先生スレ@クラシック校第11番 Op.14

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280名無しの笛の踊り
帽子
                            西條八十

 母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

 ええ、夏、碓氷(うすひ)から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
 谿底へ落したあの麦藁帽子ですよ。

 母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
 僕はあの時、ずゐぶんくやしかつた、
 だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

 母さん、あのとき、向ふから若い薬売が来ましたつけね、
 紺の脚絆(きやはん)に手甲(てつかふ)をした。
 そして拾はうとして、ずゐぶん骨折つてくれましたつけね。
 けれど、とうとう駄目だつた、
 なにしろ深い谿で、それに草が
 背たけぐらゐ伸びてゐたんですもの。

 母さん、ほんとにあの帽子どうなつたのでせう?
 そのとき傍に咲いてゐた車百合の花は
 もうとうに枯れちやつたでせうね、そして、
 秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
 あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

 母さん、そして、きつと今頃は、  今夜あたりは、
 あの谿間に、静かに雪がつもつてゐるでせう、
 昔、つやつや光つた、あの伊太利(イタリー)麦の帽子と、
 その裏に僕が書いた
 Y(ワイ)・S(エス)といふ頭文字を
 埋めるやうに、静かに、寂しく。