今年も、戦没者追悼の日を迎えた。政府主催の追悼式典は、四十一回目となる。
戦後五十七年になるのに、なぜ四十一回なのか。一九五二年四月二十八日にサンフランシスコ講 和条約が発効して
日本が国家主権・独立を回復するまで、連合国軍総司令部(GHQ)が日本に戦没者を追悼するこ とも許さなかったのが一因だ。
四五年八月十五日には、まだ、日ソ中立条約を破ったソ連が、千島列島から北方領土へと侵攻を 継続していた。
他方で、東京裁判中は、英、仏、蘭によるアジアへの再侵略も「同時進行中」だった。
オランダ軍がインドネシア独立軍と停戦協定を結んだのは、東京裁判終了の翌四九年である。
ベトナム北部のディエンビエンフーでフランス軍が降伏したのは、五四年になってのことだ。
第二次大戦で、日本はアジア「諸国」を侵略したわけではない。
当時の東アジアには、中国、タイのほかは、米、英、仏、蘭などの植民地しかなかった。
大戦突入以前からの日中戦争の継続局面を除けば、日本はこれら「欧米諸国の領土」に侵攻し た、という戦争である。
【東京裁判の再点検を】
この点について、東京裁判のインド代表・パル判事は、欧米諸国には帝国主義行動の歴史に照ら して日本を裁く資格はないとし、
被告全員を無罪とした。しかし、「パル判決書」は、日本が国家主権を回復するまで、GHQにより 報道も出版も禁じられていた。
日本とドイツを同列に並べるというのも間違いであろう。
【平和祈る戦没者追悼】
ともあれ、GHQの言論コントロールの下で進められた東京裁判の「文明の裁き」史観を、改めて再 点検してみる時期ではないだろうか。
東京裁判史観にとらわれている人たちは、しばしば、“日本一国性悪説”的な自虐史観に陥ってし まっている。
いわゆる“従軍慰安婦”問題は、その典型だ。
戦時勤労動員だった女子挺身(ていしん)隊を“慰安婦狩り”のための制度だったかのように歴史 を捏造(ねつぞう)した
一部新聞のキャンペーンなどは、自虐史観の極みというべきだろう