394 :
Stereo Sound誌「音楽の誘拐」(6):
私は、この交響曲が質の点から見て第一級であると書いたことは1度もない。「鬼武者」にしても同様だが、構えが大きすぎて、密度がついてきていない。だが、不器用ななりに何かを言おうとしている音楽ではあると考えた。
特にその暗さは印象的だった。悲痛な美しさがあった。今考えるに、実際にこの曲を書いたという新垣隆の心の闇が表れていたのかもしれない。
テレビ番組を制作するということで、取材に応じたこともある。大学の研究室にやってきたディレクターは純朴そうな人で、佐村河内に心酔しているようだった。「ずばり、お聞きします。彼は天才なのでしょうか」と尋ねられた。
もちろん、そうだと答えてほしかったのだろう。けれども、私はそうは言わなかった。彼は不満そうだった。おそらく、期待とは違った内容になったのだろう。結局その収録は使われないままに終わった。
395 :
Stereo Sound誌「音楽の誘拐」(7):2014/03/16(日) 00:04:00.46 ID:u4g2j/sV
佐村河内は徐々に名前が知られるようになった。私に連絡を寄越すことはほとんどなくなったが、それでよかった。
私は、さまざまな不運に見舞われた人間が成功しつつある様子を見て、少しでもそれを助けることができたのではないかと思って満足していた。さすがに、一種のブームになるに至っては、いささか度を越していると呆れたけれども。
今も、私の目の前に佐村河内から来た手書きのファックスがある。はっきりとした、小さめだが意志の強そうな文字がびっしり並んでいる。
命がけで作曲するとか何とか、ここに書かれていたことが、みんな嘘だったなんて、今読み返しても信じがたい。彼はどういう気持ちでこれを書いたのか。フィクションを構想する作家のような楽しみを感じつつ書いたのか。
大震災のあとで、自分は広島出身なので放射能の怖さを知っている、くれぐれも用心してくれとメールを寄越してきた。それも嘘の親切だったのか。すべてを疑うことは、あまりにも悲しすぎるが、どうやら、そうしなければならないらしい。
396 :
Stereo Sound誌「音楽の誘拐」(8):2014/03/16(日) 00:06:19.98 ID:u4g2j/sV
作品と人間は別である。どんな悪人が作ろうが、美しい作品は美しい。どんな善人が作ろうが、駄作は駄作である。また、どれほど感動的だろうと、シェイクスピアの悲劇は、しょせん虚構であり嘘である。ただ、その嘘の中に真実がきらめく。
しかしながら、佐村河内は、作品イコール人生という形で世にアピールした。そこに問題がある。残念ながら、そうした形でないと大衆の反応を得るのは難しいにしてもだ。
だが、変な話ではないか。有名になりたいのなら、クラシックなどというマイナーな分野など選ばないほうがよいだろうし、それどころか、演奏されにくい大交響曲など書かないほうがよいのは自明なのに。