坊主は、絵画も文学も音楽も、何一つわかってないのは確実なようだ。
個性というのも精神性と同じように使い勝手のいい言葉だよな。
精神性の高い音楽や演奏は、すぐに飽きられる。懐メロになる。
その精神性が価値があると思ってるうちは、実際の価値よりも高く評価される。
宣伝で音楽を売る場合がこれにあたる。100年に一度の天才、本場ヨーロッパ仕込、
ドイツ正統派、などがこれにあたる。あのダビンチが書いた書いた〜、というのも同じ。
精神世界では、絶対的価値は存在しない。権威や権力とその歴史、つまり人間の精神で
価値を決める。また、時代によって過大評価されたり過小評価されたりする。
フルベンが善人であった場合と悪人であった場合には、聞き手が受け取る精神性は異なる。
またどちらか分からなかった場合の精神性もそれらと異なる。
オペラや西洋絵画・彫刻は、この先ヨーロッパが没落すると、見られなくなる可能性が高いと思う。
ただ、バッハ・モツ・ベトの音楽や西洋から生まれた数学・医学は何も変化しない。
この違いは価値の大小で決まるのではなく、精神性か非精神性かだけかの差。
地球上で精神性最高の存在のひとつは天皇。世界的に見ても、精神性最高のもの。
ローマ法王のキリスト教は、音楽や科学などの非精神性にかなり
サポートを受けている。音楽や科学が宗教のサポートを受けているのではないことに注意すべき。
精神世界は非精神世界の土台がないと成立しないが、
つまり自然があってはじめて人間が存在できるのだが、これが逆であると勘違いする人が多い。
文明が発展すると、世の中が人工物からなっているものと勘違いするようになる。
つまり人間がコントロールできるものの上に非精神性が存在すると勘違いするようになる。
邪魔だからもう来るなって
919 :
名無しの笛の踊り:2008/03/09(日) 15:22:46 ID:4VpZ/9fT
その迷いなく物事を言い切らねばならないとする強迫的な態度がまた初めからノーというために
理屈をこねるという君の態度そのものが何か宗教的なのだ。
そして君のいう医学、数学や科学が普遍の絶対的価値を今後も持ち続けるなどという保証はどこにもない。
どこかで聞いた熟語の羅列と一時の思いつきで表現のために文を綴ることがなんと虚しい事か、これは結局音楽的なんだろうか。
分かったからオチツケ
まあね、数学や科学云々以前の問題で、音楽が平均律になったとたんに
精神性→非精神性になるなんていってるDQNだから。
それに都合の悪い指摘は全部無視なので、関わっても無駄ですよ。
非精神的世界には基本的には答えがある。いい演奏、ダメな演奏がある。
それらは全て演奏者側と受け手の音楽性のもと、いいか悪いかは決まっている。
モツが嫌いな人はどう努力しても好きになれない。ベトが嫌いな人も同じ。
個人の音楽性の前には、精神でどうがんばろうと、嫌いなものは嫌いなのである。
どうしてもピーマンが食べられない人はいる。人格・人間性・精神性とは無関係。
同じものを食べても、満腹の時と空腹の時の味は違ってくる。
感覚器官・レセプターは同じだが、それを処理する脳の働きは異なる。
同じように、悲しんでる時と楽しい時の音楽は違う音になる。耳のセンサーは変わらないが、脳の処理の仕方は変わってくる。
文学でも泣くことはできるが、単に自分がその情景を想像して泣くだけ。
自分がそれまで経験した類似した状況に対して涙する。全く想像できない経験から涙することはできない。
指揮者にしろ、ピアニストにしろ、歌手にしろ、楽器を鳴らすのに必ず体を動かしている。
楽器の音とともに感情が現れている。口が動く人、時には涙が出る人もいる。
これらを止めて機械的に最適なフォームでも、同じ音を出すことはできない。
クラシック音楽は頭だけでは奏でることが出来ない。これらは音楽が頭だけの精神表現ではないことの証明。
そもそも演奏も自分の意志で行っているのかもあやしい。
普段の行動であんな速い動きはできない。むしろ弾かされてる、自然と体が動いてしまう感じがするのは楽器を弾く人なら感じるはず。
モツは得意なのにベトは苦手、とかいうのはこの肉体と頭の連動性のため。
精神性を使うと、肉体と頭との連動は断ち切られるため、音楽による得意・不得意はなくなる。運動能力だけの問題になる。
音楽は途中から演奏できないのも、また音を聞かずに音楽を奏でることができないのも、
楽器を弾いたことがある人なら分かるだろう。動いた状態だから、次の動きをすることができる。
音楽の場合、ある一部を取り出すことには何の意味もない。精神の力を使って、
音楽を分離したり、つなぎ合わせたり、速くしたり、ゆっくりすることはできない。
それらをしたら、全て違う音楽になる。つまり、違う感情になる。
文学では、基本スピードを変えたりしても同じ。文字と受け手の精神性だけから決まっている。
はいはい良かったね
おーい坊主、バッハの頃の西暦何年から音楽は非精神性になったんだ?
>バッハの頃の西暦何年から音楽は非精神性になったんだ?
何度も言うが、クラシック音楽は歴史の流れ、時間の流れでできたものではない。
紀元前のピタゴラスの定理と中世のニュートンの微積には何の関係もない。
いつの時代も精神性を示した曲は多く存在したし、そうした音楽はことごとく消滅してきた。
傑作音楽は人間や時代とは関係なく存在する。いくらモツだろうが、ベトだろうが、
駄曲の方が多い。全く演奏されない曲の方が多い。聞きたいと思った優れた曲だけが、
感情を示した曲だけがクラシックになる。クラシックかそうでないかは、作曲家の名前や時代では決まらない。
単純に長い間多くの人に演奏されてきたかどうか、それだけで決まる。
ベトソナにしても、全ての曲でベトの音楽性を示していても、基本的にはそれぞれの曲の間に関連性はない。
別の感情。違う曲として弾かれなければならない。32番は得意だけど熱情はダメ、あるいはその逆の人も当然いる。
ルネサンスの絵と印象派の絵は、時代も人も違うが、独立なものではない。まずダビンチを見てから、ゴッホを見るべき。
ダビンチの絵画は、ダビンチが書いたというだけで全てダビンチの精神性の元に解釈される。
そのため、彼の書いた絵で価値のない絵は一枚もない。絵の内容よりも、彼が書いたという事実の方が重要。
たとえ傑作でなかったとしても、傑作のためのステップとして全て意味がある。
駄曲には何の意味もない。効かない薬はいくら化学構造が似てようが薬ではない。
こうした非精神的な抽象化表現では、知識として知っていることは、何の意味もない。
むしろ最終的な答えだけを知っていることはマイナスになることが多い。
数学でもそうだが、勘違いしやすいのは、公式や定理を覚えればその抽象化表現を
獲得したと思い込む人が多い。先生が黒板に書いた式をノートに写せば、それでOKと勘違いする人がいる。
精神的世界は、他人の言葉を信じるだけでその世界を獲得できるが、
数学や物理のような非精神的世界は教科書を読んだだけでは、テストで1点もとれないのをみんな知っているはず。
自分でその定理・公式を導出できるぐらいに理解してないといけないし、逆に他人に習わずに獲得できるもの。
非精神的な抽象化表現は他人に習うことはできない。
教科書の文字や先生の言葉やCDの音はあくまでヒントであって、答えは自分の頭と体にしか存在しない。
逆にそれを獲得できたら、それが記述する無限の表現法を獲得できたことと同じ。
本を読んだり他人から話を聞いて知識を増すことは、音楽の練習をすることとは180度違う。
クラシック音楽では、スコアをたくさん知っていても、CDをいっぱい持っていても、全く意味はない。
プロでもなければ、無駄にたくさんCDを持っていることは、普通それだけで、ちゃんと聞こえてないと思ってよい。
演奏するだけでなく、聴く方も同じ。
むしろ枚数は少なくても、同曲の演奏、特に同じ人の演奏を多数持っている人は音が聞こえてる可能性が高い。
絵や文学では逆に、数多くのものを経験していること、見ていることが重要になる。
蔵書が多ければ多いほど、精神性は高いとみなしてよい。本棚にある本はほぼ理解されたと思ってよい。
ただ、あくまでもそれも精神性。そういう人は経験上、感性や感情が鈍くなるケースが多い。
>文学でも泣くことはできるが、単に自分がその情景を想像して泣くだけ。
貴方の場合は、ですよね?文学における芸術性は、情景や登場人物を使用した緊張感の加減と構成とにあります。
>クラシック音楽は頭だけでは奏でることが出来ない。これらは音楽が頭だけの精神表現ではないことの証明。
貴方の場合は、ですよね?脳内指揮についてはどうお考えで?個人的な経験をもとに証明された気分になられても…
>聞きたいと思った優れた曲だけが、 感情を示した曲だけがクラシックになる。
そういう淘汰説は、近年のルネサンス音楽への新しい光が妨げられているのは周知。
そんなに単純じゃないってことです。
貴方は随分音楽に肩入れしているようですが、
単純に、絵画でも、ある画家の芸術性を示していても、静物画、人物画・・・など基本的にはそれぞれの絵に関連性はない、
と言えてしまいますよ。
貴方の言うことはほとんど他の芸術にそっくり当てはまるってことです。
>文学では、基本スピードを変えたりしても同じ。
これには呆れました。詩を読むことや朗読において、感動はスピードの加減におおきく左右されますよ
>単純に長い間多くの人に演奏されてきたかどうか、それだけで決まる。
モツベトなら、過去何回くらい演奏されたものが傑作ですか?
何回以下だと駄作になりますか?
>>文学では、基本スピードを変えたりしても同じ。
>これには呆れました。詩を読むことや朗読において、感動はスピードの加減におおきく左右されますよ
詩は本来なら感情表現の音楽だと思う。音読すること、朗読することで価値が発生する。
単語の音・リズムを楽しむもの。具体性を排除したもので、言葉の定義から何かを得るものではない。
言葉をコードに置き換えて、つまり抽象化して表現する音楽表現。俳句・短歌・絶句のように通常音符の数を決めている。
当然コードだから、掛詞・韻・季語などが必須になる。
詩の朗読はテンポ・抑揚・リズム・音量で違う詩になる。音階が抽象化された音楽とも言える。
これはもちろん他ジャンルの音楽として成立している。
ただ原理上、スコアのない音楽はクラシックにはならない。
実際には、スコアのない純粋な詩は人類に共通な感情にはならない。これも自然の摂理で決まっている。
百人一首などはすばらしい叙情曲集だが、残念ながら正月の単なるゲーム大会としてしか存在していない。
優れたスコアがあれば、間違いなくクラシック音楽になったと考えられる。当然芸術ではない。
それ以外の書店などで売られているような詩集は、精神性を表す書き言葉として、
つまり文学として成立しており、本来の意味のうたではない。
やはりストーリーと切り離された抽象化された詩であるPOPS、ロックはスコアがあり、
こちらは半分クラシックと呼んでもよい。普遍性・絶対性を獲得できる可能性がある。
純粋な詩・音楽は音読・演奏しなければ無意味。スコアに意味はない。
やはり絶対性を得るためには、スコアが確定していることは不可分であると言わざるをえない。
定式化しなければ、普遍的な感情を記述することはできない。詩の朗読はどうしても精神性が入ってしまう。
定義は知らんが、朗読したら文学ではない気がするんだよな。
読み手の音が発生した時点で、作者の意図・精神性は捻じ曲げられてしまう。
つまり、読み方・音楽なら歌い方で内容は完全に変わってしまう。
ニュアンスが音に含まれてしまうから、文学ではないはず。
文学は黙読しかありえないと思う。
そこでは絶対的テンポは多分ないと思うんだが。その人の国語力と精神性だけで
テンポは決まる。速い人と遅い人で受け取る中身が変わってくるとは思えんのだが。
ベートーヴェンの曲は基本的には絶対的なテンポが存在する。
ベトのような絶対性が強い音楽では、多くの人が感じるテンポは共通したものになる。
確かにそれでも各人好みのテンポが違うが、それらは音楽性の違い。
人格・精神・思想とは関係ない。
物理データとしては、速度を10%速くしても全く変わらないが、音楽としては、
各人が脳内で変換することは絶対できない。全く違う音楽になる。精神性には、
絶対的テンポは存在しない。そこにある文字とその人がもつ世界観だけが大事。
別にどちらが偉いというわけじゃなく、
クラシック音楽は絶対的で非精神的に表現されるべきで、
クラシックな絵画や文学は精神的、かつ個人的に解釈されるべき、ということ。
基本的に人間には、精神性・人間性は一つしかない。その人固有のものであって、
破壊されたり不安定になることはあっても、広義では一つ。
ダビンチの個々の絵は、一つの精神の上に、その発展とともに描かれた芸術作品群。
感情は、人間共通のもの。精神の力で抑えても、この世に怒らない人は一人もいない。
喜ばない人も一人もいない。人間の力でどんどん蓄積されていくようなものではない。
>単純に長い間多くの人に演奏されてきたかどうか、それだけで決まる。
モツベトなら、過去何回くらい演奏されたものが傑作ですか?
何回以下だと駄作になりますか?
>単純に長い間多くの人に演奏されてきたかどうか、それだけで決まる。
それだけで決まる。それだけで決まる。それだけで決まる。それだけで決まる。
それだけで決まる。それだけで決まる。それだけで決まる。それだけで決まる。
それだけで決まる。それだけで決まる。それだけで決まる。それだけで決まる。
それだけで決まる。それだけで決まる。それだけで決まる。それだけで決まる。
933 :
名無しの笛の踊り:2008/03/20(木) 13:28:32 ID:JeMujL4D
ちょっと考え方が甘すぎやしないかね。
音楽に対する感性にはえらい自信があるようだが、その根拠は結局多数決の原理に拠っているだけではないか。
自分の感覚そのものを怪しいと考えることはないのかね?
自分の感覚つきつめてないから多数決に頼るんじゃないの
モツベトの曲でも、精神性と非精神性と2種類ある?
みんなに聞かれるものは非精神性でほとんど演奏されないものは精神性?
そんなバカなことあるはずないだろ。バカというより基地外レベルだなwww
精神とは基本的には、経験と概念・言葉の積み重ね。知的想像力のこと。人間固有と思われる。
音楽のヒントにはなるが、基本的にはクラシック音楽とは関係ない。
デジタルの書き言葉というのは、忘れない限り、同じ言葉は一度しか意味がない。
これでは、クラシック音楽は成立しない。
繰り返し、無限回聞かれることがクラシック音楽になるための必須条件。飽きてはいけない。
具体的なものは情報でしかない。一度しか意味がない。文学や絵はデータ。一度しか意味がない。
なぜそれが生き残るかといえば、実際には精神性を感じているから。受け手が受け取ってるのは字や光のデータではない。
具体的な情景が浮かばないのが、クラシック音楽。
熱情から、誰かががんばってる絵が浮かんだら、抽象化できてない。
月光から月が浮かんだら、抽象化できてない。
運命から何かの事件・事故が浮かんだら抽象化できてない。
おそらく田園も水田や麦畑を描いたものではない。具体的なイメージが沸くことなく、
自然に触れたときの幸福感と同じ感情が沸きあがったら、音楽が伝わったことになる。
精神はバーチャルなものだから、当然、人工的に人気を作ることもできる。
誰かが言った、「無批判に受け入れる」ことを強制できる。精神的なものは、
だますことと、教えることに明確な区別はない。なぜなら答えがないから。
精神的な音楽を含め、精神性には、価値があるかないかは答えがない。その人の思想で決まる。
かなり非精神的な裁判ですら、ローカル言語を使っている以上、正しい答えの判決はない。判決が正しい答え。
逆に精神の力を使って聞けば、フルトベングラーの音楽を全員が精神的に共鳴することは可能。
天皇の役割はこれ。精神的支柱ってやつ。宗教。精神性の高さだけが大事。
日本文化を知れば知るほど、精神性は高くなる。当然外国人には理解できない。
フルトベングラーの精神性は日本人には全く理解できない。
絶対的なクラシック音楽は非精神的なもの。ベートーヴェンもフルベンも嫌いな人がいる。
ほぼ100%の人間が共鳴する音楽は、精神性を受け取ったものの可能性が高い。
音楽は、どんなにがんばっても嫌いな人は嫌いなもの。
基本的に音楽性は個人に属するが、音楽性は精神とは異なる個々が独立なものと考えてよい。
食べ物と同じように、多くの種類を理解・消化できた方がよい。天然物として、生まれながらにしてみんなが理解できるもの。
例えばピアノなら、ショパンとベートーヴェンとバッハとモーツアルトの間には関連性はない。
好きな人の割合はショパン>ベト>モツ>バッハのような感じがするが、
4者の人々の好みの組み合わせに相関はあまり感じられない。独立性、直交性があるとしてよい。
こうした場合、クラシック音楽かそうでないかは知る術はない。逆にこれは、クラシック音楽が合理的に作曲できないことを示している。
調性がはっきりしているか、和声が単純か、コード進行が正しいか、といったことは全く意味がない。これらは、
人間が決めた1つの基準。抽象化された公式・定理が現実に合っているかどうかは、実験がなければ、証明できない。
その実験は、宣伝やテーマなどの精神性が影響しない範囲で演奏され続けるかどうか、現実の歴史から実証する以外ない。
多くの人に等しく受け入れられれば、クラシックであった、つまり楽理通りであった、とするしかない。
いくらある曲のスコアが他の曲に類似してようと、音楽性が近いことにはならない。
あくまで人間の設けた基準で似ていても、その音楽性が類似していることとは何も関係ない。
どんな人間も、スコアからクラシックであるかそうでないかを判定することはできない。
人間が共通してもつ遺伝子のようなものだから、一定の割合で世代を超えて共鳴されれば、クラシック。
別にその割合は低くてもよい。1個体の実験だけからは、何も分からない。
聴き手の精神に依存し、相性を求められる曲、演奏を「精神性が高い」といって、
聴き手の精神にあまり依存せずに、大衆から定評を受けるような曲、演奏を
「精神性が低い」と言う。
だから、「精神性が低い」というのは決して悪いことではない。
しかし、「精神性が低い」と言ってる本人もそれに気づいてない。
これが俺の解釈。
939 :
名無しの笛の踊り:2008/03/22(土) 18:12:23 ID:1qcK1shM
町の宗教女と同じレベル。
「精神年齢」という言葉通り、精神性は年齢が進めば高くなっていく。
「音楽年齢」という言葉はない。年をとったからと言って能力が向上するわけではない。
むしろ音楽家は、一発屋とか、昔は良かった、とか言われ、非常にプレッシャーの
大きい職業。一発屋は音楽家の宿命。精神性の発露では、こうしたことは起き得ない。
クラシック音楽として存在している抽象化した感情は、演奏の際にそれ以上精神性を積み上げても全く意味がない。
クラシックなスコアに精神性を付け足すことはできない。
付け足したら、音楽上の定理から外れる。クラシックではなくなる。
作品製作も絵や文学は精神性の発展の中で描くことができるが、
音楽はマンネリになってしまう。
数学でも音楽でも、頭の抽象化能力は、ある程度年老いると衰える。
高齢指揮者がいるが、あれは精神性を使って指揮をしているものを、聞き手が精神性を使って受け取っているもの。
精神性に基づいた音楽は、視覚情報で演奏者が確定している必要がある。当然その人の過去の演奏が分からないと、その精神性は分からない。
その精神性は、自分で直接聞いて導いた想像でもよいし、他人から聞いた歴史でもいいし、同時代の
絵画や芸術でもいいし、音楽評論家の言葉でもよいし、宣伝でもよい。情報は多ければ多いほどよい。指揮台にその高齢指揮者がいさえすればよい。
極端に言えば、演奏者が本人であると信じていればよい。そっくりさんでもよい。
もちろん、頭だけの問題だから、実際の指揮法や身振りは関係ない。
POPSのライブとかもこの原理を使っている。アンプを通してスピーカーから聞いているので、
音だけを聞くならば、録音を使えば歌手はいなくても同じ。POPSでは、歌手がそこにいることが重要。
歌手がいる場合といない場合では、客が受け取る精神性は変わってくる。
口パクでも、聞き手が口パクでないと思っていればよい。ただ、これが
成立するのは、演奏家や観客が指揮者や歌手の精神性を十分に理解している必要がある。当然、
劇音楽ならその劇の思想や背景を理解せずに聞いても十分に楽しめない。
クラシック音楽は、これとは正反対の音楽。音楽は音だけで決まる。
作曲の背景や思想・精神性を使うことなく、音だけで感情を活性化させる音楽。
衣装や舞台が味気ないのは、美術センスがないのではなく、美術表現と切り離すことで、
できるだけ具体的意味を排除するように配慮されているため。
阿吽の呼吸とか、雰囲気を察する能力は精神性そのもの。
長くその文化に接していなければ習得することはできない。
絵画や文学などは具体性を積み上げることで作品になる。
視覚は文化と時代が異なると、受け手の想像力で解釈するしかない。
音楽は文化や時代とは関係ないもの。
逆に言うと、異なる文化でクラシックになったものは、ほぼ間違いなくクラシック音楽
であると言ってよい。日本でクラシックになった西洋音楽はクラシックであると考えてよい。
ヨーロッパだけで演奏されている音楽は、クラシック音楽ではない。
なんか無定義語多すぎだな
944 :
名無しの笛の踊り:2008/04/04(金) 22:14:45 ID:dx7RwZ5Z
クラシック音楽聴くのに頭を使う必要がないということは分かったよ。
でもな、君の音の聴き方と他人の音の聴き方が必ずしも同じだとは限らないだろう?
少し疑問が沸いた。ではある曲には題名がないとしよう。しかしその作曲者の名が記されているならば、その名があるだけで少なくともその時代や国を思い浮かべてしまう
ということは否めないだろう。モーツァルトと知った瞬間、我々は何かしらのイメージを抱いてしまう。
とすれば、その曲に何かしらのイメージが付与されてしまうということは必然といえまいか?
これは精神のはたらきではなかろうか。音楽に限らず、あらゆるものはそれそのものだけではそのものたりえないのではないか?
差異や比較によってでしか存在できないのではなかろうか。
945 :
名無しの笛の踊り:2008/04/06(日) 09:32:01 ID:7O8+gjlB
心配するな。
どの指揮者や奏者も、少なくともここにいるお前らの誰よりも精神性は高い。
グダグダ言ってないで、聴け。
946 :
名無しの笛の踊り:2008/04/06(日) 09:35:21 ID:7O8+gjlB
>>1 しかも西洋の音楽や西洋の奏者を語るのに「東洋的諦観」??
カラヤンやフルヴェンの墓前で、己の幼児性を詫びて来い。
そーかそーか、最初から概念規定があやふやだったんだな(笑)
考えてみれば「精神性」を辞書風に定義できると思った俺がアフォでしたよ(爆)
このスレ、途中から変なヤツ1名のお相手をするスレになっちゃって、ちょっと残念
949 :
名無しの笛の踊り:2008/04/09(水) 08:07:07 ID:5rfVdt6z
17 :宇野珍ポーコー会長 ◆O3OQC/7qIA :2007/02/06(火) 08:18:46 ID:jGlv20zA
彡≡≡ミ
ω□-□ω
( 皿 )<精神性の固まりの昇華といえよう。ハアハア
人 Y / シコシコ
( ヽつ゜〜〜〜〜○ 〜〜〜〜○ 〜〜〜〜○ 〜〜〜〜○ ドピュッ ドピュッドピュッ ドピュッ
(_ω_)
18 :名無しの笛の踊り:2007/02/06(火) 08:42:01 ID:k8hvcP6j
それは精神性ではなく精子だ。知らなかったとは(後略)
[22:49:18]kanabun150709: ほおー
[22:50:03]kanabun150709: あー寝返りがうてないんだよなぁ・・・宿直室
[22:50:07]kanabun150709: そだねえ
[22:50:41]kanabun150709: ふむふむ
[22:57:01]kanabun150709: こんばんは〜
951 :
名無しの笛の踊り:2008/04/20(日) 01:32:28 ID:4+zLszvA
んじゃ例えば・・・
ポーコー師はフルベンの何に精神性を感じるんでしょうかね
用例(『フルトヴェングラーの全名演名盤』〜「運命」VPO'54年盤)
「・・・それでいてひびきは壮麗、フォルティッシモには精神の嵐が吹きしきり、スケールは極大で・・・」
なんのこっちゃい
コーホーは自分の脳内反応を記述してるだけ
曲や演奏についての情報としたらアフォ
?
音楽がクラシック化するためには、形式・様式化、つまり定式化することが絶対条件になる。これは自然の摂理で決まっている。
非精神的な自然現象はそのままでは人間・精神の手には負えない。
物理の定理がなければ人間は自然を理解できない。化学構造式なしに物質を理解できない。
こうした抽象化表現を言葉の暗記物と勘違いする人がいるが、精神的なことわざやスローガンなどと違って、記憶することに何の意味もない。
これらは精神的なものではなく、非精神的なもの。言葉では表現できない。人間には感情は定式化された音でしか描くことはできない。
確かに精神性が感情に影響を及ぼすことはある。
偽薬効果というものがあるが、薬だと思って飲むと、薬と同じ効果をもつことがある。
それでもやはり、くすり、つまり化学的に生理現象に関与する医薬は現実に存在する。
薬が有効かどうかは、偽薬と合わせた臨床試験で検証できる。音楽では、長い歴史の中で演奏され続ければクラシック。
もちろん普通の人はモツやベトの名前から偽薬効果を受け取るが、それでも精神性に依存しない感情表現が確実に存在する。
音楽ではそうした精神性にだまされないために、先入観とか常識から自由であることが最も大事になる。
音楽の敵はそうした精神性。いつしか、伝統と勘違いして手垢がたまってくる。絶対性を失う誤解が広まるケースがある。
自分の感情に忠実になれず、余計な精神性を入れてしまうようになる。クラシック音楽は歴史や経験の積み重ねではない。
一度しかない感情表現。余計な知識はマイナスになることが多い。
クラシック音楽では練習が重要だが、そこでは精神性を高めてるわけではない。
勘違いしやすいのは、劇の練習のように予定調和をはかるためのものではないということ。
頭と体を一体化させるために行うもの。つまり精神が働く過程を消すためのもの。
十分に練習すると、頭で考えずに演奏できるようになる。自然に音を出せるようになって感情表現になる。
フォルテも、絶対的にfでなければいけないから自然にフォルテになるのであって、精神のありように応じてpに変えたりしてはいけない。
指示記号は作曲家が「指示」したものではない。書いていることはほぼ正しいが、書いてないからといって自由というわけではない。
かならず答えがある。個々の精神に応じて不定形にしてはいけない。
ただし、感情の揺れとして演奏は常に変化する。これは演奏そのもの。音楽そのもの。CDでは分かりづらい。
音楽ではそうした精神性にだまされないために、先入観とか常識から自由であることが最も大事になる。
音楽の敵はそうした精神性。いつしか、伝統と勘違いして手垢がたまってくる。絶対性を失う誤解が広まるケースがある。
自分の感情に忠実になれず、余計な精神性を入れてしまうようになる。クラシック音楽は歴史や経験の積み重ねではない。
一度しかない感情表現。余計な知識はマイナスになることが多い。
クラシック音楽では練習が重要だが、そこでは精神性を高めてるわけではない。
勘違いしやすいのは、劇の練習のように予定調和をはかるためのものではないということ。
頭と体を一体化させるために行うもの。つまり精神が働く過程を消すためのもの。
十分に練習すると、頭で考えずに演奏できるようになる。自然に音を出せるようになって感情表現になる。
フォルテも、絶対的にfでなければいけないから自然にフォルテになるのであって、精神のありように応じてpに変えたりしてはいけない。
指示記号は作曲家が「指示」したものではない。書いていることはほぼ正しいが、書いてないからといって自由というわけではない。
かならず答えがある。個々の精神に応じて不定形にしてはいけない。
ただし、感情の揺れとして演奏は常に変化する。これは演奏そのもの。音楽そのもの。CDでは分かりづらい。
なんだか変な新宗教みたいになってきてるな
何でみんな相手してくれなくなったかわかってる?
959 :
名無しの笛の踊り:2008/05/11(日) 18:55:34 ID:HbLH1F8T
芸術は深淵のなかに降りて行く権利を持っている。
また、暗鬱な、荒涼とした魂の奥底まで忍び込む権利を持っている・・・
ただ、この権利は義務ではない。
(カミュール・サン=サーンス)
久しぶにのぞいて見たら、変な坊主まだいるのか
どうせクソスレだからどうでもいいが
961 :
名無しの笛の踊り:2008/06/07(土) 14:17:22 ID:Q5ySxH6P
精神性(笑)
962 :
名無しの笛の踊り:2008/06/08(日) 19:33:09 ID:PJTcFTPW
精神性あげ
古便という単語とセットで使うとあら不思議、あなたはスレの嫌われものになります
963 :
名無しの笛の踊り:2008/06/09(月) 20:07:32 ID:w1oZDkrl
ぎゃぼー
>>962 同意、精神性という言葉でしか説明できないときは、説明責任を放棄したのに等しいのだけどね