「しんぼる」は神になるための試練を受ける部屋だったってオチでOK?
主人公は神ではない。ある超越的な存在に支配された巨大なシステムの中
で踊らされる“神モドキ”だ。
これは、松本の深層心理がそのまま表現された作品だよ。
映画の各パートは松本本人の人生が象徴(シンボル)化されている。
前半の明るく白い箱(部屋)はテレビ界の象徴。
陰影の無い造形や、下らない単発ギャグが連発される様は今の松本が
テレビをどう見ているかがよく現れている。
主人公はそこの閉塞感が嫌で、何とか脱出を試みるが、なかなか成功しない。
ようやく成功してみると、そこは薄暗い意味不明な部屋だった。
その新たな部屋は松本にとっての映画界の象徴だ。
その薄暗い部屋(“実践”の場)で主人公は白い箱での“修行”の成果を発揮する。
テレビと違い、何の制約も無く、あらゆる表現が可能な映画の世界は松本に
とってまさに、本人を“神モドキ”の地位にまで引き上げる要素を持っていた。
しかし、それはあくまでも、ある巨大な“システム”の支配下でのみ可能な事であり、
つまるところ、その中での主人公が最大限できる事は、その現実を受け入れつつ、
そこで得られる上昇感の中で“踊り続ける”ことのみだった。
実はこの悲しさこそがこの作品の最大の笑い所なのだ。
松本の“笑い”は笑いの対象を決して否定しているわけではない。
このチープな映像で繰り広げられる“上昇”シーンで提示される笑いは、恐らく
「トカゲのおっさん」や「大日本人」で扱われた“哀愁笑い”の延長線の遥か彼方
に設定された笑いなのだ。