280 :
名無しの笛の踊り:
帽子
西條八十
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷(うすひ)から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
谿底へ落したあの麦藁帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあの時、ずゐぶんくやしかつた、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき、向ふから若い薬売が来ましたつけね、
紺の脚絆(きやはん)に手甲(てつかふ)をした。
そして拾はうとして、ずゐぶん骨折つてくれましたつけね。
けれど、とうとう駄目だつた、
なにしろ深い谿で、それに草が
背たけぐらゐ伸びてゐたんですもの。
母さん、ほんとにあの帽子どうなつたのでせう?
そのとき傍に咲いてゐた車百合の花は
もうとうに枯れちやつたでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。
母さん、そして、きつと今頃は、 今夜あたりは、
あの谿間に、静かに雪がつもつてゐるでせう、
昔、つやつや光つた、あの伊太利(イタリー)麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y(ワイ)・S(エス)といふ頭文字を
埋めるやうに、静かに、寂しく。