私は専ら、教材の準備などをしながら「小澤/サイトウキネンのブラームス・1番」です。
仕事はいつもブラームスでないといけません。大抵うまくゆきます。
特に1番(小澤/サイトウキネン)、3番(ヴァント)の4楽章など、クナのワグナー(ジークフリート・葬送曲やタンホイザー序曲etc…)と並びオートグラフの独壇場です。
あと「Vn.ソナタ」もいいですね。
特に感性も要らない、直観も必要とせず、急ぐこともない、堅固に理のみでゆく。
ブラームスは始まりがあり、理に適う積み重ねがあり、終わる。
モーツァルトはそうはいかない。
『始めに終わりが来るモーツァルト!』
モーツァルトをアナリーゼするなどという頓馬もおりましたが、モーツァルトは分析できませんよ。
円はどこで始まりどこで終わるのですか?
生きた鳥を解剖し標本にしても、もう空は飛びません。
お解りですか?
当然のことながら、標本でも空は飛びます。
908。
こう言う手合いを「真性の阿呆」と呼ぶ。森を見ずして一本の木の枝が気になって身動きが取れない手合い。
私はこの手の阿呆を「The Penrose Triangle 症候群」とも呼んでいる。
アシュケナージやアラウのショパン・ノクターン20番嬰ハ短調「画龍点睛を欠く演奏」だと申しているのですよ。
ピリスの「あの pianissimo」が龍の瞳だと。
楽譜がどうのアナリーゼがどうのと言っている人も「The Penrose Triangle 症候群」の危険がある。
同じ楽譜からどうしてこうも違う音楽が出て来るのか?
解釈などという言葉では如何ともし難い「あるもの」を感じないでいられる感性が、
私には逆におめでたく思える。
クナとヴァントのブル8・4楽章を100回聴きなさい。The Penrose Triangle を一目で「なし」と断じ、
「ピラミッド」という実在に至る精神がどちらにあるかを?
私がピアニストなら、音楽を弾き始めるまえに聴衆の存在は消えて、ひとり清里の聖アンデレ教会の蝋燭の炎が燈る一室で目を閉じ、一音一音に
集中しながら「悲愴を」「月光を」「作品109」を弾くことでしょう。
ブラームス・交響曲3番なら、「ヴァントが私のBest盤」ですよ。
念のため。