【大学教授】許光俊と鈴木淳史 第3巻【売文業】

このエントリーをはてなブックマークに追加
378Stereo Sound誌「音楽の誘拐」(1)
この原稿を書いているちょうど今、マスコミはある人物の話題で大騒ぎになっている。耳が聞こえない作曲家として知られた佐村河内守が、本当は自分では作曲していなかったことが明らかにされたのである。本人もその事実を認めたという。
私もこのニュースにはとても驚かされたし、ショックを受けた。と同時に、怒りよりも深い悲しみを覚えた。そして、何とも割り切れない不可解の念を抑えられなかった。
なぜ作曲家は音楽を書くのか。生活のためもあるだろうが、一番の根っこには、自分を表現するためという理由があるはずだ。そして、傑作を書きたいという芸術的な野心があるはずだ。その前提が最初からなかっただなんて。
他人が書いた曲で有名になって嬉しかったのか。私にはそれが皆目理解できなかった。
379Stereo Sound誌「音楽の誘拐」(2):2014/03/15(土) 22:28:04.32 ID:fRynClZQ
佐村河内が私に連絡してきたのは、もう十年以上前のことだった。電話に出ると、見知らぬ男がしゃべり始めた。自分は耳が聞こえない、従って電話で直接話すことができない作曲家の代わりにかけている。彼の作品を見て、評価してくれないだろうか。
「そういうことはしていないので」と固辞したが、私の本を愛読していると言われて、結局は承諾した。楽譜と、シンセサイザーで録音されたものが送られてきた。私はよいと思った点とそうでない点を指摘する返事を出した。
それ以来、時々意見を聞かせてくれと連絡がくるようになった。その頃彼が私のところに送ってくるのは手書きのファックスだった。神経質そうな、だが得体の知れぬ力がこもった字で、自分の境遇や不満や怒りが記されていた。
まるで世に受け入れられないロマン派の芸術家のような鬱屈がうかがえる内容だった。障害を売り物にして有名になりたくない。世の中と安易に妥協したくない。でも認められたいという気持ちが表現されていた。
380Stereo Sound誌「音楽の誘拐」(3):2014/03/15(土) 22:31:57.95 ID:fRynClZQ
2000年代の初頭、完成していたのは「鬼武者」という、和楽器なども加えて演奏者が200人にもなろうかという法外な規模のゲーム音楽だった。そして、演奏時間が80分もかかりそうな交響曲だった。
明らかに誇大妄想の気配があったが、こうした傾向はベルリオーズをはじめロマン主義の人々には典型的である。私は彼のことを、生まれてくる時代を間違えたロマン主義者だなと思った。
こんな規模の、しかも暗い音楽を書き続けても、演奏される可能性は皆無に等しかろう。それが気の毒だった。
やがて、彼が半生を記した『交響曲第1番』という本が出版された。献辞を入れて送られてきた本を開いてみて、その深刻な内容に改めて心が重くなった。ありとあらゆる不幸をぶちこんだような人生が、ディテールも生々しく記されている。
数々の肉体的な障害、病気、家族の不幸……この本を読んだ人々が一様に心を打たれたのも当たり前だ。
381Stereo Sound誌「音楽の誘拐」(4):2014/03/15(土) 22:34:53.75 ID:fRynClZQ
テレビでは、事実が露見する前から怪しんでいたという野口剛夫が、佐村河内の本や曲の中の矛盾をあれこれ指摘している姿が何度も放映されていた。
野口は、以前私もどこかで紹介した記憶があるが、フルトヴェングラーに傾倒し、興味深い仕事を続けてきた人だ。それに、シェンカーという音楽理論家の本を訳してもいる。
野口が感じたようなことは、私も感じたことである。しかし、人間とは、人生とは、矛盾を抱えているものであって、そう簡単に割り切れるものではない。
未熟な芸術家が、独自の作品を生み出したいと思いながらも、偉大な先達の影響を受けてしまうのは当たり前のことである。世界の苦悩を描いたつもりになっているが、実は小さな範囲を出ていないということも、若い人間にはありがちである。
ことに私は、日頃20歳前後の学生連中を相手にしているので、野口のように矛盾があるから変だとは考えなかった。佐村河内は、ちょうど学生が私にそうするように、アドバイスを求めてきた。そして私は学生にそうするように、できるだけ親切に対応したのだった。
382Stereo Sound誌「音楽の誘拐」(5):2014/03/15(土) 22:38:27.96 ID:fRynClZQ
いつからか、時折佐村河内から来る連絡は、ファックスではなく、メールになっていた。交響曲の初演が決まったという知らせをもらったときは、彼のために喜んだ。
その交響曲が、いつの間にかHIROSHIMAという副題を得ていたことがいささか奇異でなくはなかったけれど、彼が心のうちのすべてを私に語ったわけではないだろうし、詮索するほどのことでもなかった。
聴衆に理解されやすいような、しばしば内容とは無関係のサブタイトルが作曲家本人、あるいはそれ以外の人間によってつけられることはしばしば行われてきた。
作曲家は作品が演奏されなければ、存在しないも同様である。多少妥協はあっても、やはりまずは演奏されないことには。そう彼も考えるようになったかと推測された。
今でもよく覚えているが、広島まで初演を聴きに行った私は、聴衆が意外なほど感動している様子を見て、驚いた。感動しているのは聴衆だけではない。楽員たちまでもが、非常な熱意をもって演奏していたのである。
人々の感動が善意から生まれたことは疑いなかった。熱烈な反応は広島だけではなく、のちの京都でも同様だったし、私は実際に見てはいないけれど、東京もそうだったと話に聞いている。