【周防正行】それでもボクはやってない【痴漢冤罪】 第一審
映画全体の評価として、上の方でも書かれてるけど、音響面での工夫がないから
素っ気無い感じで物足りなさが残る。シリアスな場面ならそれをそういうBGMで表現するとか
してくれないと。途中ピアノでちょこちょこやってたくらいだ。
エンディング曲なんて、あーあー歌ってたがあれは雑音だね。
雰囲気“火曜サスペンス”だ。
土曜ワイドでも金曜エンタテイメントでも月曜なんとかでもなく「火曜サスペンス」。
火曜サスペンスでもこの映画ほど地味ではないだろ。
いっそエンディング曲に聖母たちのララバイでも入れてれば様になってたんじゃないかとすら思う。
そういう面では、実際には映画じゃなくて、テレビの2時間ドラマで十分だし、
この作品が最初からテレビドラマとして放送されてても何の違和感がないくらいだ。
まあそんなことはどうでもいいし、映画の本質部分でもない。本質以外のことも大事は大事だけど。
基本的には社会派映画で、日本の司法制度の現実を世の中に訴えるのが主眼になってる。
数年先に陪審員制度導入だから、市民が司法界を知ることは大切だろう。
俳優は全体として素晴らしかった。役所はもちろんのこと、被告人役やその友人、母親とか。
個人的には一人目の方の裁判官。この人はとてもいい味出してた。二人目も良かったけど。
大根の瀬戸も、何とか足引っ張ってなかったのは助かってた。
ただ、時間的な都合があるにしても、いきなり私人逮捕のシーンに入るタイミングが早いし、
被告人の普段の生活から、“不条理な”逮捕にいきつくまでがすっぽり描かれてないために、
“普通の人”が逮捕されるということへの衝撃度が、観客側に全く伝わってこなかった点が問題だ。
映画の評価としては、この映画が日本の裁判制度の現状を取り上げてるのは、
あくまでその目的が制度への批判的意識を涵養する点にあることは言うまでもなく、
それゆえタイトルの「それでも〜やってない」だ。
しかし映画の描き方としては、最初の主人公の“痴漢シーン”は描かれてないわけで、
逮捕シーンで本題=拘束され起訴されてくまでに入ってゆき、
最後に主人公に一人称で彼のアピールを述べさせてる。
その時点でこの映画は、公正中立的視点から離れ、
最終的に被告人の無実を支持する方向へ一挙に流れてしまった。
「ボクは裁判官は最後には正しく真実を見極めてくれると心のどこかで信じていた」と
モノローグさせてるんだけど、被告人がほんとはやってる可能性を考慮するなら、
そのような独白はさせてはいけない。やってたなら、
「裁判は目撃者が名乗り出るなど、終盤からボク優位に進展し、無罪判決の公算が
強まっていた。しかしボクは裁判官が真実を見抜き、ボクの嘘を見透かしてるのでは
ないかと、ずっと恐れていた。そしてその通りになった。だがボクは負けない」
それが心に秘めた被告人の裏のモノローグになる。
本来は『藪の中』のコンセプトなんだから、モノローグは主人公の被告人ではなく、
弁護士か他の誰かにさせるべきだった。でないとここで映画的“真実”が既に語られて、
その文脈上において刑事事件の“現実”を語るはめになるではないか。
俺はは司法や法律には詳しくないから、あくまで将来の陪審員候補という立場から主張させてもらうが。
そもそも日本の司法のまずしい現状を訴えてる以上は、扱う事例が、
「被告人の不条理な現実」になるわけで、そのため、無実濃厚なのに逮捕起訴有罪
になるケースでなきゃ観客の肩入れを期待できず目的を達しない。
だからこの映画を評価する上では、陪審員制度導入という近い将来のことも勘案して、
判決自体の正当性を論じるより他はない。
しかしこの映画は、本来、架空の設定で作り上げた裁判劇が相応しかったのを、
現実にあった刑事事件を材料にしてしまってるため、
映画を論じる上で、既に無罪になってる実在の刑事被告人が
有罪か無罪か議論することを避けて通れないと思う。
これは、実際の事件で社会的アピールした映画制作者側の問題だ。
映画を論じる以上、実際の被告人への誹謗につながってしまうが、
あくまで映画内の被疑者への批評ということで許してもらうより他ないね。
もし有罪だと考えるなら、日本の司法の“問題点”なるものは、大部分が言いがかりだという
方向に傾斜してしまう。
もちろん、そこに至るまでの逮捕・拘禁から起訴に至る、被疑者への非人間的扱いの問題はあろう。
逮捕された時点ではあくまで推定無罪なんだから、被疑者を入れてる拘置所の豚小屋状態は
無茶だし、それから検察に護送されて、人が脇にいる状態で糞便させられたりと耐え難いものがある。
あれを見ると、決して逮捕されてはいけないなと思った。へたすると人格が崩壊する。
逆に言うと、そのような屈辱的現実を体験させることで、被疑者に自白を促す効果を求めてるんだろう。
次に、罪状認否で否認して裁判にまでゆくケースでも、速やかに被疑者を保釈する必要がある。
人質司法みたいなやり方では損得計算すれば、無実でも取引した方が得だとなってしまう。
即座の保釈を認めない理由としての証拠隠滅や逃亡、被害者への脅迫などは
全く考えられないし、これは全く論外だ。
そして裁判について。
個人的に、この人は間違いなく痴漢行為をやったと考える。
それゆれ試写会後の模擬投票だけど、躊躇無く“有罪”投票させていただいた。
★被告人の不利の条件を考えてみる。
・被告人は会社の面接へ行く途上、中途に電車を降りて履歴書の存在を確認し、
忘れたことを知りながら再び急いで電車に飛び乗り、
その際、最後尾の女性の存在に気付いたかどうかはともかく
その真後ろで(背面ではなく)女性の背後に覆いかぶさる形で乗車している。
・次駅で開くドアに挟まれた背広を引き抜くために10分もの間、不自然に格闘している。
・前の女性を痴漢するのに自分の左の中年男性が自分の前をまわして
手を伸ばしてたなら当然気付くはずなのに気付かなかったと主張している。
・女性が「やめて下さい」と声を上げ、“犯人”の手をつかまえ、引っ張りあってることにも
気付かなかった。一つ先のドア前で、座席乗客の頭越しで見てた男性や、
右女性でも痴漢騒動知ってたのに、被告人だけ気付かなかったのはおかしい。
普通は気付いて、しかも状況を俯瞰すれば自分の左隣の男性が犯人だとすぐ認識できたはずだ。
自己防衛上も、その後は左男性を注意深く観察したはず。そしてそいつが“逃げる”のも防げた。
むしろ左の中年男性は、男性が「すみません」と言ってたり、もぞもぞしてるもんだから、
被告人が痴漢だと感じてただろう、下車後に拘束されて安心して去って行ったに違いない。
・しかもその声が、背広引き抜く格闘で右女性に迷惑がられて
謝った現実があるのに、被害女性から自分への批難だとも考えなかったと証言したのは不自然。
もし痴漢騒動を知らないなら、それは自分に向けられた言葉だと取るのが自然。
その点で、二番手裁判官の質問は実に革新を突いたものだった。
・被告人は検事、女性弁護士から、「次の駅でドアは開くのに、なぜ背広抜くのにこだわったのか?」
と聞かれた際、いずれも回答に窮していた。
・被告人の自宅から痴漢AV系DVDが押収されたのは偶然にしては出来すぎてる。
痴漢系AVは必ずしも男性一般の関心対象だとは言えない。
★被告人有利の条件
・被害者は真後ろに手を引いたと証言し、その途中で一旦手を見失ってるため、
被告人との手の同一性が確保されない。
※女子高生も気が動転してるし、告発するには大変な勇気を要する。完璧な証言を期待するのは難しいし、
若干の認識違いが起こるのは当然。しかも真後ろに引いたかどうかは決定的な問題じゃない。
むしろ犯人なら真後ろに引くより、自分の左手前に引いて、別の人間の犯行と思わせる方向に走る。
被疑者の「真後ろ証言」は被告人を助けたくらいだ。
・被害者は目撃証言女性は、被告人が怪しい動きをしたと証言したと、その後間違いだと確認された証言
をしてることから、その証言内容の信憑性に疑問が生じる。
※その点は男性目撃者も同様の証言をしてるのだし、女子高生証言の信憑性にだけ収斂させるのは疑問だ。
男性目撃者は利害関係ではないし嘘の証言する必要もない。
映画では女性目撃者が駅構内でどう発言したのか尋問させてないため不明だが、
女性目撃者だって記憶違いしてる可能性がある。「被疑者は背広を引っ張ってただけ」としながらも、
女子高生が一生懸命訴えてるのを見て「動きは怪しかった」とその場で安易に同調証言してたかも知れない。
・背広を抜こうとなぜかいつまでも必死だったかの理由は、途中下車したため、開閉ドアが反対側に移行し、
認識の錯誤が生じた、そのため挟んだドアが次駅では開かないものだと錯覚していたためだと証言、
それに気付いたのは、再現撮影中に、電車の進行方向を改めて再確認した後だった。
※この点のおかしさは、本人が当時無意識に引っ張ってたことの理由を、後に理詰めで考えなくちゃ
いけない状態になってる点。おそらく拘置所とかで必死になって理屈を“創作”したんだろう。
なぜ引っ張ってたかは、聞かれてすぐ、その当時思ってたことを直下に回答できなければおかしい。
「次の駅で開かないものだと勘違いしてた、挟まったままだと面接で遅れる」と。
再現VTRの件から話を広げると、
まずVTRが弁護側だけで作られてるのは問題で、検事サイドも作成するべきだった。
真後ろではなく、左前に引く実験も対抗して作成するべきだ。そしたらドアにぶつかる音もなく引けたはず。
次に右男性が超満員で被告人前に手を伸ばして痴漢するのを、被告人ポジションで気付くかどうかは、
被告人自身に語らせても無意味で、全く別の人間で確かめる必要がある。
別の論点としては、
警察がマネキンサイズを正確に調達してなかった点はともかく、
映画冒頭の別のサラリーマン痴漢犯の時に出てた、手についてるかも知れない衣服繊維の検出作業
を被告人に対し施さなかったのは、
その検出作業が一般的に全く効果がないというデータからして、
被疑者に自白を促す上でのギミックにすぎないわけで、
むしろ警察側の不手際だと法廷で叱責してるのは筋違いだった。
その論点から見ても、痴漢行為の犯罪立証というのは、被疑者・被告人の供述や被害者の証言など、
物的証拠のまるでない、曖昧な事実認定にならざるを得ない側面は否定し難い。
しかしながら、被疑者の自白を得られない痴漢行為を立件することを一切放棄するならともかく、
いくら疑わしきは被告人の利益に、とは言え、そうなれば法秩序はむしろ野放図になる。
水準以上の疑惑であれば立件されるのはやむを得ないし、
その判断材料において裁判官が判定するのは当然だろう。
刑事事件の有罪確率99.9%の現実は、被疑者圧倒的不利の悪環境なのではなく、
日本ではそもそも推定無罪原則が行き過ぎてるために、検察段階で刑事案件が極めて妥当に処理
されてふるいにかけてもらえてる結果だといえる。取りえず怪しければ立件して、
裁判所が事実認定に合理的疑いを入れてゆくという方式で有罪確率が下がったら、
無実で立件される人間は逆に激増する。
有罪確率99.9%のため、裁判官が有罪判決出す方が楽で、責任回避だというのはおかしいと思う。
日本ではむしろ冤罪は少ないんじゃないか?検察は負けるのが嫌なので、
怪しいケースでは立件を断念するケースが多いはずだ。
オーストラリアで、旅行バッグに知らずに麻薬入れられ密売容疑で逮捕された日本人が無罪
訴えてる問題がメディアで取り上げられてたことがあったが、日本では無罪になるだろう。
東京地裁の藤山雅行が行政敗訴連発して「国敗れて三部あり」と言われたり、
人権派弁護士が無罪勝ち取ったものの、後に実際に連続殺人犯だったとばれた小野悦男を無罪にした
のは、かねてから無罪病裁判官と言われてた人だったが、
被告人が否認してるケースでは100%有罪だと思えるケースは例外なんだから、
無罪にするのは勇気がいるどころか、有罪にする方が厳しい決断がいるのではないか?
たとえばちょうどこの映画が成立し、一部で支持されてる点から見ても、
もし裁判で観客・市民の判断を求めるなら、
陪審制度などは陪審員の全員一致方式だから、およそ無実を訴える犯人を有罪に持ち込むのは
かなり困難になるのではないかと思われる。
俺ははこの主人公被告人を「有罪」だと認定したが、観客は映画のアピールに誘導されて「無罪」判定
が多くなってるのではないか?是非、アンケート投票の結果を公表していただきたいものだ。
つまり、ここにこの映画の致命的なトリックや欺瞞が隠されてて、
本来、検察のあり方に対してなされる批判が、あたかも裁判そのものの不当性批判へとミスリード
されてしまってるんだよ。
検察が「疑わしきは罰する」の方針で立件し、それを裁判所が「疑わしきは罰せず」の精神で裁いた場合に、
はじめて裁判における均衡が成立する。
ところが日本では検察が起訴権を独占してて、彼らは個々の検察が自分の出世のために
事実認定を厳格にし、そこに合理的疑いがあれば敗訴するリスクを先読みし、立件を断念する。
そしてそこでほとんど司法的最終判断が確定している。
だからのちの裁判は検察の見落としを検証するためだけの作業でしかないから、
結果として「有罪確率は99.9%」だ。
その上、非訴訟社会の日本では示談が多い。被告弁護側がやばいと感じたら示談解決を目指すし、
被害者側も裁判がメンドクサイから金で済ます方向に走るんで、争われるケースは、
当事者が円満解決を放棄したケースのみでもある。
ところがこの映画は最初に「有罪確率は99.9%」という象徴的な数字を提示してるために、
あたかも裁判は被告人、弁護側の主張を一切無視した中世さながらの暗黒裁判であるかのごとく
誘導してしまっている。そしてダメ押しに映画タイトルの「それでも〜やってない」ときちゃってる。
仮に前提条件を知らない外国人がタイトルとその数字を見れば驚愕するだろう。
そうではなくて、日本の裁判はむしろ被疑者側が圧倒的に有利になってるんだよ。
だから被害者がむしろ泣き寝入りしてるのが実態だ。事実認定に疑問があれば被疑者は起訴されない。
そこで検察審査会というシステムがあり、そこで検察に方針に意義を申し立てる。
何とか加害者を起訴させようと頑張る人らもいるわけだ。
だからむしろ日本においては、検察に立件方針への批判は、
この映画の路線とは正反対に、検察が容疑者をきちんと立件してくれないことへの批判が中心に据えられる
べきだったんだ。だから痴漢男が起訴されない、それは不当だと女子高生側が検察審査会に意義申し立てする、
そういうストーリーなら俺は共感してただろう。
それを「有罪確率は99.9%」という悪質なミスリードでもって、
あたかも判決自体が不当だったかの言い草にしてるのは許し難いことだ。
それと裁判官の描き方も問題だ。裁判官が一人目と二人目とで対照的に描かれてる。
一人目は傍聴客に便宜を尽くし、被告人に優しく問いかけ、さらに裁判所室みたいなとこで、
“疑わしきは罰せずが使命”だと発言させて超善人として描き、
裁判官の交代は、一人目を映画的文脈では“無罪病裁判官”であり、それが理由で交代を強いられたと
印象付け、二人目は裁判中に居眠りさせてる。居眠りはよく聞くエピソードだけど、
司法界のエピソードをてんこ盛りする目的で、この痴漢裁判映画に強引に持ち込んでやしないか?
もし居眠りエピソードを入れたいんだったら、一人目の裁判官でも良かったし、
もう一人、別の痴漢冤罪犯に有罪判決出してた裁判官にやらせてても良かったはずだ。
それに居眠りが何か悪いのか?別に悪くないだろ。裁判官だって仕事に忙殺されてる。
居眠りしてしまう時だってあるだろそりゃ。
それとな、裁判官の交替により、判決の方向性が間逆になったかの如く描いてるこの映画を、
日弁連がサポートしてるわけだ。
ところが第二東京弁護士会会長が、過去、こういう声明を出してるんだよね。
小野悦男事件に関する会長声明
ttp://niben.jp/13data/1999data/seimei-onojiken.html 内容は、一部報道機関が、
裁判所が猟奇犯罪者に過去無罪判決を出して野放しにしてしまったが、
判決書いた奴は無罪病裁判官だった、と報じてるがそれはけしからん報道だ、
無罪判決は、事実認定への合理的疑いがあったから出したにすぎない、
裁判官を色分けすることで判決価値にいちゃんもんつけんなと。
しかしそこにいんちきがある。同じ証拠資料でも裁判官によって有罪無罪と違ってるくるのは
紛れもない事実だ。だからこそこの映画は裁判官の交代を重要な事実として描いてる。
だから日弁連たるもの、過去の弁護士協会等における言動との整合性に鑑みて、
この映画をサポートする場合に、いくつかの留保条件をつけておくのは当然ではないか?
裁判への疑問は、あくまで事実認定への疑問が全てであるべきで、
従ってそれ以外の要素を盛り込むのは、他の判決の信頼に疑問を生じさせると。
でなければいくつかの裁判で、裁判官の“性質”が判決を歪めてしまい、
被告人優位にしてしまうケースへの批判が出されることを甘受するべきだね。
一つの観点として、
かように、ある種の刑事裁判においては、事実認定に困難が伴う、
しかし基本は微罪で、迷惑防止条例程度の微罪なら罰金と示談で事が済む。
ならばそれで済ますと同時に、
普段から瓜田に靴を納れずの精神で、
満員電車内では一切女性の側には行かない、女性側に満員押し込みなら逃げる、
逃げる時間的余裕ないなら背中側から乗る、混雑してるなら手を上に挙げる、
などの自己防衛が必要で、怠った人間はそれ自体が罪だと諦めるしかない。
たとえばアメリカの大学では、教授が個室に女子学生を入れる場合は、ドアを開いたままに
するように求めるそうだ。でないとのちにセクハラ騒動に巻き込まれる。
別の観点として、
そもそも超満員電車みたいな状態が放置されてること自体が社会的問題と見るべきで、
通勤電車なら、連結車両を増やして、ホーム内で一定数収容したら少し前進させ、
その後、後続車両に残りを収容して発車させるなどして満員状態を緩和するなど、
交通行政の怠慢を放置した結果への社会的問題及び司法への間接波及なんだから、
何もかも司法の問題として語るべきじゃない。
痴漢裁判が日本司法の問題点を集約してると言うが、満員電車内痴漢がそもそも
日本社会の病理で、もし同様の状態が他国に存在したら、
同じような司法問題が浮上するのではないかと思われる。
日本では示談が多いから、むしろ他国のでは立件ケースが乱発されてるはず。
映画裁判に話を戻し、被告人の行状を頭から遡って説明してみよう。
被告人は友人からAVを貸し借りする関係だった。そして痴漢シリーズを入手した。
それにより痴漢行為への潜在欲望が誘発され強化されていた。
被告人は履歴書を用意し就職面接のため会社に向う予定だったが、
気が進まず断念、面接よりも痴漢行為への欲求を優先することにした。
痴漢目的の電車利用の口実に、面接の件を使えると考えていた。
可愛い女性と接近することを望んでいたが当初はかなわず、
そのため一旦下車して次のタイミングを求めてると、
ちょうど問題の女性がドア際に立っており、求めて飛び乗り、自身の正面を
女性に這う形に持ち込んだ。
(面接に行くのに履歴書を忘れるとは到底思えない、取りに帰ると間に合わないなら、
そのまま急いだという言い訳もしらじらしい)
ドアが閉まった時、自分の背広が挟まってることに気付いて外そうとした。
その状況を、痴漢行為に及ぶのに非常に好都合だと判断し、
背広を外すためにもぞもぞしてるふりをして、右隣女性に謝ることで精神的“アリバイ”
を形成し、痴漢行為のカムフラージュを企てた。
進行方向への慣性が働いて、減速時に乗客は左側(被告人の背中を後ろから見る方向に向いて
左側方向)に流される。従って平常時には右方向にスペースを押し戻す必要を強いられるため、
左隣男性が自分を強く押してきたりして、被告が、被害者の真後ろポジションなのに、
右手で触るために左斜め後ろの好痴漢ポジションを維持するのは楽ではなかったが。
(この電車の進行方向の問題は、のちに法廷で開閉側ドア錯誤の言い訳に使ったが、
むしろ左側男性が自分を“不必要に押してきた”ことを説明できる理由にするのに相応しい)
そして方や右女性に背広引っ張るふりを演じながら、実は痴漢行為を10分にも及んで
行ったのだ。しかし女子高生の勇気ある行為により、痴漢の魔の手は拘束され、
「やめてください!」と悲鳴が上がった。もちろん被告人は即座に、
その声が自分に向けられたことを理解し、自分の“危険な状況”を察知した。
(もちろん、右隣女性とは違い、背広を引き抜く際の行為ではなく、
自分がやった痴漢行為への糾弾なのは言うまでもない。)
同時に、右女性に気付かれないよう手を外す上で、体の前で、時計回りで腕を回転
させて見事外すのに成功したわけだ。(女子高生は動転し、興奮した精神状況で、
体をよじり、最後は頭で手の逃げる方向を追ったため、当然、手は“真後ろ”に逃げたように
錯覚している。)なんとか助かった被告人は、もはや背広をドアから引き抜く緊急性を失って
いた。なぜならドアは次の駅で開くからだ。幸い女子高生はもう騒がない。
自分の手も探さない。それならこの先は女子高生を刺激しないように努めようと、
身じろぎもせずに息を潜めていた。(女子高生の声に気付かなかったふりをするなら、
依然、背広を引き抜く作業を続けなきゃいけない。なぜなら「ドアに背広をつかまれたままで、
面接にいけなくなる」からだ)
もちろん、痴漢犯は紛れもなく自分自身だ、左隣の男性とは目を合わせるのも怖い。
顔を覚えられてもいけない。次駅でドアが開いたら、このまま何もなかったように
さっさと去ろう、そう考えていたのだ。
ところが甘かった。この女子高生は法廷での蚊の泣くような声とは裏腹に、
車両内や構内では鉄の女の如き勇敢さだ。
自分を追いかけ「逮捕」してしまったのだ。
男性同乗者が彼女を助け、駅員がやってきて拘束され、連行されてしまった。
右隣女性が後からやってきて何やら言っている。
「やばいぞ。右女性は背広のことだけ言えばいいものを、動きはちょっと怪しかっただって?
余計なことを追加しやがって。こんな奴は自分の援軍にはなりえない」
被告人はそう考えて右女性を証言者として確保する必要はそれほど感じずに深追いしなかった。
これは結果的に幸いだったか裏目に出たかは、その時点で被告人には良くわからなかった。
女子高生と男性目撃者は、自分らで十分、状況証拠が確保できてると判断し、
右女性を留めようとは考えなかった。
こうして被告人は拘置所に収容されるに至ったのである。
以上が俺の見立てである。
なお、これは従前から言明している通り、あくまで映画上の設定だけで導き出した推論であり、
映画が目的とするところの、日本の司法界の現状に対する問題提起に、
一観客として応じたものにすぎず、
その実在モデルに対する司法判断に疑義を挟み、
彼への私的制裁としての“有罪認定”を目的にしたものではないので、
名誉毀損その他で、実在モデルやその関係者が、
リアルでの法的措置を講じるのは一切やめていただきたい。
作品として世に問うた以上、その中身が論じられるのは当然のことで、
それは関係者が自らの意思で選んだことである。
ここまでで長文投稿は終わりですんで、
邪魔な人は一切スルーで済まして下さいね。
>そういう面では、実際には映画じゃなくて、テレビの2時間ドラマで十分だし、
>この作品が最初からテレビドラマとして放送されてても何の違和感がないくらいだ。
やっぱそうなんんか・・・?
いや、これかなり本質的な部分で減点対称だろ。
劇場でいちいち金とるなよ
486 :
名無シネマ@上映中:2007/01/12(金) 20:10:06 ID:aYlhc+PP
ストーリー説明するだけの映像ならTVと同じだな。
映画の本質ってまさに光と音だと思うのだが
ああ、あと、判決の正当性についてだけど、
まず女子高生が痴漢に遭遇したことそれ自体に疑惑はないだろうと、
誰もが納得できてるはず。
というのは女性は過去に痴漢を警察に訴えたけど無視され、
今度は用心深くなってたからだ。
そして痴漢した奴が実際にいた以上、
犯人は被告人か、被告人の左隣の男性以外にあり得ないことも事実だ。
そうなると、二人のどちらかが犯人なのだ。
被害者が目で犯人の手を追った先の後ろ側に被告が同じ背広色で存在していた。
被告人はもぞもぞと女子高生が痴漢遭遇してる相当時間において、
常に怪しげな行動をしていた、
被告左男性は、被告前に手を入れるのがかなり困難である、
被告は女子高生が挙げた悲鳴が聞こえなかったと
嘘っぽい説明をした、
自宅に痴漢AVを保存していたことによりその種の性的欲求を持っていた、
面接に行くのに新たに履歴書の持参を確認する目的だとして、
不自然に一度下車している、
(新たに、逃げ易い開閉側ドア前に移動うしての女性にへばりつく目的)
以上の数々の疑惑から、
被告を犯人だと認定する上で、
いかなる有力な反証も存在しない。
よって被告の犯行だと認定するのが合理的である。
だから俺は二人目の裁判官が有罪判決を出したのは当然だと思ってて、
新たに見つかった右隣女性の証言はどう処理されるのかと見守ってたら、
判決の朗読内で言及されて「ああ、なるほどな」と納得したわけだ。
考えればまさにその通りなわけで、
右隣女性が「痴漢はこそこそやるもんでしょ?」と証言したけど、
実際にはこそこそやってるんだよ。前女性に対してね。右女性には違うけど。
右女性は右手方向に顔向けてたから、被告人は被害者のやや右斜め後方に
位置取ることで(それは電車を一旦下車して乗車位置を対面ドア側に移し、
車両内の最終乗車客に成り代わることによって得られた)
誰にも気付かれずに尻を触ることができてた。
そして周囲に怪しまれた時は(=右女性に目をつけられた時は)
あたかも背広を引き出す行為であるかのごとく偽装できた。
左男性は被害女性からかなり左側にずれてるから被告人の行動に気付かない。
よって被害者以外には知られずに出来る。
裁判官が「あなたは女性の“やめて下さい”が聞こえなかったと言ったが、それはおかしい!」
という追求は着眼が素晴らしいね、この裁判官。
この裁判官は、出鱈目な人じゃなくて、ちゃんと状況を把握し推測しようと努力してるのが明白。
そういうわけで、判決は不当どころか至って妥当と言わざるを得ない。
それに対して持ちえる疑問があるというなら、
是非ともどなたかか提示していただきたい。