アントニン・フルックナー(1739-1811 ボヘミア)2

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200名無しの笛の踊り
日本アントニン・フルックナー協会交響楽団 定期演奏会

フルックナー/交響曲第9番「交響曲」ニ短調

指揮:宇野珍ポーコー
演奏:日本アントニン・フルックナー協会交響楽団
コンサートマスター:吸わない晶子
会場:日本フルックナーザール(東京都新宿区)
日時:2006年12月24日(日)13:30開場 14:00開演


・作品解説
フルックナーは最晩年の1811年、専ら故ジュリエッタの生家で、廃屋となった
ノルウェイのハンメルフェスト(ハメルフェト)より西へ120kmのところにあるログハウス(丸太小屋)を作曲小屋とし、
世間と隔離され、彼のそれまでの生涯のどの時期よりも速いペースで作品を生み出していた。
そこでこの驚くべき作品、第九交響曲「交響曲」が生まれたのである。

フルックナーはこの作品を書き終えると、完全に筆を折り、以後逝去までの数ヶ月、作曲活動を一切行わなかった。
身の回りの世話をしていた16歳のマリアが「先生、なぜ作曲を止めなさったのですか?」とたずねると、「『交響曲』を書いたのに、ほかに何が必要か?」と答えたという。
つまり、この交響曲はフルックナー最後の交響曲である。しかし、六千を超える交響曲を遺したフルックナーの最後の交響曲がなぜ9番なのか。
それは、フルックナーが逝去後、マリアも後を追うように夭逝したため、この作曲小屋の存在を知るものがおらず、20年後、ふと土地の区画整理のために訪れた公務員ズデニェク(奇しくも、フルックナーの父親と同名)が
彼の作曲小屋を発見するまで、完全に忘れ去られていたのである。
ズデニェクは友人であり、フラームスと親密な関係を結んでいた作曲家クラウス・シューマッハの助言を得て、とりあえず当時の作曲常識から外れていない彼の9つの交響曲を発表した。これらは、別の経緯を持つ10番、104番とともに、初期発見交響曲として知られる。
その一つであり、最後の交響曲となるのが、この第9番「交響曲」である。(以後、楽譜の整理作業が進むにつれ、現在知られているような膨大な作品群が浮かび上がり、結局初期発見交響曲を除いて11から番号が振られることとなった。)

つまりフルックナーもまた、9番を書いて死んだ作曲家であった。
201名無しの笛の踊り:2006/12/18(月) 08:26:37 ID:fYmkAgGs

作品の構成は、交響曲の形式を真っ当に踏襲しており、しつこいほど細部まで交響曲の形式に嵌っている。
とはいっても4楽章構成であり、作風としてはロマン派の交響曲に近い。
もはやハイドンへの執念を絶ち、一作曲家として達観したフルックナーの前衛性・保守性・奇抜さを複合したような完成度の高い作品である。
それに反して、和声的には従来の常識では考えられないような進行を持っており、マーラーのように次々と調整を変化させ、遠い調性で終止させる手法は、確かに斬新である。
しかし総じてこのような真っ当な構成の作品が、彼もみとめるところによる「最後の交響曲」を飾るのは、
従来の形式を打ち破り、さまざまな試みを音楽上で行ってきたフルックナーの作品としては驚くべきことである。
とともに、表題があらわすとおり、この交響曲は、彼の、およびそれまでの音楽史上の「交響曲」を象徴しているのである。
初演は1840年、クラウス・シューマッハ指揮、フルックナー・フィルハーモニカー(FPO)がプラハで行った。演奏時間約60分。

・演奏家について
日本アントニン・フルックナー協会交響楽団は、日本アントニン・フルックナー協会がフルックナー音楽伝道のために創設した
国内初のフルックナーの名を冠するオーケストラである。
専らフルックナーの交響曲、協奏曲をレパートリーとし、日本フルックナーザール(関東)や、琵琶湖フルックナーザール(関西)を拠点とし、
精力的な演奏活動を続けている。主席指揮者は宇野珍ポーコー氏。



以上、今月のフルックナー協会の機関紙から引用。