>>147-150 日本のクズキチガイ団塊売国奴世代、バブル銭ゲバ色ボケ気違い世代に代表される
銭ゲバ平和ボケ世代が日本の国家主権を著しく損壊させ、挙句に日本人3000人拉致
事件とバブル過熱狂乱経済を引き起こした。
日本も1980年代に反共親米独裁軍事政権強権体制に移行し、国家戒厳令で売国奴を粛清すべきだった。
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日本帝国陸軍将校にして、南朝鮮を国家破綻の瀬戸際から生還させた朴正煕は
日本帝国統治下の朝鮮慶尚北道善山郡(現在の亀尾市)で生まれた。
日本国籍のまま満州国軍の新京軍官学校で学び、同校を首席で卒業する。
優秀な成績のため、特に選ばれて日本の陸軍士官学校に留学した。
その後、創氏改名によって高木正雄と名乗った。
1944年に日本の陸軍士官学校を卒業(57期)した。
彼は、大韓民国が独立した後、新たに創設された韓国軍に入隊した。
1961年5月16日、張都暎(当時・陸軍中将)を議長に立てて「軍事革命委員会」
を名乗り、軍事クーデターを起こす(5・16軍事クーデター)。
反共親米、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などを決起の理由とした。
親シナ、親ロシア派が引き起こす政治的騒乱のなか、
軍が突然政治の舞台に踊り出たことは多くを驚かせた。
政権を奪取した朴正煕は「軍事革命委員会」を「国家再建最高会議」と改称した。
自ら議長となり、治安維持と経済改善のためとして国家再建非常措置法を施行。
6月10日には秘密諜報機関・韓国中央情報部(KCIA)を発足させ戒厳令を布いた。
金融凍結、港湾・空港を閉鎖、議会を解散し、政治活動を禁止し、張勉政権の閣
僚を逮捕した。
>>147-150 日本帝国陸軍将校にして、南朝鮮を国家破綻の瀬戸際から生還させた朴正煕は
日本帝国統治下の朝鮮慶尚北道善山郡(現在の亀尾市)で生まれた。
--------------------------その2
強権独裁に抗議するデモが頻繁に起きるようになるが、朴正煕は、これを武力で押さえ込んだ。
また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を目的とした犯罪組織摘発なども行い、「ヤ
クザも敵わぬ朴将軍」と言われるようになる。
1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領の尹?善を破り、自らが大統領の座に就く。
1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本条約)。
日韓基本条約は「植民地支配の清算を何ら迫っていないものである」との大学生に市民も加わっ
た韓国民と野党議員たちの大きな反対を押し切り、日本との条約が締結された。また、その後、
アメリカに追随してベトナム戦争への派兵も決定する
軍備増強・経済基盤の建設を優先した。軍人としては珍しく強い経済マインドをも
つ人物だった。クーデター直後、最初に着手したのは農村における高利債整理法
(一種の徳政令)であった。
大統領に就任するや国家主導で産業育成をはかるべく財閥や国策企業を通じて、
重工業にカネ、モノを重点的に投入した。これによって作られた代表的なものに浦
項製鉄所がある。この結果、世界最貧国圏から国民所得にして10倍の「漢江の奇
跡」と呼ばれる飛躍的な発展を遂げた。工業化にある程度成功したころには農業の
遅れが目立つようになり、それを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動
を展開し、農村の近代化を果たした。
国内では、10月17日に非常戒厳令を発する(十月維新)など独裁色を強め、金大中
事件に代表されるような中央情報部による強権的な反政府運動弾圧をも行った。
反政府勢力に対する弾圧は執政期全般をとおして苛烈を極めた。