菊地成孔Part9

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>>708さんへ

701です。
説明不足、陳謝。
まず、問題をとても単純化します。きちんと考えても答えが出ない問題を、
私たちは「難しい問題」とは呼ばず、悪問と呼びますよね。そして、きちんと
思考や手順を積み重ねてゆけば最終的には解ける問題、これを私たちは「難問」と
呼びますよね。前者がdelicateな難しさ、後者がdifficult、hardな難しさと
考えてみてください。
さて、大江光の音楽ですが、批評することが難しい音楽、ではなく、コメント
することが難しい音楽、と云い換えてみてください。その難しさというのは、
彼が障害者だったりノーベル文学賞受賞者の息子だったりという、delicate
(びみょー)さに結び付いている。つまり、その「難しさ」は、きちんと考えたり、
何らかの訓練を積んでも解消(クリア)されない「難しさ」ですよね。或いは、
現代音楽。講義ではその代表例として、楽譜の指示通りには弾くことができない、
ピエール・ブーレーズのピアノ・ソナタが挙げられましたが、難しさのための
難しさを追求し、最後にはドグマの袋小路にはまり込んだ現代音楽の難しさも
また、「難問」ではなく「悪問」のそれです。
そして、やはり「難しい」と云われる菊地氏の音楽ですが、それは大江光・
ブーレーズ的な「難しい音楽」とは別の「難しい音楽」なわけです。つまり、
がんがん踊ることや、あの、時に音楽よりも面白すぎるテクストを読んだりする
ことで、菊地氏の音楽は、どんどんその「難しさ」が解消されていきますよね。
つまり、最後には難しさが消えてしまう音楽なわけです。講義の最後で菊地氏
は「DCPRGは難しさの屍体」であると仰有ったのですが、それは、このプロセス
の結果を指しているのだと考えます。

709さん、補足を感謝。