伊福部昭は、確かに音楽における「複雑さ」というものを忌み嫌ってい
るようにも見えます。
それは、大戦中に初演された氏の「協奏風交響曲」(当時の作品として
は群を抜いて前衛的だった)の初演が、マトモな演奏にすらならず、失
敗作の烙印を押されてしまったことと無縁では無いでしょう。
要するに、複雑なスコアを書いたとしても、それを鑑賞可能な程度にリ
アライズできる可能性が限りなく低いのならば、作曲家としてそういう
音符は書くべきではない、と思っているようなのだな。
だから、その著書「音楽入門」で、リヒャルト・シュトラウスの「ツァ
ラトゥストラはかく語りき」を、その複雑さ故に、ボロクソに酷評した
りしているのだろう。
でも、伊福部がラヴェルの名に憧れてチェレプニン賞に応募したり、戦
後間もない時期に「管弦楽法」という著作を著しているところをみると、
氏も「技術」については、それなりの拘りを持っていたんだと思う。こ
ういう意味では、伊福部作品もまた「近代芸術」の一つの形であるわけ
だ。
>>63の「近代芸術」の定義には反するが、それは
>>63の定義が恐ろ
しく主観的なものであるからに過ぎない。