>>167 実際の音楽の中で限定進行音が重複することは確かに少ないのでしょう。
そういう意味でそれが普遍的な現象だと言うことはできますが、果たしてそれが和声学の公理(=文法規則)とされるべきかということに関して疑問を呈しているのです。
連続8度や連続5度の禁止はルネッサンス音楽の頃から作曲家が意識していたことであって、もし近代より前の作品で見られた場合、基本的にはわざとかうっかりのどちらかと考えてよいものと認識しています。
その意味において連続8度や連続5度の禁止は公理と呼んでよいでしょう。
限定進行音は、ある決まった音に高い割合で進行する音です。
したがってもし限定進行音を重複させて両方ともふつうに進行させようとすると必然的に連続8度が起きてしまいます。
なので、実際の作品の中で限定進行音が重複されることが少ないのは、作曲家が連続8度禁止の規則を念頭に作曲している以上当あたり前のことでしょう。
しかしこのことは限定進行音の重複の禁止が和声の公理(=文法規則)であることを必ずしも意味しないはずです。
私は、上に挙げたバッハ作品(BWV564)等、限定進行音の重複が実際に観察される以上、それ自体は作曲家が意識して避けようとしていたものではない、つまり公理(=文法規則)ではないのではないか、と言っているのです。
実際、芸大本でも公理と言いつつ
>>28の【1】の場合、限定音の重複を許していますが、決して違反されることの無いものこそが本来公理と呼ばれるはずです。
あと芸大本は教則本なので、もしかして、本当の意味では公理ではないけど、和声の実施にあたっての便宜上のルール(そうしておけば絶対に変にはならない)としてのせたという可能性もあるのではないかという気もするのです。
不勉強なので、他の和声教科書で限定進行音の重複自体についてどう書かれているのかは知りません。