>>852 棒掲示板で見つけたので転載。
行頭記号☆は古楽器、○はモダン楽器による演奏。●はカットのある演奏です。
指揮者/器楽/福音史家/イエス(録音年)
●メンゲルベルク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管/エルプ/ラヴェリ(1939)
大胆なカットとデフォルメーションで、他の録音にない唯一の世界を作り上げています。
独自の情熱的表現は、あたかもミケランジェロの偉大なピエタのように聴き手の心を直接捉え揺さぶります。
ただ、このピエタはトルソであって、カットの多いこの演奏だけで『マタイ受難曲』のすべてを語ることはできません。
ポルタメントを多用し大きくテンポを揺らしながらもアンサンブルが乱れないのはさすがですし、寄せては返すフレージングは、時に船酔いに似た効果をもたらしながら聴き手引き込んでいきます。
録音は悪く、特に高声部が雑音にマスクされがちなのは残念です。
●ラミン/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管/エルプ/ヒュッシュ(1941)
メンゲルベルク盤同様カットの多い演奏で、福音史家も同じエルプが歌っています。
しかし、この二種を聴き比べると、メンゲルベルク盤に聴かれる、大戦中の何かに取り憑かれたかのような追い詰められた熱気と、この演奏に感じられる自省と客観性が見事な対照を成しているように思えます。
そして、そのどちらもが『マタイ受難曲』という一作品に結実しているわけですから、歴史的録音/モダン楽器/ピリオド楽器などといったカテゴリーで安易に演奏を語る危険性をつくづく感じさせられます。
大急ぎで一言言い添えておくと、ラミンの演奏は客観的といっても決して冷たいものではありません。
そのアプローチは、厳しい検閲とカットによってバッハのテクストがずたずたにされる中で、ほの見えるかすかな希望を手繰り寄せるかのようなバッハへの深い共感に根ざすもので、後年のリヒター盤を予感させる厳しい造形感覚と熱い思いが共存している名演だと思います。
○レーマン/ベルリン放響/クレプス/フィッシャー=ディースカウ(1949)
この時代としては画期的なカットなしのライブ録音です。
緩急の振り幅が非常に大きい演奏で、おおむねアリアや各部の終曲は遅く、群集を描く合唱部分は最近の古楽演奏のように速く演奏されます。
通常1分台で歌われることの多いテノールの伴奏付レチタティーヴォO chmerz!(「おお、痛みよ!」)は
3分39秒という遅さですし、ブリュッヘン盤が5分7秒で演奏している第1部の終曲 O Mensch bewein dein Suende gross(「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」)などは、なんと9分以上もかかっています。
(ただしクレンペラーはこの曲を11分1秒!超絶的な遅さです。)
ライブですから歌手に完璧を求めることはできませんが、時代の記録としては大きな不満はありませんし、音は貧しいですが聴き難さは感じません。
○カラヤン/ウィーン響/ルートヴィヒ/シェフラー(1950)
バッハフェスティバルでのライブ録音です。
冒頭合唱で第一コーラスと第二コーラスをきちんと分離させ、第二コーラスの問いかけを鋭く強く歌わせるところなどは後年の古楽演奏と共通する解釈で驚かされました。(ただし、マイクの制約などの影響で、そう聞こえる可能性もあります。)
アリアは概ね、ゆったりとしたテンポでレガートに歌われる一方、レチタティーヴォはルートヴィヒの美声を活かして十分に緩急の変化を付け、ドラマティックに歌いあげられます。
合唱も、ときに早すぎるほどのテンポでドラマをサポートしますが、70年のスタジオ録音盤のように全てレガートで塗りつぶされるのではなく、比較的はっきりと一つひとつの言葉を伝えていきます。
録音は良いとは言えず、かなりの雑音を覚悟する必要があります。
●フルトヴェングラー/VPO/デルモータ/フィッシャーディースカウ(1954)
きわめて遅いテンポで集中力をもって歌われるコラールは、神秘的といってもいいほどです。
その凝縮された響きには、宗教的な畏敬というよりも、ちょうど同じころに録音された『トリスタン』にも通ずるある種の官能性さえ感じられるように思います。
フィッシャー=ディースカウのイエスは若々しく魅力的で、このためだけにでも聴く価値は十分にありますが、残念なことに録音はよくありませんし多くの曲がカットされています。
○ヴェルナー/プフォルツハイム室内管/クレプス/ケルヒ(1958)
クレプスの福音史家は決して大げさにならず、聴かせどころのペテロの否認などでもむしろ淡々と語っていくのですが、それだけに次のアリアの痛切さが胸に響きます。
ここでのヴァイオリンのオブリガートは、時に即興的な修飾を交えながらアルトと対等かそれ以上に聴き手に訴えかけてくるようです。
合唱は最近の古楽系合唱団のような際立った技術やアンサンブルなどはないのですが、コラールでのゆったりとしたテンポや各声部がやわらかくブレンドされた落ち着いた響きには満ちたりた安心感が感じられます。
○リヒター/ミュンヘンバッハ管/ヘフリガー/エンゲン(1958)
造形感覚に優れた演奏で、その引き締まったフォルムは、厳しい造形性と劇的な内面表現を両立させたという点において、ロダンの彫刻と比較できるかもしれません。
過剰な表現は厳しく抑制され、ここで起こるすべてのできごとは、クライマックスとして設定されたWahrlich dieser ist Gottessohn gewesen.(「まことにこの人は神の子であった」)の一句へ向けて驚くべき集中力で収斂していきます。
また、特筆すべきは、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウが歌うバスアリアです。
表現の清澄さと奥深さ、歌に込められた願いの純粋さ切実さ、そして、それを的確に聴き手に伝える技術は、他のすべての録音から大きく際立っています。
この後のマタイ受難曲の演奏は、すべてこのリヒター盤を乗り越えようとするところから始めなければなりませんでした。
○クレンペラー/フィルハーモニア管/ピアーズ/フィッシャー=ディースカウ(1961)
壁画のような壮大なスケールをもつバッハです。
しかし、決して大味な演奏ではなく、冒頭合唱から強調された木管の線がくっきりと絡み合い、バッハのスコアを構造的に再現していきます。
その丹念な筆致が、凄まじいまでの緊張感を醸しだし、音楽はその遅いテンポにもかかわらず一瞬たりとも弛緩することがありません。
残念なのはいくつかのアリアで演奏者が指揮者の要求するテンポ感についていけない場面があることです。
○ミュンヒンガー/シュトゥットガルト室内管/ピアーズ/プライ(1964)
合唱のソプラノとアルトに少年合唱を起用した意欲的な録音ですが、同じように少年合唱を起用した後年のアーノンクール盤(1970)やレオンハルト盤を知っている私たちには、どうしてもコンセプトの徹底が不足しているように感じられます。
また、合唱を重視する人は技術的にも不満を覚えるかも知れません。
しかし、この演奏の先駆的な意義は決して色褪せるものではありませんし、なんといってもソリストが素晴らしいのは大きな魅力です。
福音史家のピアーズの出来はクレンペラー盤を上回りますし、プライのイエスには本当にほれぼれとさせられます。
きっとイエス本人もこのように魅力的な人だったに違いないと思わせるような歌唱です。
ソプラノはアメリンク、そしてテノールはヴンダーリヒが歌っています。
特にヴンダーリヒのテノールは、見事な声と歌詞に対する天才的な敏感さを兼ね備え、まさに完璧といってもよいほどのものだと思います。
○ヨッフム/アムステルダム・コンセルトヘボウ管/ヘフリガー/ベリー(1965)
超特大編成のオーケストラと合唱団による厚みのあるマタイ受難曲を聴くことができます。
といっても、決して力に任せた演奏ではなく、全体はむしろ静かに淡々と進んでいく印象です。
ヨッフムの安定感と奇を衒うことのない誠実な音楽作りは、モダン楽器による大編成であっても、バッハの音楽を損なうことなく聴き手に伝えることができることを見事に示しています。
マタイ受難曲3
○ゲッチェ/ハイデルベルク室内管/ピポネン/ケーニヒ(1970?)
荒削りですが、ソリスト、合唱ともに水準は高く、表現に躍動感があって飽きさせません。
通奏低音でもしっかりと大きなビブラートをかけて全体をリードするチェロがユニークです。
☆アーノンクール/ウィーンコンツェントゥスムジクス/エクヴィルツ/リーダーブッシュ(1970)
初めての古楽器使用、全員男性による録音です。
当時、この演奏がいかに衝撃的であったかは、冒頭合唱のテンポを比較するだけでもよくわかります。
この演奏以前の上記10種を見ると、冒頭合唱の平均演奏時間は9分半、最長のクレンペラーにいたっては11分47秒もかかっています。
しかし、この録音では7分29秒、上記10種で最短のゲッチェ盤が8分26秒ですから一気に1分近くも記録を更新したわけです。
この演奏の魅力は斬新なテンポ感だけではありません。
少年合唱によるソプラノ、アルトパートの清冽な響き、バッハの自筆譜を深く読み込んだ上での表現の大胆さなどまさに目から鱗が落ちる思いの連続です。
ちなみに、このアーノンクール盤以降の録音で見ると冒頭合唱の平均演奏時間はちょうど7分30秒。
この演奏が今日のマタイ受難曲演奏の流れを創ったと言っても過言ではないかもしれません。
○マウエルスベルガー/ライプツィヒゲバントハウス管/シュライアー/アダム(1970)
質実で簡素な力強さが聴く者の心をしっかりと捉える演奏です。
合唱、ソリスト共に、発音にバッハが長くカントルを務めたザクセン地方のイントネーションを色濃く残しており、その伝統に根ざした風格は他の演奏とは一線を画します。
シュライアーのエヴァンゲリストは若々しく、彼にしては端正と言っても良いほどで、他の録音で見られるように一人で浮き上がったりせず、全体の中で見事に存在感を示しています。
ちなみに、マウエルスベルガー盤の冒頭合唱は8分50秒、同じ年に録音されたアーノンクール盤と比較するとあまりの表現の違いに驚かされますが、両盤とも名盤たるに恥じません。
徹頭徹尾異なったこの両者を共に許容するところに、『マタイ受難曲』という作品の恐ろしいまでの懐の広さを感じさせられます。
○カラヤン/BPO/シュライアー/フィッシャーディースカウ(1972)
驚かされるのは通常4分半ほどで演奏されるバスアリアGerne will ich mich bequemenを、なんと7分もかけて演奏していることです。
3分14秒で演奏しているダウス盤に比べると2倍以上のゆったりとしたテンポになります。
フレージングも徹底して音を繋げていて、他の演奏では聴くことのできないものになっており、言葉はここではレガートに美しく旋律線を描き出すための道具として使われているようです。
マタイ受難曲が、メロディーだけを取っても大変美しい曲であることを教えてくれる演奏ですが、私がこの録音を聴き返すことは多くありません。
○リリング/バッハ・コレギウム・シュトゥッツガルト/クラウス/ニムスゲルン(1978)
決して派手さはありませんが奇を衒うことのないしっかりとした演奏です。
福音史家のクラウスは気品をもって端正にできごとを語っていきますし、アルトのユリア・ハマリも優れた歌唱を聴かせています。
リリングのマタイを聴きたいと思ったときに、華やかな新録音よりもこちらを選ぶという方も多いのではないでしょうか。
From nekonya To juncoop5@goo at 2004 12/10 23:07 編集 返信
マタイ受難曲4
○ウィルコックス/テムズ室内管/ティアー/シャリー=クァーク(1979)
珍しい英語による全曲録音です。
しっかりとした演奏ですが、英語で歌われるマタイはやはり違和感が強く私などは聴き疲れしてしまいます。
バッハがどんなにドイツ語のディクションを大切にしていたかということがよくわかります。
○リヒター/ミュンヘンバッハ管/シュライアー/フィッシャーディースカウ(1979)
1958年の録音とは対照的に重厚感溢れる演奏です。
第一部は、ゆったりと流れるというより、空気は重く非常に深刻ですが、不思議なことに緊張感はあまり感じられません。
第二部に入ると流れは良くなり、シュライアーは受難ドラマを情感をこめて劇的に歌い上げ、ベイカーの大きなビブラートが悲壮感を高めます。
しかし、全体にどこか弛緩した感じがつきまとうのは、58年盤の記憶が強烈すぎるからでしょうか。
○コルボ/ローザンヌ室内管/エクヴィルツ/ファルスティシュ(1982)
広がりのある柔らかな合唱が、演奏全体に統一感を与えています。
エクヴィルツの柔らかな福音史家など感心する部分も多い演奏ですが、イエスを歌うファルスティシュをはじめ、ソリストに「言葉」より「声」を誇示する傾向が耳につくのが残念です。
たとえば、ソプラノのマーシャルの少年を思わせる清潔な声は、この曲のアリアを表現するのにまさに理想的であるように思えるのですが、過剰なビブラートがその実現を妨げているように思えます。
○シュライアー/ドレスデンシュターツカペレ/シュライアー/アダム(1984)
冒頭合唱のリズムを聴くだけで、まずその大胆な解釈に驚かされます。
シュライアーのエヴァンゲリストは後年になるほど饒舌になっていきますが、ここでも非常に雄弁、オルガンもときにやりすぎではないかと思えるほどに弾いています。
器楽、合唱ともに演奏のディテールに独自のアイディアを数多く取り入れ、リズム処理やアーティキュレーションも凝っていますが、果たして成功しているのか、賛否は分かれるところではないでしょうか。
From nekonya To juncoop5@goo at 2004 12/10 23:08 編集 返信
マタイ受難曲5
☆ヘレヴェッヘ/コレギウムヴォカーレ&シャペルロワイヤル/クルック/コールド(1984)
抑制の利いたストイックな表現の中で、磨き上げられたフレーズを一つひとつ積み重ねることにより、陰翳に富んだ深い音楽を作り出しています。
ヘレヴェッヘの美点は、細部へのこだわりが決して不自然にならないことで、全体は楽々と呼吸し、音楽の流れは滞ることがありません。
たとえば、最初のコラールHerzliebster Jesuをガーディナーと比較してみると、この指揮者の特質がよくわかります。
両者とも最高の技量をもった合唱団による優れた演奏ですが、モンテヴェルディ合唱団がわずか38秒でさらりと歌っているのに対し、コレギウム・ヴォカーレは51秒(平均よりやや速いテンポです)をかけて、言葉を噛みしめるように歌います。
そのときの、Schuld(罪)の語の重さ!
胸に突き刺さるように響くこの一語、一音だけで、バッハが『マタイ受難曲』に込めた思いの一端が十分に開示されているように感じられます。
そして、この演奏をさらに素晴らしいものにしているのは、演奏者たちすべてに感じられるひたむきさです。
シュリックの清純なソプラノ、クルックの真摯で感動的なエヴァンゲリスト、コールトの若々しく優しいイエス、美しくも苦味のあるブロホヴィッツのテナー、テクストの深い読みを的確な表現で聴かせるコーイ、
そして深い情感を驚くべき声のコントロールと技巧で描き出すヤーコプス。
優れた通奏低音陣にサポートされて、ソリストたちは、それぞれのキャリアの中で最高とも思える出来を示しています。
マタイ受難曲の演奏をいくつか手元に置いておこうと思うならば、必ずその中に入れていただきたい演奏です。
○ショルティ/シカゴ交響楽団/ブロホヴィッツ/ベーア(1987)
美声のエヴァンゲリストとオペラテックなアリアによって劇的な盛り上がりを見せるマタイですが、
コラールは意外にも(失礼!)デリケートにコントロールされ、きっぱりとした聖書テキストの部分と見事なコントラストを描いています。キリ・テ・カナワのアリアはオペラ的ですが大きな存在感があります。
きびきびとしたテンポでドラマチックに受難を描くマタイです。
☆ガーディナー/イングリッシュ・バロックソロイスツ/ロルフ・ジョンソン/シュミット(1988)
洗練された美しさと機能美に溢れるスタイリッシュなマタイです。
ピリオド楽器による演奏の中ではダイナミクスの幅が広く、強弱のコントラストを上手く使ってぐいぐいと音楽を前に進めていきます。
モンテヴェルディ合唱団の素晴らしさは、言うまでもなくこの録音の大きな魅力です。
有名な受難コラールO Haupt voll Blut und Wundenでも、器楽を最小限に抑制することにより、この優れた合唱団の威力を十分に活かした演奏となっています。
しかし、器楽も含めて、フレーズを短く切っていくあまりにも直線的な音作りには、今や「一時代前の古楽演奏」のイメージを抱かれる方もいらっしゃるかもしれません。
ソリストでは、若きバーバラ・ボニーのソプラノや、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターとマイケル・チャンスによるアルトとカウンターテナーの競演など聴き所が多くあります。
☆レオンハルト/ラプティットバンド/プレガルディエン/エグモント(1989)
1970年のアーノンクール盤と同じく全員男性の歌手を起用してバッハ当時の演奏の再現を企図しています。
しかし、その表現はなんと違うことでしょう!
アーノンクール盤が、作品の持つ可能性を外に向かって表出してみせたのに対し、レオンハルトはひたすら作品の内側に沈潜します。
全体に素朴で飾らない演奏で、コラールなどは武骨なほどですが、劇場的な演出や効果のための恣意的な表現を排し、一途にバッハのテクストを掘り下げていく姿勢には強く心を打たれます。
ソリストは、プレガルディエンの万全の福音史家をはじめ、若々しく魅力的なエグモントのイエス、テルツ少年合唱団の二人の少年による清純なソプラノ、ヤーコプスのアルト、メルテンスのバスなど。
オーケストラは、コンサートマスターのシギスヴァルト・クイケンが器楽陣の指揮を兼ね、寺神戸亮、フランソワ・フェルナンデス、スタース・スヴィールストラ(以上Vn.)、マルレーン・ティアーズ(Vla.)、
リヒテ・ファン・デル・メール(Vc.)、バルトルト・クイケン、マーク・アンタイ(以上Fl.)、パウル・ドンブレヒト、マルセル・ポンセール(以上ob.)、ピエール・アンタイ(org.)、ヴィーラント・クイケン(gamb.)など、
まさに当時の古楽界の総力を結集したような豪華な顔ぶれになっています。
○ツー・グッテンベルク/バッハ・コレギウム・ミュンヘン/アーンシェ/プライ(1990)
モダン楽器による骨太で劇的なマタイです。
表現の幅が大きく、雄弁な通奏低音(チェンバロ使用)がそれを支えます。随所に工夫が凝らされていますが、対象の掘り下げが深く、真正な感情に溢れているので、作り物めいた感じは一切ありません。
特にスビトピアノを駆使したコラールでの表現力の豊かさは驚くばかりで、受難コラールO Haupt voll Blut und Wundenでは、なんと3分17秒もかけて切々と歌い上げています。
これは、リヒターはもちろん、メンゲルベルクやクレンペラーよりも遅く、70年以降の平均演奏時間とは約1分もの隔たりがあります。
他にも、ペテロの否認を最も長い時間をかけてたっぷりと聞かせているのも70年以降ではこの指揮者の2種の録音ですし、このようなロマン的な表現が随所に聴かれ、しかもそれがバッハの音楽をまったく損なうことなく見事にツボにはまっているのは驚くばかりです。
プライはさすがに風格豊かなイエスを聞かせますが、一人だけ旧バッハ全集の部分があるなど歌い癖が感じられ大物歌手起用の難しさを思わせます。
しかし、そうした点を考慮しても、練り上げられた表現は非常に説得力があり、モダン楽器でどれかひとつを選ぶとすれば、現時点ではこの演奏になるかもしれません。
☆コープマン/アムステルダムバロック管/ド・メ/コーイ(1992)
メッサ・ディ・ヴォーチェを多用する非常に軽く速い合唱と雄弁なオルガンが独自の雰囲気を形作っています。
合唱は独特の浮遊感があり、フレーズの途中でのメッツァ・ヴォーチェにはドキリとさせられます。
全体に、とてもすっきりとした演奏で、そのあたりに物足りない印象を受ける方もいらっしゃるかもしれません。
ソリストでは、ソプラノとカウンターテナーがやや弱く、コーイのイエスも普段に比べて控えめの感があります。
●シュペリング/ダス・ノイエ・オルケストラ/ヨッヘンス/リカ(1992)
メンデルスゾーンによるマタイ受難曲蘇演を再現した録音です。
有名な第2部のアリアErbarme dichが、なんとソプラノで歌われていることをはじめ、普段聴きなれている響きとの違いに驚かされる箇所がいろいろとあります。
しかし、演奏は真摯で優れたもので、単なる珍品と言ってしまうことはできません。
この演奏を聴いていると、いろいろな感慨をおぼえます。
私たちがこうして『マタイ受難曲』という人類の至宝のような音楽を聴くことができるのも、バッハ本人はもちろんですが、それ以外にも多くの人々の大変な努力と苦労によるものであること、そしてその中でもメンデルスゾーンの果たした役割は非常に大きかったこと等々。
最新の研究成果を反映した演奏とはまったく違う響きですが、この響きは当時の人たちのバッハに対する真剣な思いと情熱が生み出したものです。
そう考えると、結果的にバッハの意図を損なっているような箇所があったとしても、これを一概に「当時の誤り」として片付けることはできないのではないでしょうか。
少なくとも私はこの演奏に、最新のピリオド楽器による演奏と同じくらい大きな感動を与えられました。
☆クレオバリー/ブランデンブルクコンソート/コーヴィ=クランプ/ジョージ(1994)
エマ・カークビー、マイケル・チャンスのソロアリア、グッドマンの装飾を多用したヴァイオリンソロ等聴き所の多い演奏です。
器楽と合唱はあっさりとしていますが、コーヴィ=クランプの福音史家は独特の粘りがあり、好き嫌いが分かれるかもしれません。
○リリング/バッハ・コレギウム・シュトゥッツガルト/シャーデ/ゲルネ(1994)
伝統的な表現をしっかりと受け継いでいた78年の録音と比べると独自の表現が多くなり、指揮者の強い意欲を感じさせます。
そこにはピリオド楽器による演奏の影響も強く感じられますが、基本となっているのは厳しく磨かれた合唱で、随所で聞かれる指揮者のさまざまな工夫を見事に実現しています。
また、ソリストの発音も統一され、それがドラマの流れをスムーズにしているため聴き手を飽きさせない演奏になっています。
ただ、個人的な感想ですが、それらの細部の工夫やピリオド奏法からの影響がいくぶん表面的に流れ、感情の奥底まで音楽が届いてこない恨みがあるようにも思います。
シャーデの福音史家が時にうるさく感じられてしまうのも歌い手だけの責任ではないかもしれません。
ゲルネのイエスは非常に優れています。
From nekonya To juncoop5@goo at 2004 12/10 23:10 編集 返信
マタイ受難曲7
☆マックス/ライニッシェ・カントライ/プレガルディエン/メルテンス(1996)
CD2枚に収まっていますが、しっかりとした楽譜の読みに基づいたテンポ設定がされていますので速すぎる印象はありません。
切れと勢いある合唱は驚くほどうまく、器楽も緊密なアンサンブルを聞かせます。
なんといっても圧倒的なのは聖書記事の部分で、速いテンポの中で繊細にテクストを音化していくエヴァンゲリストとイエスの組み合わせは、数多くの録音の中でもこのマックス盤がベストかもしれません。
ただし、メルテンスのイエスには威厳とか荘重さは全くありませんが。
他のソリストもアルトのノーリンをはじめ、ビブラートの少ないよく伸びる清冽な声で統一され、非常に高いレベルでよく歌っています。
ただ、ソプラノのアリアは、フリンマーに一人で歌ってほしかった気がします。
○小澤/サイトウキネンo/エインズリー/クヴァストホフ(1997)
クヴァストホフの劇的なイエスと、シュトゥッツマンの深い声が印象的です。
オルガンも雄弁で、エインズリーの語りを効果的にサポートします。
基本的には受難ドラマに焦点を当て、アリアではバッハ特有の舞曲のリズムを上手く活かしながら情感を盛り上げていきますが、時にあまりに「ドラマ」に傾きすぎるきらいがあるように思います。
☆グッドウィン//ミュラー/ジャクソン(1994)
こちらもCD2枚に収められています。
全体にすっきりとしていますが、物足りなさはありません。
冒頭合唱のコラールは少年合唱ではなくオルガンで旋律が演奏されるだけなので注意が必要です。
☆ブリュッヘン/18世紀o/ニコ・ファン・デル・メール/ジグムントソン(1996)
合唱、器楽とも非常に水準が高く、技術的な事項に関する限り、古楽器演奏に関する偏見は完全に過去のものになったと感じさせる演奏です。
いくつかのアリアやコラールでは、とにかくテンポが速く驚かされます。
特に各部の終曲は、第1部5分7秒(平均6分25秒)、第2部4分56秒(平均6分12秒)と、それぞれ私の手元にある録音中最速で、それまでに起こった出来事があたかも夢だったかのように、あっという間に過ぎ去ってしまいます。
ソリストでは、テノールのボストリッジが非常に優れた歌を聴かせます。
☆ヘレヴェッヘ/コレギウムヴォカーレ/ボストリッジ/ゼーリヒ(1998)
匂やかな合唱がとても美しい演奏。
激しい部分でも音のエッジは柔らかく、決して絶叫にはなりません。それでいて、迫力は少しも損なわれず、聴き手にテクストの本質を訴えかけてきます。
この優れた合唱を中心に、受難の出来事を巡る様々な人間的感情が、大袈裟にならず、丁寧に、細やかに描かれていくのです。
ここで展開されているのは、苛烈な受難のドラマではなく、人間の内面の発見とその罪からの救いであるように思われます。
そして、この音楽を聴いていると、「罪と救い」という問題は、決して教会内やキリスト教の世界に限定されたものではなく、日常に生きる私達の身近に存在するものであることをあらためて感じさせられます。
ボストリッジは、語るエヴァンゲリスト全盛の時代にあって、敢えて旋律線をくっきりと聴かせます。
アリアでは、ショルの歌唱がとりわけ素晴らしく、カウンターテナーによる演奏の中では随一と言えます。
前回の録音に比べると、表現の自由度が増し、器楽アンサンブルの錬度、合唱の自発性ともに驚くべきレベルに達しています。
これは、まったくプロテスタント的ではないのかもしれませんが、とても魅力的な演奏です。
☆鈴木/BCJ/テュルク/コーイ(1999)
エヴァンゲリスト、イエスともに優れ、凛と張りつめた緊張感が演奏全体を支配しています。
過度なドラマ性を排し、その表情は禁欲的ですらありますが、作品への真摯な姿勢が、じわじわと聴き手の心を捉えていきます。
ここでは「演奏する」という行為自体が神の証であり、それは救いの確信へとダイレクトに結びついているように思えます。
そのことは、この演奏に大きな説得力を与えていますが、時に聴き手にとっても、十字架による救いを信じるのか否かという二者択一の問いを突き付けられるような厳しさとして迫ってきます。
合唱は、パレットの色数こそ多くはありませんが、濃淡の浸潤によって墨絵のような美しさを作り出しています。ソリストはバスが弱いほかはおおむね満足できるできばえです。
ブレイズのカウンターテナーの声質はソプラノといっても良いほどで、どこまでも澄み切って軽やかに響きます。
この人の歌を聴いていると、悔いの涙さえも青空の中に溶け込んでいってしまうかのようです。
☆アーノンクール/ウィーンコンツェントゥスムジクス/プレガルディエン/ゲルネ(2000)
海外でも非常に高い評価を得ているアーノンクールの最新録音です。
冒頭合唱が3拍子系の舞曲に聞こえるのはシュライアー以来でしょうか。
アリアと合唱曲の舞曲としての性格を強調する最近の演奏傾向も、この録音によって確立されたように思います。
ここでもゲルネのイエスは素晴らしく、当代一と言っても良いかもしれません。
CD3の余白にバッハの自筆譜が収録されているのも注目です。
○ダウス/バッハアンサンブル/ワグナー/シャイプナー(2000?)
ライブ録音特有の荒さはありますが、合唱中心に高いレベルの演奏です。
特にゆったりと歌われるコラールは印象的。
残念ながらソリストは万全のコンディションではないようです。
○ツー・グッテンベルク/ミュンヘン・クラングフェアヴァルトゥング管/ウルマン/メルテンス(2002)
一聴して、旧録音とのあまりに大きな違いに驚かされます。
冒頭合唱は旧録音の8分39秒に対してこの演奏では6分8秒。以後も新録音は圧倒的な速さで駆け抜けます。
全体の演奏時間は、実にマクリーシュやグッドウィンよりも短いようですので、現時点では最速かもしれません。
速くなっているのは主にアリアで、舞曲としての性格がより強く打ち出されているようです。
そのため、感情の表出をコラールが受け持つ場面が多くなり、合唱と器楽の表現の振り幅は旧録音よりさらに大きくなっていて、有名な受難コラールの第1節では、ノンビブラートのヴァイオリンの強奏があたかもトランペットのように響き渡ります。
あまりにも個性的で好き嫌いは激しいと思いますが、非常に優れた演奏です。
From nekonya To juncoop5@goo at 2004 12/10 23:13 編集 返信
マタイ受難曲9
☆マクリーシュ/ガブリエリ・コンソート/パドモア/ハーヴェイ(2002)
1パート1人のいわゆるOVPPで録音されたマタイで、大きな編成での演奏を聞き慣れた耳には冒頭から新鮮な衝撃があります。
一人ひとりの声がはっきりと分離して聞こえることによって、コラールはよりインティメートな語りかけとなり、合唱もテクストの意味が生々しくリアリティーをもって感じられます。
この衝撃は最後まで薄れることなく、福音史家のパドモアの熱演にも助けられ、非常に興味深く全曲を聴き通すことができました。
従来のマタイの演奏を良く知っておられる方ほど、他の演奏との違いが際立って感じられると思いますので、最初にマクリーシュ盤を聴くよりも、
他の演奏で十分曲に親しんでからこの演奏に触れたほうがよいと思いますが、是非一度はスコアを片手に聴いてみていただきたい演奏です。
☆樋口/明治学院バッハ・アカデミー/大島/小原(2002)
非常に珍しい初稿の録音です。(世界初録音)
第1部終曲が単純な四声体のコラールになっている、第2部冒頭の合唱付アリアAch! nun ist mein Jesus hin!がバスで歌われる等の興味深い変更があります。
演奏は、古楽器による意欲的なアプローチで、器楽のソリストには有名奏者も含まれていますが、歌手陣は必ずしも万全でないのが惜しまれます。