*** クラシック音楽の病理 ***

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「ポピュラー音楽の世紀」まえがき(岩波新書1999)
空前のできごとが相次いだ二十世紀の百年を、いろんな方が分析し、
様々に総括しておられる。僕はこの世紀を”ポピュラー音楽の時代”
として捉えて見た。ポピュラー音楽こそ時代に生きてきた大衆の心
を写す鏡だったのであり、これを見つめることで歴史の基底が明ら
かになると思うからだ。
 
クラシックのような芸術音楽は、純文学や芸術絵画と同じく、基本
的には、傑出した天才の個人的な才能と努力の成果である。それに
対して、民謡のようないわゆる民俗音楽は、多数の名もない一般の
人々が日常生活のなかで生み出すものとされる。ポピュラー音楽の
場合はその両方の要素を持っていて、音楽を直接に作り出すのは特
定の音楽家の才能と努力だとしても、その音楽家はいわば大衆の代
弁者、つまり大衆の聴きたい音楽を彼等に代わって作り出すもので
なければならない。その音楽家と大衆とを結び付けるのが、商品市
場だ。音楽家の作り出した音楽が商品として市場に流通し、大衆に
受け入れられることではじめて成立するところに、ポピュラー音楽
の本質がある。だからもちろん市場経済の存在が前提であり、ポピ
ュラー音楽は市場経済、マスメディア、大衆社会が完成した二十世
紀に特有の現象である。
(つづき)
音楽家と大衆の結び付きは、かなり危うい関係だと言わざるを得な
い。大衆に受け入れられる、とは要するに、売れる、ということで
あって、それは具体的には市場に出した後出の結果にすぎないが、
それが音楽作りにフィードバックされ、売れるような音楽を作ろう
とすることで、音楽家は大衆と、別の言い方をすれば社会と、もし
くは時代と、大きな循環運動の中で一体となる。そこで常に上げら
れるのが、ポピュラー音楽家は売らんが為に大衆に迎合して低俗な
音楽を作りがちだ、という問題だ。だが、大衆は一度はだませても、
何時までもだまし続けることは出来ない。大衆迎合の姿勢はやがて
大衆に背を向けられる結果を招く。だからこそ危うい関係と言った
わけで、そのスリルがポピュラー音楽の魅力であり、それがあるか
らこそポピュラー音楽は長い目で見て、大衆の心を写す鏡といえる
のだ。
 
ダイナミックに動き続けた二十世紀を通じて、世界の様々な部分で、
音楽と大衆、音楽と社会、音楽と時代の関係が、まさに多種多様に
展開されてきた。その実態を探るのが、この本の主目的だ。これは
ポピュラー音楽についての案内とか解説ではなく、新しい見方のヒ
ントを提示する本だと思って欲しい。あるいは好奇心を刺激し、頭
の中を掻き回す本だ。小さな本にしては随分欲張って、音楽の根元
のほうまで突っ込んで問題を掘り下げたから、疑問の全てに丁寧に
答えることは多分出来ていないだろう。でも、問題をきれいに解決
して後になんの疑問も残さないような本よりも、これから考え続け
たくなる宿題を読者に与える本のほうが、ぼくはいい本だと思う。
この本はそんな本にしたつもりだ。
(以下略)