遅れてやってきたジャズとナナシーがライブハウスの扉を開けたのは、
ファーストセットも終わりに近づいたころだった。
ミセス・ベテランの品のない声が、お決まりの「All of me」を思い入れたっぷりに
こねくり回している。
自分の知っている曲だったので、ナナシーは大喜びだった。
「ジャズさん、こういうジャズヴォーカルもいいですねえ!」
ジャズは鼻白んで、つぶやいた。
「【初心者へ注意】この人はジャズではありません」
「え?!どうしてジャズじゃないんですか?おしえて下さい」
珍しく食い下がってくるナナシーに、ジャズは面倒そうに答える。
「客の顔を見てみろよ・・・」
ジャズが顎で指す客達の表情からは、ナナシーでもわかるくらいにはっきりと、
こんなセリフが読み取れた・・・。
「うるせー馬鹿! 帰れ!」
「もうちと気の利いたコピペきぼん」
ナナシーは納得がいかないようすで、
「何故だめなのかなあ・・・いいと思うんですけど。チエ・アヤドを彷彿とさせる
ようで・・・」
「チア・エヤド?誰だ、そりゃ」
「『チエ・アヤド』ですよ。日本を代表する・・・」
「ジャズヴォーカリスト」と言おうとして口ごもったナナシーは、
臆病そうに付け加える。「・・・歌手です。」
「チヤ・エアド?」
「・・・わざとまちがえてるでしょ。チエですチエ!。チ・エ・ア・ヤ・ド!」
ナナシーはテーブルのナプキンを取り、几帳面そうな文字で名前の綴りを書いて、
ジャズに差し出した。
CHIE AYADO
ジャズは、ナプキンに一瞥をくれると、怪訝そうな顔でしばらくその名前に
見入っていたかと思うと、突然ナプキンを破き、細かくちぎり始めた。
「なにするんですか。せっかく書いたのに・・・」
ナナシーは抗議したが、ジャズが何故か真剣な様子で、細かくちぎった紙片を
テーブルの上に並べ始めたのを見て、同じくその手元に見入った。
ステージではファーストセットも終わり、ジャズとナナシーの姿を見つけた
ミュージシャンたちが彼らのテーブルに近寄ってくる。
テーブル上にはナナシーの書いた文字が、別の順序で並べ終えられていた。
ACID O YEAH
「アシッド、オー イェー・・・」
ジャズは喉から搾り出すような低い声でその文字を読み、身体をこわばらせている。
「『アシッド』ってなんなんです?ねえ、ジャズさん・・・」
ジャズは答えない。
「よう、ジャズ、ナナシー。こんなクソライブ、よくやってきたな!」
近寄ってきたスイングが言葉をかけたが、ジャズはテーブルの上の文字を見据えたまま、
動かない。
「いったいどうしたんです?『オーイェー』だと、『O』の後に『H』は要らないんですか??
ねえ、ジャズさん!!」
それでもジャズは答えなかった。