ベートーヴェンの交響曲全集【その6】

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409名無しの笛の踊り
世の中に住む人間の一人(いちにん)として、私は全く孤立して生存する訳に行かない。
自然他(ひと)と交渉の必要がどこからか起ってくる。時候の挨拶(あいさつ)、用談、
それからもっと込(こ)み入(い)った懸合(かけあい)――これらから脱却する事は、
いかに枯淡な生活を送っている私にもむずかしいのである。

私は何でも他(ひと)のいう事を真(ま)に受けて、すべて正面から彼らの言語動作を
解釈すべきものだろうか。もし私が持って生れたこの単純な性情に自己を託して顧(かえり)
みないとすると、時々飛んでもない人から騙(だま)される事があるだろう。その結果蔭(かげ)
で馬鹿にされたり、冷評(ひや)かされたりする。極端な場合には、自分の面前でさえ忍ぶ
べからざる侮辱を受けないとも限らない。

それでは他はみな擦(す)れ枯(か)らしの嘘吐(うそつき)ばかりと思って、始めから相手の
言葉に耳も借(か)さず、心も傾(かたむ)けず、或時はその裏面に潜(ひそ)んでいるらしい
反対の意味だけを胸に収めて、それで賢(かしこ)い人だと自分を批評し、またそこに安住の地
を見出し得るだろうか。そうすると私は人を誤解しないとも限らない。その上恐るべき過失を犯
す覚悟を、初手(しょて)から仮定して、かからなければならない。或時は必然の結果として、
罪のない他を侮辱するくらいの厚顔を準備しておかなければ、事が困難になる。

もし私の態度をこの両面のどっちかに片づけようとすると、私の心にまた一種の苦悶(くもん)が
起る。私は悪い人を信じたくない。それからまた善(よ)い人を少しでも傷(きずつ)けたくない。
そうして私の前に現われて来る人は、ことごとく悪人でもなければ、またみんな善人とも思えない。
すると私の態度も相手しだいでいろいろに変って行かなければならないのである。

この変化は誰にでも必要で、また誰でも実行している事だろうと思うが、それがはたして相手に
ぴたりと合って寸分間違のない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いているだろうか。私の
大いなる疑問は常にそこに蟠(わだか)まっている。
410名無しの笛の踊り:2010/09/20(月) 00:46:37 ID:UV0LsBb+
私の僻(ひがみ)を別にして、私は過去において、多くの人から馬鹿にされたという苦(にが)い
記憶をもっている。同時に、先方の云う事や為(す)る事を、わざと平たく取らずに、暗(あん)に
その人の品性に恥を掻(か)かしたと同じような解釈をした経験もたくさんありはしまいかと思う。
他(ひと)に対する私の態度はまず今までの私の経験から来る。それから前後の関係と四囲の状況から
出る。最後に、曖昧(あいまい)な言葉ではあるが、私が天から授かった直覚が何分か働らく。
そうして、相手に馬鹿にされたり、また相手を馬鹿にしたり、稀(まれ)には相手に彼相当な待遇を
与えたりしている。

しかし今までの経験というものは、広いようで、その実(じつ)はなはだ狭い。ある社会の一部分で、
何度となく繰り返された経験を、他の一部分へ持って行くと、まるで通用しない事が多い。前後の関係とか
四囲の状況とか云ったところで、千差万別なのだから、その応用の区域が限られているばかりか、
その実千差万別に思慮を廻(めぐ)らさなければ役に立たなくなる。しかもそれを廻らす時間も、
材料も充分給与されていない場合が多い。

それで私はともすると事実あるのだか、またないのだか解らない、極(きわ)めてあやふやな自分の
直覚というものを主位に置いて、他を判断したくなる。そうして私の直覚がはたして当ったか当らないか、
要するに客観的事実によって、それを確(たしか)める機会をもたない事が多い。そこにまた私の疑いが
始終(しじゅう)靄(もや)のようにかかって、私の心を苦しめている。
411名無しの笛の踊り:2010/09/20(月) 00:47:35 ID:UV0LsBb+
もし世の中に全知全能(ぜんちぜんのう)の神があるならば、私はその神の前に跪(ひざま)ずいて、
私に毫髪(ごうはつ)の疑(うたがい)を挟(さしはさ)む余地もないほど明らかな直覚を与えて、
私をこの苦悶(くもん)から解脱(げだつ)せしめん事を祈る。でなければ、この不明な私の前に出て
来るすべての人を、玲瓏透徹(れいろうとうてつ)な正直ものに変化して、私とその人との魂がぴたりと
合うような幸福を授けたまわん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙(だま)されるか、あるいは疑い深くて
人を容(い)れる事ができないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に
充(み)ちている。もしそれが生涯(しょうがい)つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。