【アン・ハサウェイ】レイチェルの結婚 RACHEL GETTING MARRIED【女優開眼】

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54名無シネマ@上映中
昨日見てきました。
希望が無い、救いがないという感想を持った人もいるみたいだけど、私は希望があるラストだと思いました。
希望というか、キムはある種の清々しい諦観みたいなものを得たと思いました。

この映画で、キムはAA集会で「神」に許しを乞いますが、キムにとって母親というのは
神に等しい存在(自分を許してくれるという意味で)だったと思うんです。
父親や姉に再会した当初も「ママはいつくるの?」とやたら気にしていましたし。
美味しい物を用意することでなんとか家族をまとめようとする不器用な父親、
ストレートな愛憎をぶつけてしまう、まだまだ人間的に未熟な姉に比べて、
離婚した母親は、知性的で自由人で思慮深く、懐が深いように描かれています。(中盤までは、ですが。)

そんな母親に、最後の拠り所として縋ったにも関わらず
母親はあろうことか罪を全てキムにかぶせて殴ります。
あの時キムが言っていたのは正論で、16歳のジャンキーの小娘に子守りをさせた
母親の判断ミスがそもそもの原因だったのではというのは見てる観客も感じたと思う。
賢い母は当然、心の奥底ではそれをわかっているでしょう。
キムが「不安定な問題児」でいる間はそれを忘れていられるけど、「正気になりつつあるキム」と
向き合うと当然自分のことも考えなくてはいけないため、キムを拒否し、逃げ出します。
おそらく数年前にあの家庭を捨てて逃げたように・・・。

この母親は自分自身に向き合うことが出来ない、過去の過失を認めることが出来ない弱い弱い人間だった。
神だと思っていた母が神じゃなかった。それどころか自分以上に弱い部分を持っていた。
映画の終盤のキムは、それを悟り、家庭の中の神に縋るのをやめたのだと思います。
そして、キムが求める方法とは違うけれど、父親や姉が彼らなりにキムを受け入れようとしている
不器用な優しさに気づいたのだと思います。
許してくれる全能の神はここにはいない、ならば自分で自分を許せるようにするしかないね、
施設に帰っていくキムはそういう諦観を得て悲しいけれど清々しい表情をしていたように思います。