけです。
そういった音楽を作り出す現場に働く『政治』というものはなかなか外にいる人には見えてきません。
第一、「指揮者の考えどおりにきちんと演奏すればいいんです」といいますが、現にそのように指揮者に唯々諾々と従ってしまうような
オーケストラから生気ある音楽が生まれるとお考えですか?

なぜ宇宿氏の姿勢が問題にされるかといえば、そうした姿勢が音楽作りの面で全然建設的方向に向かわない点。
フルタイムのオケならばともかく、3日間の練習で何とかしなければならない(ほとんど)寄せ集めみたいなオケでは
そうした罵倒やら講釈やらで時間を使ってる暇はないはず。
あまつさえ出演者のギャラはチケットで支払われていて(!)モチベーションは最悪。それなのに
そういう心理状態の元で何が哀しゅうて罵倒を聞かされつつ練習せねばならないのか。
出演者の話を聞くたびにかわいそうになってきます。
こんな状況でどうしていい音楽が作れるでしょうか。

芸術について語るのも結構ですが、どうしたらよりよい音楽が生まれるのかということを
もう少しオケの現実に即して考えてみてはいかがでしょうか。